新しい年がはじまった。 ガザでは女性や子どもたちが四肢をバラバラにされて焼き殺されているし、 ウクライナは退屈な日常のように忘れ去られ、 それらのやり方を興味ぶかげに見守るお隣の大国からは、 いつ何が対岸まで飛び火するかわからない。 ソーシャルメディアと AI のハルシネーションが思考を奪う現代のポピュリズムは、 1930 年代のファシズムに染まったメディアさながらにひとびとを変えた。 起き上がる体力がなくて iPhone をいじっていたら見覚えのない日記アプリがあった、 過去の更新で勝手に入れられたらしい。 Mastodon や WordPress だろうがどこだろうが書き散らすのは自分のためだ。 おれが書くものは他人はまず読まないし、 他人が読むとしたらばかにしたり揚げ足を取ったり上から目線で批難したりするためだけだ。 見ようと思えばだれでも見られる場所に書くことは海へ流す瓶詰めの手紙みたいなもので、 もしかしてだれかに届けばといった幼稚な期待がどこかにあるように思う。 それは甘えだ、 現実には貶められるだけだ。 あるいは知らん他人を不快にさせ迷惑がられるだけだ。 おれは有害な人間だから。 異常者に虐待されて育った人間は遺伝的にも環境的にも有害にならざるを得ない。 糞溜に生まれたら一生臭う。 抜け出すこと這い上がることは決してできない。 一方でおれは Mastodon の見たままの場所に入力できる UI が好きだ、 整理されて表示されるのがいい。 テキストエディタはただ過去から現在に堆積するだけだ、 とっちらかった思考を衝動的に書き散らすのには向かない。 勝手にインストールされた日記アプリを使おうかと思ったが使い勝手がおれの求めるものじゃない。 Mastodon を Mac にインストールすればいいのかもしれないがそれだと出先で iPhone から書くことができない。 フォロワーのみ閲覧可にして完全鎖国にすればいいのか? でもそれもなんか気色悪いというか、 安全な高みから他人を観察して貶める連中がよくやる手なんでそういうことはしたくない。 めんどくさいし。 他人にどう思われようが知ったことではないのでこのままつづける。 勝手に読んでばかにしようが不快になろうが知ったことではない。
長いこと小説を書くためだけに生きてきた。 望んでいた小説が地上から絶滅してどうやって生きていけばいいかわからない。 読むのは辛うじて OK だ、 古いものを読めばいいから。 獅子文六もナボコフもまだ読んでないのがある。 映画だって音楽だって古いのを楽しめる。 ビリー・ワイルダーや黒澤明やボブ・ディランや村八分がいる。 現代のバンドでは The Birthday が好きだったがチバユウスケは死んでしまった。 ルー・リードがいなくなってもうだいぶ経つし、 もしマーティン・ニューウェルとアントン・ニューコムまで死んだらおれにはもう何も残らない (おれはかれらとおなじことを出版でやっているつもりでいる)。 しかしそれだって過去の音源をくりかえし楽しめる。 問題は書いて出版することで、 後者は書いてもだれも出版してくれないからやってきた。 でもだれにも読まれずだれにも評価されない。 評価されるためにやっているわけではないけれど、 評価されなければ広がらない。 広がらなければ読まれないし、 読まれなければ必要なひとまで届かない。 届かないのに書く意味を感じられなくなった。 その一方で世間ではなんの技術も才能もない連中がなんの努力もせずにあっさり評価され、 ちやほやされている。 世間なんか見ないようにして生きているつもりでもおれが出版した本でさえ他人の作品ばかりよく売れる。 読者も書店もおれの本などあたかも存在しないかのように無視して伊藤なむあひやイシュマエル・ノヴォークばかり買う。 おれには一銭も入らないどころか一冊売れるごとに二百円以上の赤字だ。 なむさんが交流する華やかなひとたちのように文フリに参加すればいいのかなとも考えたけれど、 そもそもが交流が目的で出版する文化だから、 挨拶などの暗黙のしきたりを熟知していなければいけないし、 遠くの知らない街へ出て行かなければいけないし、 知的障害のおれにはとてもじゃないが、 むりだ。 