2022 年夏。 東京某所。
日中の気温は 30 ℃を上回る。 かつてのじっとりと汗ばむ夏の暑さとは違う。 窯のなかで焼かれるような全方位的な熱さだ。 カーテンを閉め切った室内でも太陽熱がチクチクと肌を指す。 陽が沈んだあとも上昇し切った気温は一向に下がらない。
私は一日、 冷房の効いた部屋のなかで過ごす。 日中は外出を避け、 夜もエアコンの設置された仕事部屋で寝る。 空調のない寝室からは早々に退却した。 昼間は仕事場として使用する部屋で、 夜、 積み上げられた本の谷間に横たわっていると、 自分が避難民かのような気がしてくる。 3年目に入るコロナ禍下で生きていることを考えればなおさらだ。
業務用 PC を見上げて眠りにつきながら、 以前業務用 PC の下で寝たのは、 東日本大震災の夜、 職場に泊まった時だったと思う。 2011 年当時、 帰宅難民として都心のオフィスビルで夜を明かした私は 11 年後の現在、 自宅で気候変動と世界的感染症の避難民として起居している。 2022 年現在の生活は、 日常が非日常化しており、 両者の境界が揺らいでいる。 しかも、 それを当然と受け止めている。 むしろ、 私個人の生活の範囲内では非日常化した現在の日常の方が生きやすい。 店舗の閉店や生活の困窮を強いられる人々を思うと言葉がないが。
一昨年の春に緊急事態宣言が発令されてから職場の環境はだいぶ変わった。 在宅勤務が制度として認められ、 所員の多くが出勤を控えるようになった。 出勤してもフロアはほとんど空席で、 1年以上顔を合わせていない人も多い。 異様なほど静まり返り、 さながらゴーストタウンのようだ。 最初の頃は律儀に出勤していた所員もここ最近はほとんど姿を見ない。 知らない間に退職していた人もいる。 もともと人間関係のドライな職場だったが、 今では同僚という意識さえ感じられなくなっている。
それを寂しく思う一方で、 職場の人間関係に縛られずにすむ自由を心地よく思う。 在宅勤務制度が終了して同僚たちと毎日顔を合わせなくてはいけない日が来ることを考えると心が重い。 同僚に久しぶりに会った時、 どういう顔をすればいいのかと戸惑うばかりだ。
もともと人に合わせるのが苦手だった性格がこの2年半で助長されたようだ。 今までは企業社会のなかで生きていく上で職業人としての 「仮面」 をつけていた。 外に出た時は社会人の私になりきっていた。 しかし、 家にいる時間が増えるつれて 「仮面」 を維持するのが難しくなっている。 今まで行ってきた仮面維持の努力に苦痛を感じ、 自分が関心のあることに没頭したいという思いが強くなっている。 人は誰しも、 比率の差こそあれ、 社会のなかの自分、 1対1の関係のなかの自分、 自分の世界のなかの自分、 という次元の異なる層を持っている。 ここで 「仮面」 と呼ぶのは、 社会のなかの自分の顔だ。 それは意識的に切り替えるものというより、 環境に応じて自然に立ち上がってくる意識のあり方だ。 しかし最近、 その意識のあり方自体が変容しているように感じる。
自分の心境の変化に戸惑う。 このような変化は私だけなのだろうか。 それとも、 この数年の一般的な現象なのか。 やがて秩序が回復した時、 私たちは、 かつての生活に戻ることができるのだろうか。
何かが変化したのは確かだ。 目に見える変化ではないし、 その中身は人によって異なる。 しかし、 何かが確実に変化している。
あらためて 11 年前のあの日を思い出す。 1年間の無職期間を経て、 大手町で働き始めた直後のことだった。 業界内で名の知れた事務所に就職できて晴れがましい気持ちが抜ける間もなく地震に襲われた。 何事かと思うほどの大きな揺れが収まって窓の外を見ると、 建設中の高層ビルの上部でクレーンがゆらゆらと揺れていた。 眼下の道は徒歩で帰宅しようとする人の波で埋められていた。 私は千葉まで歩くのは無理だと断念して職場に留まった。 ツイッターが広まり始めた頃のことで、 翌朝までツイートを追って過ごしたのを覚えている。 まだスマートフォンは持っていなかった。
それから 11 年間、 ずっと同じ職場で働いている。 流動性の高い業界ということもあり、 11 年の間に何人もの同僚が辞めた。 職場の雰囲気も変わった。 就職当初あった和気あいあいとした雰囲気は時とともに消失した。 私自身、 せっかく仲良くなった人たちが次々と辞めていくのを見て、 関係を作ることが虚しくなり、 同じ事務所で働き続ける理由が分からなくなった。 かつて企業に勤めていた頃に持っていた同僚との仲間意識や愛社精神のようなものはどこにもない。
決して明るい 11 年ではなかった。 いつ仕事がなくなってもおかしくないと思いながら生きてきた。 しかし、 仕事は存続している。 多くの退職者を見送ったが、 残った人は組織の柱となっている。 そういう状況のもとで今回の事態が生じた。 コロナ禍に襲われるという事態が。
