今年も 『アパートの鍵貸します』 を観た。 年末と自殺の話だ。 DVD も持っているが今年は Amazon Prime で買った (データではなく期間を限定されずに閲覧する権利を)。 何度観ても新たな発見があり飽きない。 1960 年米国の独身生活のディテールが好きだ。 計算され尽くしてむだがない台詞。 ジャック・レモンも最高だがシャーリー・マクレインの百面相がいい。 悪役たちの残酷な台詞も皮肉が効いていて最高。 女から搾取する男 (酒場で拾った女にジャック・レモンが金を押しつけて帰らせる残酷な皮肉。 結局はかれも上司たちとおなじ男性だってこと)、 黒人から搾取する白人、 若者から搾取する年長者。 搾取され何もかも喪ったふたりが微笑みあう結末はハッピーエンドなのだろうか。 フレッド・マクマレイよりずっと歳をとってもいまだにおれはジャック・レモンの側、 いや端役のメッセンジャーボーイや靴磨き、 掃除夫のようなものだ。 あるいはそれ以下かもしれない。 ひどい一年だった。 コールセンターの仕事だけでせいいっぱいで、 何も書けなかった。 読むのだってろくにできなかった。 老眼と緑内障で視力は極端に衰えたし、 頭も悪くなった気がする。 走る習慣がついたことと、 フルセットの Adobe を契約して Photoshop を使いはじめたこと、 高くつく BaseBread をやめてレトルトの十六穀米と冷凍の牛丼の素を常備するようにしたこと、 遅番の帰りに職場近くのスーパーで見切り品を買うと安くいっぱい食べられるのがわかったことはよかった。 マットレスとかフロアライトとか 13 インチ 2K モバイルモニタとか、 George Cox 3588 とか Albert Thurston の靴下留めとか NIKE のウェアとか、 新調したモッズスーツとか、 いくつかの買い物は生活をよりよいものにした。 何より人生の大半はほんとうに惨めだったから、 あの頃よりはましだ、 ずっとよくなったと思える。 努力して這い上がったのだ。 世間一般から見れば落伍者の暮らしであろうとも。
今年はっきりしたのは、 アンクル・トムさながらに愛嬌ある奴隷としてふるまうことを期待されているということ。 いわれるがまま流されるがままに募集企画をやったときには、 ゴミのような短文を投稿してきた素人が 「おまえのサイトは自分の作品を表示するに適さないから直せ」 といってきた。 そのような下働きに甘んじたところで得るものは何もなかった。 大勢の他人が賞賛されるのを指をくわえて眺めただけだ。 ウェブのフォーマットに適さない長文を、 分載にも単行本書き下ろしにもせず、 連日のように一挙掲載することを何の相談もなしに決められたときは、 どうしてそんなことをされるのかわからず困惑した。 要はその大量の文章を毎日校正しろということであり、 同時に、 そのつもりがあろうがなかろうが結果として、 栞機能を実装するよう暗に求められたことにもなる。 表示にせよ校正にせよ、 作品を最良の状態で読ませるために必然的に生じる数々の負担を、 あまりに当然にとらえていて意識にのぼることさえなく、 まして意見など許さないということだ。 小学校の作文レベルの決まりや入稿上のルールのような、 ささいなことを何度もいうのもどうかと思うので、 いちど指摘して直らなければこちらで直していた。 指摘せずに直すこともあった⋯⋯編集上のコミュニケーションを怠るのはよくないことだと反省しているが、 じっさい指摘したらあっさり原稿を引き上げられた。 相手のいいぶんを無視して一方的に正当性を主張したいわけでもだれかを非難したいわけでもない。 何をどれだけ努力したところで評価されるのは他人だけという話だ。 他人が商業誌から依頼されメディアに取材されフォロワーが激増しブックマークされ莫大な PV を稼ぐ一方、 価値のない人間は顎で使われ養分にされ 「淘汰」 されるのみ。 その価値はだれが決めるのか。 読者ではない。 まして搾取されすべてを喪ってトランプをする男女でもなければ靴磨きでも掃除夫でもない。 立ちんぼや OD の若者でも天井のない監獄で四肢をバラバラにされる子どもたちでもない。