小説にしても出版にしても直販にしても、 だれも読まないものを書いたり出版したり売ろうとしたりしてどうなるのかというのがある。 そこが世間の他人とちがう。 他人は書いたり出版したりすれば読まれるし売ろうとすれば売れる。 だからやるし、 やればあっさり評価される。 華やかな世界だ。 おれのはただ死ぬまでの惨めな暇つぶしでしかない。 なんでおれだけがそうなのかなぁ。 もしも 『ぼっちの帝国』 や 『GONZO』 を書いたのが他人なら莫大な富を稼いでたと思うよ。 ルーブ・ゴールドバーグ・マシンさながらにまわりくどい手間と金をかけておきながら、 実現することはローカルマシンのエディタに書いていまこの目の前にある画面に表示するのと変わりない。 おれ以外のだれも目にしない。 なんならエディタに書く意味すらない。 頭のなかに居座る妄想と大差ない。 それにくらべて他人はひと言ふた言、 ささっと書いただけでソーシャルメディアで賞賛され何年も売れつづける。 おれでないからだ。 人間のニーズは生まれながらに定まっている。
日本人は自分の利益を犠牲にしてでも他人の足をひっぱりたがることが心理学の実験でも明らかだという。 マスクの出会い系はそうした国民性と相性がよかったのだろう。 これまで出版業界はマスクのサーバにべったり依存してきた。 つまり、 本は読書ではなく社交の価値で評価されるってことだ。 それに最適化されていなければ 「ニーズがない」 として 「笑い物にされ淘汰され」 る。 マスクの出会い系サーバでアンケートをしたら 13 人中 9 人が 「素人の馴れ合いの場で挨拶や名刺配りをしろ」 といってきた、 実際そういうことなんだろうと思う。 プロの技術は読むのにも経験と技術が要る。 そんなのは求められていない。 読書は個/孤 (内省や個人であること) に向かうものだけれど日本の社会はそういうものをきらう。 だれもがおなじ低い次元にいて馴れ合うものでなければならない。 素人くさいものが尊ばれプロの技術は憎まれ蔑まれる。 思慮や個人であることは憎まれ、 だれともおなじであること、 何も考えずに権力に従うことが求められる。 読書も出版もそのような同調圧力のツールになった。 望んでいた読書も出版もこの国では滅びてしまって、 もうどうにもならない。 だとしたら、 むだじゃないか。 素人が馴れ合いを楽しむ場にわざわざ赴いて難癖をつけるのも違うと思うので、 好きな連中は好きにやればいいと思うけれど、 ほんとうに売ろうと思うならその世界に必死で媚びねばならない。 そこにはルールがありしきたりがある、 そのプロトコルを学習して適応しなければならない。 異常者に虐待されて育ったので、 遺伝と環境の両方の要因から、 ルールやしきたりを理解してそれに従う能力に障害がある。 知らない街に出向いて知らないひとたちに挨拶し金勘定するだなんて、 おれには困難すぎる。 暗黙のルールやしきたり以前に、 明文化されたルールすら複雑すぎて理解できない。 金も手間もかかりすぎる。 問題はその障害を乗り越える努力をするに値するか、 そこまでしておれはそんなことをやりたいのかということだ。 そんな努力をして売ったところでこの国の社会に適応した連中が買うだけじゃないか。 おれが届けたい相手はそうじゃない。 やりたいことと一ミリも接点がない。 つまらない素人でありつづけるため独自の視点をもたないよう相互監視し、 挨拶やら名刺交換やらに終始する。 そんなことを目的とする場に自らを最適化する価値は、 おれには見いだせない。
