孤独の座標

連載第8回: 重力——地を這う虫となって

Avatar photo書いた人: K.G.ザムザ
2022.
08.12Fri

重力——地を這う虫となって

仕事に疲れてベランダに出るといつも通りの雑然とした町の上に雄大な空のカンバスが広がる抜けるような薄青の天穹に刷毛でサッとなでた白のストロークが重なる私は二日と同じ形を見せない表情豊かな空の深みに見入る暴力的な熱の攻撃により肌はひりひりと痛むが空はどこまでも穏やかだ視界を飛行機が一機横切っていくおおむね成田からの機だろう下界の混乱とは無関係に悠然とからの空間を直進していく私の心は一気に機上に移動するそこでは忙しい下界とは別様の時間が流れている重力に縛られない独立した時間が空港 A を離陸してから空港 B に着陸するまでの時間飛行機は日常世界の圏外に出る

 しかし私の体は地面に縛りつけられたままだ考えてみるともう何年も飛行機に乗っていない最後に乗ったのはいつだったっけ15 年前に新婚旅行でオーストリアに行った時だろうかいや違うその後今の勤め先に就職する前に 1 人でモロッコに行ったのだったとはいえそれだって 10 年以上前の話だそういえば京都から国内線で帰ってきたこともあったはずだしかしそれも 10 年以上前の話だ

 年 2 回夏と冬に日本とアメリカの東海岸を往復していた大学時代出張でヨーロッパオーストラリアアジア各地に飛んだ新社会人時代の生活を考えると今の生活は驚くほど内向的だ歳をとって保守化したと言われても仕方がないコロナ禍以前から国内旅行にさえも消極的になっていたことを考えるとなおさらだ年々出不精になっているのは確かだ元々ものぐさだったが最近その傾向が一段と強まっている

 とはいえ旅行しなくなったのはものぐさだけが理由ではないまた旅行が嫌いなわけではないかつての出張の多い生活も嫌いではなかった海外旅行の非日常性は刺激的だったし国外に出られることは解放感があった訪問した国々でその国ならではの食べ物を食べ風景を見お土産を買うのは楽しかった成田空港に降り立つたびに現実との落差を感じて息苦しくなった機体が着陸態勢に入り降下して車輪が地面に接する振動を感じるまでの時間自分が否応なく現実に引き戻されるのを感じるシートベルトのサインが消えて通路の両側に並ぶ搭乗員に見送られて機を降りる時心に広がる寂しさを打ち消すように出口に急ぐ到着ロビーから入国審査までの長い通路は現実世界に心を切り替えるための準備期間だ旅の気分はすべて空港で脱ぎ捨てなくてはいけない。 「空の玄関口と呼ばれる空港は二つの世界をつなぐ通路でもある

 空港はどこでもない場所だ日本でありながら日本でない固定されることなく絶えず流動している空と同じで二日と同じ形をとることがないどこにも属さないその人工性が好きだ首都圏で生活する私が利用するのは主に成田空港と羽田空港だがいずれの場合も空港へのアプローチには独特の高揚感があるだだっ広い敷地規模感の異なる格納庫長い滑走路巨大な体育館といった風の伽藍堂の建物広い駐車場と空中のロータリー市街地から空港の敷地に侵入するとき非日常の空間に踏み込んでいることを意識させられる世界中どの空港でもそれは変わらない

 どこでもない場所である空港で私は誰でもない物体になれる一切のアイデンディティから自由な無機質な物体に生活から切り離された人工的な空間である空港では伊豆のバス運転手の娘と本郷の小商店の息子の長女であるという私の出自は意味を失う出身も階層も異なる多様な人々が互いに無関係に行き交うその瞬間だけ場所を共有して

 空港が二つの世界をつなぐ通路であるということはそこに境界線があるということでもあるそれは空港が COVID-19 の水際対策の拠点がであることからも分かるインフローもアウトフローも空港で管理される私自身空港の境界線としての役目を意識させられたことがあるアメリカに出張するために出国審査を通ろうとして差し止められた時だ旅券をチェックした係員に止められ隣の取調室に連れ込まれた旅券が失効していたのだ有効期限はまだ先だったので何のことか訳がわからなかった取調室で質問を受けてようやく理解したのは以前渡米した際に旅券を紛失してボストンの領事館で仮発行してもらったことがあったがその時に元の旅券は失効していたということだったそんなことはつゆとも知らずに仮発行した旅券で帰国した私は親切な邦人の手を介して手元に戻ってきた旅券をそのまま使い続けていたしかも出国審査場で捕まった出張の前には問題なく出国していたしかし出国審査で引っかかった以上どう弁明しても出国は認められず私はスーツケースを引きずってすごすごと帰宅するしかなかった

