35 年ぶりに読みかえした。 おれは東北人だし、 侵攻され虐殺される小さな独立国の結末がいまに重なるような気がした。 その暴力を DV 作家がどのように書いたかも改めて確かめたかった。 それがひとつめの動機で、 もうひとつはこの小説が十代のおれに強烈な影響を及ぼしたからだ。 半月前に読んだものの筋すら思い出せないのにこれは一文一文を暗誦できるほど憶えていた。 「よくしてくれた」 が 「よくしっている」 にされていたり 80 年代の井上ひさしなら目くじらを立てそうな 「ら抜き言葉」 が地の文に混入していたり、 組み方にしても注釈ではなく地の文の一部でしかない丸括弧内が小さな文字になっていたりルビの文字組が変に詰まっていたり、 文庫版を底本としたとされる Kindle 版は何かとおかしい。 出版された 2013 年当時はあやしいオーサリング業者が多かったのを思いだす、 知らんけど。
おかしいのは体裁だけではなかった。 この小説における体制への批判や皮肉はソーシャルメディアのマウント合戦とおなじ。 権力を他人が手にしているのが気に喰わないだけ。 リベラルを装いながら実態は家父長制の価値観そのもの、 権威主義を批判するかに装いながらその実自分こそが権威と主張したいだけ。 むしろナショナリズムに親和性があるからこそ、 井上ひさしは国家に気に入られ文化功労者に選ばれたりしたのだろう。 とにかく差別意識ととち狂った特権意識がすごい。 なんで大企業の下請けでしかない自営業者がそんな偉そうなの。 儲けるな副業をするな田植えを手作業でやれとかいった、 小学生に素手で便器磨きをさせる教育者さながらの精神論がひたすら上から目線で垂れ流され、 その虫のいい理想論に主人公であるところの作家先生がいちいち感動してみせる。 東北弁の価値を訴えるのに東京を貶めるのは 10 月 7 日を非難するために小学校や病院を爆撃して女性や子どもを虐殺するようなものだ。
主人公はいまのおれと同年輩 (身長体重までほぼおなじ⋯⋯おれもまた成長期にまともに栄養をとれなかった) のいい歳をした大人でありながら、 認知がひたすらギラギラした性欲で歪んでいて、 しかもその脂ぎった視線は二十代以下の若年者へばかり向けられる。 結末近くには性暴力で女が悦ぶかのような描写まである。 異性の身体に特殊な関心をいだく異性愛者の男のなかには女装した者どうしで性交に及ぶ輩があるらしいし、 女児の身体性をわがものにしたがる成人男性が Vtuber などと呼ばれ持て囃されてもいるようだけれど、 書いた作家が実際にその手の変質者だったのではと疑わせるほど認知が歪んでいる。 そしてそんな異常な代物が娯楽小説としてなんの疑問もなく当時の読者に受け入れられた事実。 当時の読者層である中年男性はみんな異常者だったのか? そうかもしれない。 赴任先や出張先の東南アジアで子どもを買って AIDS を持ち帰った日本のお父さんたちは、 バブルが弾けたのち国内の子どもへ関心を向けるようになり、 そのカジュアルな商業化をもっともらしい理論で正当化したのが新進気鋭の社会学者だった宮台某で、 連中のいう言論の自由とはつまるところそんなものでしかない。
DV 男やぶつかりおじさんや性暴力加害者、 それに煽り運転加害者の精神構造をあたかも標本にしたかのようだ。 主人公の極端に誇張された自己卑下は、 女性を支配・搾取する対象としてしか見ないのと表裏一体。 子どもたちの目の前で夫婦を殺害し裁判官を恫喝した煽り運転加害者が、 一方では油性ペンで落書きされた顔の写真をソーシャルメディアに曝されるいじめ被害者だったとの報道を連想させる。 女を殴る作家が気どる反抗は幼稚な権力闘争でしかなく、 その性的視線は十代の若者どころか小学生にまで執拗に向けられる。 権力を実感するための手段であることを女に求める男にとって、 若く幼いほど支配しやすく都合がよいのだ。 主人公が男性の身体における特定部位の大きさに執拗にこだわるのは井上ひさしにとってそれが権力の象徴だったからなのだろう。 なるほど大企業社員である編集者が原稿のためと称して作家に妻の顔をかたちが変わるほど殴らせる時代の小説だと感心させられる。
当時おれは 13 歳だったので (14 歳だと思っていたがよく思い返したらこの小説の文体を真似た作文で中一の担任に叱られた記憶があった)、 ギラギラした性欲で物事を歪めるのが大人の男ってもんなんだなと誤った学習をしたものだったが、 実際に主人公と同年代になってみればそんなわけはなかった。 せめて技巧的に優れていれば救いがあるのに、 逸脱を重ねるプロットや過剰な言葉遊びがまるでおもしろくない。 意図的な 「書きすぎ」 や言葉遊びを、 枚数水増しによる原稿料稼ぎとしてネタにしてみせるものの、 事実そうでしかないので笑えない。 日本国から逸脱する物語なのだからという理屈はわかるがつまらないものはつまらない。 物語にせよ人物にせよ筋立てにせよ、 主義主張のためのかきわりや道具立てでしかなく、 舞台劇のような体裁で作家の思想を語りたい意図はわかるが駄々滑りしている。 すべてにおいて偉大な文化人の思想なのだから許してもらえるだろうとの甘えがあまりにも露骨に透けて見える。 そしてその肝心の思想とやらが幼稚すぎる上に異常者の歪んだ認知のあらわれでしかない。
さておき、 よくも悪くも⋯⋯というか悪くも悪くも、 というほかないのだがこの胸くその悪い長篇がおれの作風の原型であることは否定できなかった。 社会不適合者が築いたユートピアが権力によって滅ぼされる筋立ては 『ぼっちの帝国』 そのままだし、 社会批判の皮肉や言葉遊び、 メタフィクションの技法は 『GONZO』 そのもの。 とりわけ後者の質感はこびりついた汚物のように似ている。 なるほどおれがきらわれる理由がよくわかった。 今後はこの小説を他山の石としたい。 それにしてもむかしの日本はひどかったものだ、 と驚き呆れてはてブを見たら井上ひさしが書いたのかと思われるような増田が並んでいた。 アルゴリズムは権力に都合がいいものを優先表示する。 何を見せられているかを自覚していればかれらの望む小説は書かずに済むと信じたい。