なむさんの小説と絵が好きなのでかれの絵がついた小説を読みたくて、 Photoshop 学習の千本ノックも兼ねてレタッチをやらせてもらっている。 人気者のかれは、 やることなすことキラキラしているし、 かれがいいと思うひとやウェブ漫画はおれにはちっともいいと思えないのに、 世間じゃたいへんに評価されているので、 絵のダウンロードと引き換えにキラキラに被曝するはめになり、 「ニーズがないから笑い物にされ淘汰される杜昌彦」 との格差でメンタルがやられる。 かといってかれには極力、 画像共有の手間をかけさせたくないし、 民主主義を崩壊させるほどの影響力をもつ出会い系サーバに画像を投稿してもらえれば作品の宣伝にもなるので、 共有手段はなんとしてもあの場でないといけない。 ソーシャルメディアのキラキラに被曝せずに画像だけダウンロードする方法はないものか。 『2001 年宇宙の旅』 の船外活動みたいに決死の覚悟で赴くしかないのか。 業者の管理画面もなるべく見に行かないほうがよさそうだな。 結果的にかれの売れ行きだけを確認することになる。 おれは父親のような対人コントロール欲求の化け物じゃないし、 母親のような社会性の欠如した異常者でもないので、 他人の動向に関心はない。 ある程度のかかわりがあれば、 隣人としての共感に基づく社会的な関心くらいはあるが、 かかわりが断たれればその関心もなくなる。 他人の成功を妬むつもりはなくて、 だれだって幸福になればいいと願うけれど、 自分の人生の惨めさを思い知らされるのはそれとはまた別の話だ。 自分の人生への満足に他人は関係ない。 ところが人生に満足するには社会的な成功が必要条件にならざるを得ない。 コントロールしようがないししたくもない他者に認められなければならない。 ソーシャルメディアは商売の性質上そこを増幅する。 社会的価値の高低差をつくりだし、 ダムの水力発電のようにその高低差から生じる力、 すなわち妬みや諍いのような負の感情で利益を得る。 アパルトヘイトで利益を得た出自の共感能力を欠いた富豪が所有する出会い系や、 お隣の大国製の刹那的動画共有サービスに代表されるソーシャルメディアと、 人権や民主主義を憎むポピュリズムとは親和性が高い。 それらが賞賛し増幅するのは次のようなものだ。 考えない、 群れる、 他人の意見に流される、 足の引っぱり合い、 衝動的、 一貫性の欠如、 発作的、 感情的、 論理的思考の欠如、 過ちと向き合わない、 上から目線の批難や圧力、 差別、 暴力、 人権の否定、 対話の否定、 幼稚な陰謀論、 対人コントロール欲求⋯⋯。 効率を追求するアルゴリズムがそれらを極限まで増大させ、 民主主義の信奉者だったはずのひとたちに議会を襲撃させ、 若者たちを自殺やトー横へ追いやり、 未来があったはずの子どもたちの頭上へ爆弾を降らせる。 それは小説が本来指向するものとは正反対で、 だからこそまっとうな小説は 「ニーズがない」 とされ 「笑い物にされ淘汰され」 た。 おれが望んでいたものはこの地上から絶滅してしまった。 「淘汰」 された。 そんな時代に何をどれだけ努力してどんなにしっかりしたものを書いても貶められるだけ。 他人があっさり評価されておれがこの扱いなのはそれが理由だとわかっている。 そんなものにコントロールされたくない。 されたくないがどうしても影響を受ける。
正月から痛ましい話ばかり目に入る。 思うに日本人が賞賛する 「ボランティア」 ってお国のための無償奉仕なんだよな。 個人やコミュニティのための自発的な助け合いじゃない。 本来は国がやらなきゃいけないことを個人に押しつける一方で、 ちょっとでも自由意思のにおいを嗅ぎつけると寄ってたかって叩き潰す。 責任は個人に押しつけ、 個人の意思と権利は奪う。 そういうお国に媚びた連中が足の引っぱり合い。 三十年前の震災では自衛隊の美化が気がかりだったけれど、 あんのじょう災害救助隊であるかのような取り違えをだれもがするに至った。 軍隊と災害救助隊じゃ装備も訓練もちがうんだよ、 ちょっと考えたらわかるだろう。 軍靴じゃ釘を踏み抜くし殺すと助けるじゃ正反対だ。 なのにどこかの強く勇ましい他人が自分たちの暮らしを守ってくれるとだれもが安易にそして無責任に夢見る。 思考も何もかも人任せだ。 軍隊が守るのは軍旗だけだって 1945 年に思い知ったはずなのに。 そうやっておかしなものに暮らしに入り込まれて支配され、 焼夷弾や原爆となって頭上からツケがいちどに降りそそいだのをだれもが忘れている。 十数年前の震災で感じたのは不幸な人生は脆弱だってこと。 