かつてある作家がおれに指を突きつけて、 権力による弱者の排除を正当化する文脈で 「淘汰」 なる言葉を使った。 その言葉は正しく、 おれが拠り所としていた読書は爆撃にでも遭ったかのように地上から消えた。 おれの読書もおれもどこにもいない。 その 「淘汰」 を生き延びた数少ない書店が、 今年のクリスマスシーズンは大繁盛だったそうだ。 本はもはや日常的に読まれるものではなく、 クリスマスの贈り物のようなハレの体験を提示する付加価値の商品であり、 「映え」 という社会的な価値を競うツールになった。 このことは印刷所が仕事を断るほどのコミケや文フリの大盛況や、 お洒落な独立系の書店が流行する (開業する個人が増えたという意味であって、 繁盛しているという意味ではない) 現状と地続きに思える。 身近な範囲でも同僚のほぼ全員が版権ものの二次創作をソーシャルメディアやコミケで売り、 大勢のファンを得てそれなりの収入を得ている。 それらの共通点は社会的な立ちまわりが主体の評価経済ということだ。 極端な話コンテンツそのものはどうでも (二次創作という名の無断借用でも) いい。 家族や友人や恋人へのプレゼントも、 ソーシャルメディアでの評価も、 コミケや文フリでの交流も、 独立系書店の 「映え」 もすべておれがやっていることとは正反対だ。 それがおれとおれの読書が 「淘汰」 された理由で、 それをどうにもできない。
贈り物は相手をどれだけ思っているかを示す手段であり証であって、 要は社会的な行動なわけだ。 映画のフレッド・マクマレイさながらに、 クリスマスの贈り物で社会的・人格的欠陥が明らかになり、 相手が自己愛的な発達障害者であることが発覚した話をいくつか読んだ。 それで不幸な結婚を回避できた話も。 おれは社会的にも人格的にも障害をもつ不具者で、 どちらかといえば不適切な贈り物で他人を不幸にしてきた側であり、 異常者や不幸にされる人間を増やさぬために結婚もしなかったのだけれど、 コールセンターの現場管理者でありコミュニケーションで喰ってもいるので、 他人を思うことやその気持を示すことの重要さはよく知っている (と同時に、 それを理解しない人間の多さや心のなさに驚く機会も多い)。 だから本が贈り物として選ばれるようになったことや、 贈り物として選ばれる本を否定するつもりはない。 それ自体はすばらしいことだと思う。 しかしそうでない本もあってほしい。 「淘汰」 される側の人間に寄り添い、 拠り所となる本だってあってほしい。 自己愛者が排除されるのはカサンドラを生じさせぬためにいいことだとして、 それこそカサンドラのような可視化され得ぬ弱い立場に寄り添うものが、 自己愛的な権力者にとって 「ニーズがない」 という理由で 「淘汰」 されるのは、 おれにはどうしても受け入れられない。 しかし愛想笑いをうかべて受け入れなければ切り捨てられる。 その結果としていまのおれがある。
プラットフォーム企業も政治家も諍いを煽る。 戦争はよほど儲かる商売なんだろう。 諍いで喰っている連中は平和や共存じゃ商売あがったり。 ガソリン一滴血の一滴、 などといって、 かつてのこの国の政治家は石油のために自国民にも他国民にもずいぶん多くの血を流させたけれど、 諍い自体がガソリンなみに金になるってことなんだよな。 権力者が奪った土地や家を売りに出して、 ただまっとうに働いて幸せになりたいだけの何も知らない市民が正当な手続でそこを買い、 ことによると元の住人を使役したりして恨まれ、 愛想笑いに隠されているものに気づかず、 そこへまた別の権力が奪いにやってきたりする。 何もない田舎から出てきた若者たちが、 報償としてそこにあるものを好きにしていいと大人たちに教わり、 母親たちには説明できないようなふるまいに及ぶ。 戦争は home を、 安心できる居場所、 拠り所を奪うことだ。 であれば奪われたものをまた新たにつくることが抗うすべであるはずで、 小説家の仕事はそういうことだと考えていた。 現実はどうにもならなくても、 それぞれの心のうちに築き上げる手助けはできる。 太宰は本気で心から国家に媚びる野心をもって国策小説にとりくんだが、 そこにですらおれの信じた理想が書かれていた。 そういうものだと思っていた。 権力と結託して奪う側にまわるような小説はだめだと信じていた。 燃えない原稿を出版するどころか、 諍いで利益を得るアルゴリズムの尻馬に乗って、 若者たちを自死や市販薬の OD や立ちんぼや公衆便所での出産に追いやり、 善良なひとびとに議会を襲撃させ砂糖玉を売り勇ましい夢を見させるのが主流になるとは、 夢にも思わなかった。 連中はおれから読書を奪った。 そんな悪夢で呼吸はできない。 現代の本や書店に居場所はない。 おれはおれであるかぎり罰されつづける。
若い頃、 編集者たちも付き合っていた女も、 別な人間になるようおれに求めた。 それができたらよかったのに。 叶わぬまま四半世紀が過ぎた。 来年は抜け出したいものだ。 いいから黙って配れって? まずはカードの切り方を学ぶところからだね。