 旅券失効事件以外にも出張にまつわる失敗談には事欠かないとはいえ悪い思い出ばかりではない出張時はせっかくの海外旅行を出来る限り楽しもうと精一杯努力したパリ出張の時はベルサイユ宮殿を訪ねたしシンガポール出張ではケーブルカーでセントーサ島に渡った韓国ではサムギョプサルをご馳走になりシンガポールでは火鍋を食べまくった仕事の重圧を吹き飛ばすかのように遊んだしかしどんなに平気なふりをしようと仕事の重圧は常に意識の片隅にあった出張先のホテルでは翌日の会議の心配でキリキリする胃を抱えて夜中まで資料を準備するのがつねだった出張の醍醐味である一流ホテルの素敵な部屋に泊まりながら仕事さえなければどんなによかっただろうと思ったものだ

 一方で贅の限りを尽くした高級ホテルでの滞在は気分を盛り上げてくれもした

 豪華でスマートな調度に囲まれることによって自分自身が豪華でスマートな人間になったような気分を味わうことができた場所にふさわしく振る舞おうと自分の態度まで変わるのがわかった夜遅くまでコンピュータを睨んで唸っている点では家にいる時と変わらなかったが東京の狭い一室で仕事をするとのは訳が違った映画の中の登場人物になったような気分だった

 高級ホテルという洗練の極みのような装置は泥臭い現実から私を切り離してくれた私の中にある土着性を消し去ってくれたホテルの中にいる限り絡みつくような田舎の因習的な人間関係洗練から程遠い家族貧相な住宅事情ぎゅう詰めの通勤電車といった現実は私とは無関係だというふりをすることができた

 ホテルの一室で滑らかな大理石の浴槽に浸りながら休みごとに訪れた漬物くさい田舎の祖父母の家を思い出して随分遠くに来たものだと思ったホテルは祖父母の経営していた田舎の民宿とは対極の存在だった同じ宿泊施設だとは思えないほどに何より高級ホテルには生活臭というものがない

 高級ホテルが提供するような人工的な装置のもつ効果は以前から実感していたというのも勤務先の海浜幕張のオフィス自体がそのような効果を持っていたからだ就職活動で海浜幕張の地を訪れた時異様に興奮したのを覚えているその人工的な都市に軍艦のような威圧的な社屋に世界征服でもするような気持ちで面接に臨んだその建物で働いた 6 年間会社の立派な設備は私の誇りの源であり続けた私がその組織の一部であることの誇り会社の提供する最新設備への誇りは仕事の大きなモチベーションだった会社は私に私の望む自己イメージバリバリ仕事をするスマートな女性というイメージを与えてくれた自分の中にある土着的なものを否定する力を与えてくれた

 しかしそれらはすべて会社の力だった私は単に虎の威を借りているに過ぎず私自身はなんの能力も持っていなかった下駄を履かされているに過ぎないことは誰より自分自身が痛感していた時が経つにつれて私は空虚さを感じるようになった不安になった自らの置かれている状況と実態とのギャップに。 「元々人の借着をして威張っているのだから内心は不安という私の個人主義の中の漱石の言葉はその時の私の状態をぴたりと言い当てている私は自分に中身がないことを痛感しどうにかしなくてはいけないと焦ったそのままでは駄目になってしまういつまで経ってもいい加減な生き方しかできないと

 企業を退職したのは焦りの気持ちが飽和点に達した時だった

  15 年前のことだ退職したはいいけれどその先どうすればいいのかなんの考えもなかった

 あれから 15 年の月日が流れた中身を求めて右往左往する 15 年間だったそもそもどのようにして答えに辿り着けばいいのかさえ分かっていなかった

  15 年を経た今私は変わることができたのか中身のなさを克服することができたのか

 答えはイエスでありノーでもあるなんとも歯切れの悪い答えだが他に言いようがない

 正直に言えばいまだに中身がないことに変わりはないあるとしても中途半端だでも以前のようにはそのことを気にしていない時間は有限だと気づいたからだ自分が生きられる時間は限られているその時間の中で望むような中身を得ることはできないそれは私の能力の問題ではなく時間が足りないからだその意味で言えば時間は誰もに平等に与えられている限られた時間の中で成し遂げられることは限られているだとしたら成し遂げたいことのためにできる限りの時間を使いたいそれ以外のことで時間を無駄にしたくない単純にそう思う

 夏目漱石は自己本位の言葉を得ることによって強くなったと語るが私は時間の有限性に気づくことで自由になった各人はその人の持っているものに応じて進むしかないという認識は私を自由にしてくれた各人の制限の中で自分を少しでも前進させるしかなく始点も終点も人によって異なる今の私は人の借着をして威張る必要がない答えの出ない問題を問い続け思考を一歩一歩積み重ねていくことに生きている実感を得ている辿り着く先がほんの数メートル先でしかないとしてもそれでいいと思う

 機上から下界を見下ろすのも楽しいが地を這う虫のように頭上の飛行機を見上げつつ一歩一歩自分の踏みしめた地面を確認しながら歩いていくのが最も自分らしい生き方のように思える


専門職(法律)ときどき文筆家。合法的な宇宙人。
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