ふつうの人生は災害に乗っ取られるけれど、 不幸な人生はそのわかりにくい寄る辺なさが際立つ。 哀しみや不安や痛みでだれもがつながるそのときにおれだけは何もだれとも共有できない。 共感と連帯のなかにあってひとりだけ個人的な問題にとらわれ疎外されている。 東北地方在住者として身に染みるのは地方に住むのは死に直結するリスクがあるってこと。 都会のための電力は地方の原発でつくられる。 安全な土地につくられた都会は権力がそこにあるから安全になる。 そうでない地方はだしにされる。 だから現実の生活においては人間の集まる都会がいい。 そこから離れるほど生きづらさは増大する。 インターネットではどうだろうか? 都会暮らしの人間でも生まれながらに価値が決まっていて搾取されるだけだ。 いい思いをするのはひと握りの特権階級だけ。 他人や社会とつながらなければならないという思い込みがそうさせている。 そのつながりとやらは権力の都合でしかないのに。 見かけ上の 「絆」 はひとを孤立に追い込むだけだ。 それが 「ニーズがないから笑い物にされ淘汰される」 と評された、 たしかにニーズはないわけだ、 権力にとってのね。 そんな思いまでさせられてなぜ他人とつながろうとする? 較べられて 「淘汰」 されるだけなのに? だったら自分で土地を買うなり借りるなりして自分だけの村をつくったほうがよくはないか?
警官に黒人が理不尽に殺されて暴動と略奪が起きたとき (議会襲撃事件と同様にロシアのトロール工場による扇動も背景にある、 これは実証された事実であって陰謀論ではない)、 奪われていたものを取り戻す権利だといって擁護した日本人がいた。 ベスラン学校占拠事件でも犯行集団によってその理屈は主張されたしハマスもそうだ。 なんなら京アニ事件の犯人もおなじ屁理屈を吼えていたし、 おれの父親がおれを虐待するときにも似たような正当化をしたものだ、 むかしの子どもは遊びを許されず働かされたんだとかろくな食べものもなかったんだとか理由もなく殴り飛ばされたんだとか (実際には歪んだ認知による嘘にすぎず父は幸福な子ども時代を過ごした)。 おれはその理屈はおかしいと思う、 自分が苦労したから他人もひどい目にあうべきだというのはまちがっている。 過ちがあるにせよ直線でつながるものじゃない。 暴動で略奪された商店の経営者は当の搾取してきた白人ではなかったし、 女性や子どもを天井のない監獄に押し込め連行して虐待したのは音楽祭を楽しんでいた若者たちじゃない。 逃げ場のない女性や子どもや病人が鉄条網を破って虐殺や強姦をしたわけじゃない。 一方で、 イスラエルの入植者も満州の日本人がそうだったように 「ただ暮らしていただけなのに」 と思うだろうが実際にはその生活は奪ったものだ。 その土地や家は元はだれかのものだった。 そんなことは知らないとかれらはいう。 合法的に買った土地や家でただまっとうに生活したいだけの人生はたしかに責められない。 でもその背景を知らない、 知ろうともしない態度は改められてもいいはずだ。 なんでおれがこのことにこだわるかというと、 おれ自身が子どもの頃、 まわりの愛されて育っていて何でも持っていて幸せいっぱいの子どもたちとの格差に、 理不尽な思いを抱いていたからだ。 人生をかれらに奪われたかのように感じて是正されるべきだとの思いで生きてきた。 その感情は理屈じゃない。 愛と金と機会の格差は是正されるどころか成長するにつれ雪だるま式に拡大し、 成人し中年となったいまでは、 愛されて育ったひとびとはその幸福を核に増大する幸福な人生を抱き締めていて、 奪われるばかりだったおれは全世界から疎外されている。 新潟ヤマダのいう 「ニーズ」 とは子ども時代に得た愛のことだ。 両親や社会から求められて育った人間、 「ニーズ」 がある人間は成功する。 それがない人間は 「笑い物にされ淘汰」 される。 でもおれは父や歴史上の虐殺者たちのような獣にはなりたくない。 論理的思考が感情に屈すればひとは獣になる、 おれは自由意思をもつ人間でありたい。 だからおれは略奪されたことを口実としてみずからを正当化する略奪者たちを認めない。 おれはそうならない。