メディアはあたかも社会のひずみが生んだ被害者であるかのように社会病質に肩入れする。取材によって自己愛的な被害者意識に感染したのかもしれないが、どうあれこれは卑劣な二次加害だ。おれの父親や弟のような社会病質が虐待で生まれると思ったら大まちがいだ。あれはまぎれもなく生まれつきだ。弟は両親からチヤホヤされて育ったが生まれつき父とおなじだった。その過程をおれは実際に見ている。父だってやはり社会病質である母親に溺愛されて育ったし、その血は地域社会に支配的にふるまい生き神様と呼ばれた曾祖母から受け継がれたものだ。一方でおれは社会病質である父と統合失調症(これも祖母からの遺伝だった)の母に虐待され人生をめちゃめちゃにされたが、ああはならなかった。精神科を梯子して三人の医者に診てもらったからまちがいない。社会病質ではない証拠に共感能力を技術として要求される職業で生計を得ている。そもそも共感能力がなければ『ぼっちの帝国』や『GONZO』は書けない。
法律はおれの父のような社会病質を想定しない。そのように脆弱な社会にあって裁判は連中を主役とする舞台をお膳立てするようなものだ。被害者とその遺族は自己愛的な世界観にとりこまれ道具立ての一部にされ、脇役として貶められる。異常者の自己愛に被曝させられて不衛生な精神が伝染する。悪意に生涯を支配される。被害者も遺族もメディアも世論も対人操作欲の養分にされる。そのようにして社会病質は歪んだ認知をより堅固にする。死刑は美しい自己像や被害者意識を揺るがすどころか強化させるだけで、罪を理解させるどころか向き合う必要のない場所へ逃してやることになる。これでは裁きでも刑罰でもなくただの褒美だ。しかし民主主義社会の正当な手続として裁判は必要だし、罪と向き合わせるには認知の歪みを矯正するしかないが、そのような刑罰は実在しない。何をどうしたところで結局は連中の利益にしかならない。殺害は被害者を増やさぬための次善策でしかない。
将来的には遺伝子治療が可能になるかもしれない。だが現時点では夢物語としてすら語られようがない。生まれつきの人間性を遺伝子の欠陥と見なして医学的に矯正するのは倫理上の問題がある。かといって犯罪を重ねられてから裁いて死刑にしても遅いし、ひとり殺したところでおれの父のような個体はほかにいくらでも発生する。きりがない。認知の矯正も遺伝子治療もできぬなら、共感能力に欠陥を持つ個体が生じるはしから殺害するか最初から生まれないようにするしかないが、これもまた優生思想そのものであり、社会病質とおなじ邪悪に落ちるようなもので許されない。とかく民主主義社会はおれの父のような悪意に脆弱だ。だからせめておれのような、社会病質の遺伝子を持ちながら幸いにも発現しなかった個体がひとりひとりの自由意思で、その遺伝子を次世代へ伝えないようにするしかない。
八つ墓村めいた家庭内独自の因習があるデジタルデバイドの最底辺で育った。そうした家庭を容認するとともにそこで虐待される子どもを排除した家父長制を憎んでいる。「ニーズがない」から「笑い物にされ淘汰され」、どこにも属せない爪弾きに仕上がった。そうでなければ努力相応に愛され成功していただろう。最低限の家電すら知らずに育ち、せいぜい努力して這い上がってみたところで遅く、常識を知らない無能な中年として蔑まれながら年収 200 万の感情労働にしがみついている。人権や民主主義や自由意思を憎むひとたちは日本だけにいるわけではない。ネタニヤフもプーチンもそうだしトランプは再選するだろう。いまはそうした政治家や企業にとって都合のいい時代だ。見せたいものを見せるのがソーシャルメディアであり、だからソーシャルメディアは本質的に、自由意思を「淘汰」する性質から逃れられない。だからこそ兵器として利用されているし今後は AI がより効率のよいものとして取って代わる。
日本人の多くは自由意思を憎む。決めるのが億劫だから、なんでも決めてもらえるのが楽だから。権力の尻馬に乗って弱者を「淘汰」するのが好きだから。だからソーシャルメディアに馴染めなかったり AI を危惧したりするひとを情報弱者扱いする。デジタルデバイドの勝ち組からしたらたしかにおれは「ニーズ」のない情報弱者だ。それは事実だ、合っている。でもなぜいつまでも弱者を「淘汰」する側にいられると思うのか。ほんとうの勝ち組はひとにぎりの企業や政治家でしかない。弱者を「笑い物」にして「淘汰」してさえいれば勝ち組でいられるかのような安心感は幼稚な錯覚にすぎない。権力はその甘えを利用する。ソーシャルメディアや AI を使ってつけ込む。おれの言っていることが理解できない連中がうらやましい。あるいは実際に最後まで勝ち組でいられるのだろう。高みから勝手なことを言い散らして生涯を終えるのだ。
かなり書きなおして改版した。