子どもの頃、 体育が苦手でした。 本来はそれぞれの発達度合いによってグループ分けし、 わたしのような子どもにはまずルールを読みとって従うなどの、 基礎的な社会スキルの訓練をさせる必要があったはずです。 体育はその上で行うべき応用科目でした。 身体の相互作用にもとづいて成立する高度なコミュニケーションを学ぶ場だからです。 おそらくいまの学校教育でもそうした観点は抜け落ちたままでしょう。 社会的に有利な身体であることに慣れすぎて、 異なる立場にまで考えが至らないのかもしれません。 どんな身体にも尊重されるべき人間性が備わっています。 さまざまな人間が互いの価値を損なわずに折り合いをつけていく方法が見出されねばなりません。 それは教育でしか得られないものです。
社会において個人の身体は往々にして、 人間性とはかかわりのない文脈ではかられます。 暴力の被害者を黙らせようとしたり、 被害者に罪を負わせたりするのは紛れもない暴力です。 自分らしくあることが社会生活で制限されるのは望ましくありませんし、 自分自身の持ち物である身体を、 他人に値踏みされる謂われもありません。 社会的に抑圧された身体の当事者が、 みずからの身体性で抑圧者を圧倒し、 エンパワメントするのは健全なことです。 しかしながら大勢の異なる人間が折り合っていくためには、 実際問題、 制限しなければならないこともあります。 そのように運営される社会で生きる以上、 身体を肯定する前提に他者の視線が求められるのも避けられません。 従ってエンパワメントであれなんであれ、 現実に身体性を堂々と主張できるのは、 社会的に美しいとされるひとびとに限られるように思えます。
わたしが身体性を主張すれば、 逆にひとびとの権利を脅かすでしょう。 身体性にまつわる逸話から説き起こされた記事に言及すること自体が、 そのような暴力と見なされてもおかしくありません。 容姿にせよなんらかの能力にせよ、 他人から肯定的な評価を受けたことがないので、 社会的価値を通貨として成立する身体の取引が、 実感として理解できません。 体型を変えれば自己肯定感を向上させられるのであれば、 その努力や、 成し遂げた価値は肯定されるべきです。 また他人の視線で惨めになるのであれば、 極力だれともかかわらずに生きるのもひとつの方法でしょう。 社会的に見てあらゆる能力や価値のない身体の持主が、 そうであっても人生を肯定する方法をずっと考えています。