権力が望むものばかり見せられるのが我慢ならない。 それが若者を売春や自殺や闇バイトの棄て駒へ追いやり米国人に議会を襲撃させた。 共感能力を欠いた麻薬中毒の富豪が所有する出会い系サーバにかぎらず、 プラットフォーム企業のやることは民主主義を負け取る前の日本とおなじだ。 だれもがあまりにも権力に操られることを望みすぎる。 従わない者を尻馬に乗って 「淘汰」 することばかり躍起になり、 それで安心していられる連中が理解できない。 ディスカバラビリティを口実にする向きもある。 だからそのディスカバラビリティは何に対して働くのかという話だ。 インターネットでニーズがない、 無価値だとされている無名人のわれわれだろうか。 違うよな。 Bluesky がサーバなりウェブクライアントなりの見本だってのはわかるし分散化のお題目も知ってはいるけれど、 だったらだれでも各々がサーバを自由に気軽に建てられるようにならなければいけないし、 その方向なら人がいないとか定着とかって話になるのはおかしい。 なぜみんながバラバラの個人であることを畏れるのか。 だれかが決めた価値ある人たちを見せつけられて、 淘汰されるだけの自分の無価値を思い知らされるような場所はごめんだ。 Fediverse に繋がる必要はないしプロトコルに互換性はなくて構わない。 自分の場所を自分で確保して見たいものを自分で決めたい。 どこか大きなものに帰属するのが当然の前提である現状が気色悪い。 まずわれわれは一人ひとり別の人間で、 そのことが前提でなければならないのに。 この国はかつてそうしたことのために失敗している。 全体のために個人がいるのではなく個人が寄り集まって社会をつくるのだ。 なのにそれがけしからんという向きがある。 四年前に床蝨のわいた小さすぎる布マスクをありがたがって仏壇に供えたような連中だ (喉元をすぎてだれもが忘れたかもしれないがあの手の連中が若者たちを万歳三唱で送り出したのだ)。 おれは技術ではなく、 民主主義、 人権、 自由意思といったものについて話している。 ソーシャルメディアは現に民主主義社会を分断し混乱させる兵器として使われている。 あるいは自国民の世論をコントロールする手段として⋯⋯いずれにせよ同じことだ。 ソーシャルメディアが担っていたその役割を AI はさらに効率化する。 ひとびとから考える力を奪い、 争わせることがだれの利益になるか。 ひとびとを操ることで利益を得るひとたちがいる。 手段がラジオや映画だった時代に経験したことをわれわれ日本人は忘れている。
前提の論点がだれとも共有できない。 見せられている景色はどんな連中の思惑か。 従わなければ 「笑い物にされ淘汰される」 のはだれの 「ニーズ」 なのか。 共感能力がなく独自のこだわりがある種類のひとたちには、 他人というものが 「自分とは関係なくただ何かをしたり言ったりする影」 みたいに見えている。 だから喩えていうなら、 テレビに不快なものが映ったら消したりチャンネルを変えたりするように、 視界に入る人間が思うがままに動かなかったら、 消したり変えたりしようとする。 父がそういう人間だった。 家系を辿ると明らかに遺伝性のものだったんで、 おれは結婚せず子どもをつくらなかった。 もちろん客観的には 「できなかった」 「する能力がなかった」 (し別にしたくもなかった) だけの話だけれど、 できなかった理由は父や母にあるので、 おれにとってはおなじことだ。 家族については離れればいいだけで、 離れても一生つきまとう問題はさておき、 とりあえずは解決した。 問題はそのような人物は世の中に大勢いて、 生きていくからにはどうしてもかかわらなければならないことだ。 往々にしてそうした人物が世の中を動かし、 大衆が拍手喝采したりする⋯⋯直立不動で右手を高く差し上げたり、 愛嬌のある指導者であるかのようにミームの題材にして親近感を演出したり、 あるいは M からはじまる四文字を刺繍した赤い帽子をかぶったりなんかしたりして。 心を持たないそうした人物は自分を唯一にして絶対の正義とみなし、 他人をばかにして (ただ何かをしたりいったりするだけの影だから)、 完璧に思っている自己像や筋の通らない独自のこだわりと異なることを指摘されると、 意のままに従わねばならない相手から攻撃された、 と捉えて逆上する。 ありのままの正しい自分に世間はひれ伏さねばならぬという強烈なこだわりがあって、 それに反することが生じると攻撃とみなす。 快いものだけを映し出さなければいけないテレビが自分に逆らった、 みたいな捉え方をする。 怒った蜂みたいなもんだ。 窓に体当たりをくり返す蜂を外に逃がしてやろうとすると、 攻撃とみなされて刺される。 でもそんな人物のほうが現代社会では生きやすいようだ、 その証拠に世界でいちばんの富豪はまさにそのタイプだ。 そのような人物が弱者から土地や家や生活を奪うとき、 世間のひとびとは尻馬に乗る。 おこぼれにあずかれるからだ。