コロナ禍以降、 感染症に対応することが最優先される日々がすべてに取って代わる。 それ以前の問題は棚上げにされ、 忘れられた。
しかし、 長い変化のうねりは続いている。 武漢市で発生したウィルスは長い変化の一端に過ぎない。
かつてあった世界は崩壊しつつある。 少なくとも私にとって、 子どもの頃思い描いていた世界、 企業に勤めていた頃信じていたような世界はもうどこにもない。 それは私個人が企業を辞めレールを外れたからというだけの話ではない。 私の選択は時代の一部でもある。 同じような選択を行っている人が世界各所にいる。 レールを外れ、 独り身になり、 既存の秩序から抜け出そうとする人が。 周囲に合わせることに価値を見出せなくなった人、 どのように生きるべきか道すじが見えない人が。
東日本大震災の年に現在の事務所に就職した私にとって、 この職場での年月は、 震災の後遺症とともに歩む時間だった。 そこで私は一つの組織の浮沈を体験した。 何より大きな変化は、 人間関係の変化だった。 技術の変化、 経済環境の変化、 感染症の蔓延といった諸々の事象は人間関係の希薄化をもたらした。 もともとドライな職場ではあったが、 その関係は一層薄情なものになった。 自分を取り巻く関係が変化していくなかで私も変化せざるを得なかった。
私は痛感した。 自分の道は自分で決めるしかないと。 皆それぞれの都合でその人の道を歩んでいくのだから、 ずっと一緒に歩める人はいない。 別れは突然やってくる。 たとえある時期同じ目的を持って時間を共有した仲間であっても、 あっさりと私の人生から消えていく。 だとしたら、 私もまた私の道を行くしかない。 最後は一人なのだ。 仕事やプライベートの具体的な選択においても、 死においても。
最後は一人——思えば、 そのことを私が最初に実感したのは中学生の頃だ。
当時の私は小児喘息を患っていた。 低気圧が上陸するとひどい発作に襲われて夜眠れなかった。 肺がふさがれたようになり、 呼吸ができず、 息を吸うのに必死だった。 仰向けの姿勢は苦しいので、 机につっぷして少しでも空気が吸いやすい態勢を取ろうとした。 また、 アロエを食べたり、 紅茶を飲んだりして、 苦しさを抑えようとした。 戦いは夜を徹して続いた。 眠くてたまらないのに、 力を尽くさないと呼吸できないため眠りに落ちることができず、 もがくばかりの時間。 夜が白み始めてやっと気管支の筋肉が弛緩して呼吸が楽になり、 体が睡眠を許してくれる。 夜を乗り越えることができた時の安堵は格別だった。 生きていることの有難さでいっぱいになった。 その瞬間だけあらゆる悩みが消えた。
死の恐怖と向かい合う夜の時間、 私は一人だった。 母が起きてきて背中をさすってくれることもあったが、 最後まで一緒にいてくれるわけではなかった。 また、 日によっては 「咳がうるさい!」 と怒って私を放って寝てしまうこともあった。 母も疲れていたのだろうが、 私は見捨てられたように感じた。 誰も助けてくれないんだ、 と思うと寂しかったが、 一人で戦い続けるしかなかった。
病気になると思い出す詩がある。 石垣りんの 『その夜』 という詩だ。 以下に引用する。
女ひとり
働いて四十に近い声をきけば
私を横に寝かせて起こさない
重い病気が恋人のようだ。
どんなにうめこうと
心を痛めるしたしい人もここにはいない
三等病室のすみのベッドで
貧しければ親族にも甘えかねた
さみしい心が解けてゆく、
あしたは背骨を手術される
そのとき私はやさしく、 病気に向かっていう
死んでもいいのよ
ねむれない夜の苦しみも
このさき生きてゆくそれにくらべたら
どうして大きいと言えよう
ああ疲れた
ほんとうに疲れた
シーツが黙って差し出す白い手の中で
いたい、 いたい、 とたわむれている
にぎやかな夜は
まるで私ひとりの祝祭日だ。
——詩集 『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』
この詩を読むと喘息と戦った夜を思い出す。 その時私は限りなく一人だった。 しかしそれゆえに、 死と向かい合ったすえの生の喜びを深く感じることができた。 死と戦っている時、 翌朝まで生き延びることがすべてになり、 無意味なものはそぎ落とされる。 「仮面」 をつける余裕もない。 自分が存在そのもののようになる、 その清々しさ。
今私が一人で生きていけるのは、 中学生の時の経験があるからかもしれない。 一人で死と戦ったのだから怖いものは何もない、 という気持ちがどこかにある。 それが最後のところで私を支えている。
死こそは究極の非日常体験だ。 しかも、 それは一回きりしか経験することができない。 逆に言えば、 一回は必ず経験する。 周囲がどれだけ変化しても 「死」 だけは変わらない。 自分が死に向かう存在であると自覚する時、 私はとてつもなく自由な気持ちになる。 それは自分の限界を知ることによる自由だ。 コロナ禍という非日常はそのことを思い出させてくれた。