フィリップ・K・ディックが作中で幾たびも書いたように、 人間らしさの本質は共感能力にある。 そしてその能力の基礎は、 世界の無秩序な情報の混沌において、 (感覚器官との相互作用による経験を積み重ねることで) 一貫した意味を見いだす認知の枠組にある。 感覚器官との相互作用を持たない AI にはそれがない。 物事に筋の通った意味を見いだすことができない。 社会に生きるうえでの悦びや生きづらさの積み重ねに基づく独自の視点がない。 あくまで統計的な頻度でもっともらしく再現するだけだ。 人間とは生きるとはいかなるものかを理解していない。 だから指の数や瞳孔の形状がおかしい奇怪な人物画を描いたりするし、 心のある人間ならしないような歪な判断をしたりする。 ある種のひとびともそうで、 たとえば往来のざわめきから目の前の人物が話す言葉を聞き分けることができず、 騒音の洪水のように感じて恐慌状態になったり、 心をもつ人間なら当然のように感じ分けられる他人の心情を、 そこにあるはずの尊重されるべきものとして認識することができない。 多くのひとは言葉や表情の変化や声の調子を読み取り、 そこに心という筋の通った論理を見いだし、 あたかも自分のことであるかのように認識して、 互いにそれを尊重しあおうとする。 それこそが人間にとって重要なことだとの視点 (それまでの積み重ねによって構築された一貫した論理) がある。 生まれたばかりの赤ん坊には理解できずとも、 成長するにつれ通常は、 そうした認知の枠組が形成される。 一方である種のひとびとは、 認知の枠組において感覚器と脳との相互作用が断ち切られている。 経験による学習ができず 「自分以外も生命や感情を持つ尊重されるべき人間である」 という感覚が育つことがない。 だから他人というものが 「自分とは関係なくただ何かをしたり言ったりする影」 みたいに見える。 あたかもテレビに快いものだけを映し出しておこうとするかのように、 不快なものが映ったらチャンネルを変えたり消したりするように、 相手を意のままに操ろうとする。 意のままにならなければ猛烈な悪意を向ける。 そして現代社会で求められるのは心のある人間ではない。 むしろ共感能力は生産性の妨げとなる。 プラットフォームのアルゴリズムを通じて大衆を操りたい権力にとって、 大衆がそれぞれ自分で考えるようになっては都合が悪い。 心のない生産性 (= 権力にとっての 「ニーズ」) 重視の人間こそがプラットフォームのアルゴリズムに適応している。
七年前おれに暴言を吐いた元ジャーナリストを思いだす。 わざわざあんな物言いをしたからには筋金入りのポピュリストだったのだろう。 気に食わない相手を学歴や経歴で威圧し黙らせようとするような人物だった。 その理屈を敷衍すれば議会襲撃事件は、 ソーシャルメディアやロシアの 「ニーズ」 で民主主義を 「笑い物」 にし 「淘汰」 したにすぎない。 民主主義は 「ニーズ」 がないから 「淘汰」 されて当然とみなす価値観の信奉者だったわけだ。 プラットフォームが読者を操作する危険について、 あのときおれは話していた。 かれらが見せたい景色ばかりを見せられ (都合のよしあしによる優先表示と表示機会の抑制)、 押させたいボタンへ誘導させられ、 自分の考えではなくプラットフォームの望むものをいいものであるかのように思わされること。 読書と出版が権力の意のままに変容する危険性。 それにたいして小説は自分が何をどう感じるかと向き合い、 他者や社会とのかかわりを見定める助けとなり得ること。 つまり権力が大衆を操作する手段としてのアルゴリズム (いまではそこに現実的な危険性として AI が加わった) と、 抗う手段としての小説について話していたところ 「権力のニーズにおとなしく従わなければ大衆によって笑いものにされ淘汰される」 「抗えるものなら見せてみろ」 と恫喝され人格否定されたわけだ。 障害者施設殺傷事件の犯人が被害者について語ったことによく似ている。 その発言において権力におもねることをよしとしたかれの主張通り、 抗う手段は実際に笑い物にされこの七年間で完全に淘汰された。 おれが思っていたような小説の概念はこの地上から消失した。 当時すでにおれのいうことに賛同するものはなく孤立無援だったが、 もはや完全に無力だ。 文フリが大盛況で入場料をとらねばならなくなったとか印刷所が仕事を断るほどだとかいった話や、 なむさんの交流の様子からは、 アルゴリズムに最適化された従順さや親近感なじみ感としての素人臭さが 「わかりやすさ」 として尊ばれ、 プロとしての技術に基づく表現が不快なものとして 「淘汰」 されたのがわかる。 そうなるのがわかっていたから七年前に警告し、 別の道を提示したのだが、 いま現実にそうなったような (トロール工場の思惑通りアルゴリズムで扇動されたひとびとが議会を襲撃するような) 社会を実現したいひとたちによって寄ってたかってひねり潰された。 いいんだよ、 素人同士で似ているね、 おなじだねと笑いあう世界も。 その価値を否定するつもりはない。 でも異なる価値を 「笑い物」 にし 「淘汰」 するのはどうかと思うし、 おなじだねで安心したがる心理につけ込み、 利用する連中がいることも忘れてはいけない。 おれがいっているのはそういうことで、 それが元ジャーナリストのような世間の連中は気に入らなかった。 筆名もドメインも変え新生人格 OverDrive として再出発して七年、 おなじことをひとつひとつ、 もうすこしマシにやりなおして、 あの頃よりはうまくやれるかと思ったけれど結局はだれにも理解されなかった。 崖へ突進する豚の群れさながらに、 ポピュリズムによる破滅へなだれ込む社会の前ではおれの努力は完全に無力だった。 小説というものが事実上、 この国から喪われてしまったからには人格否定されるだけなのをわかっていながら必死こいて新しいものを書く意味はない。 何もかも完全に手遅れだ。 そんなことよりこれからは自己満足に特化した楽しみを目指したい。
本が手元に届いて致命的なミスに気づいた、 背表紙に著者名がない。 孫の顔写真をチョコレートの包装に印刷するような、 いちど手にとって眺めたきりしまいこんで忘れてしまうピタゴラ装置的な酔狂にすぎないのでどうでもいいといえばいいが。
『Pの刺激』 の続編である 『ガラスの泡』 は自分でも気色悪いと思ったので外したが、 もう一冊と厚みを揃えるためには収録すべきだったかもしれない。