D.I.Y.出版日誌

連載第368回: 作家の死

アバター画像書いた人: 杜 昌彦
2024.
01.30Tue

作家の死

わかりやすさというニーズに従わなければ笑い物にされ淘汰されるという実例がまたひとつ世間の求める普通わかりやすさに悩みながらようやくそれぞれの幸せを見つけようとしていた登場人物たちは永久に未来を絶たれたあのような物語がこのように絶たれるのはやりきれない。 「原作通りにするのが正しいみたいな空気が醸成されつつあるのに違和感がある何もかも萎縮し息苦しくなるばかりじゃないか彼女を殺したのは改変でも炎上でもましてや特定の個人でもない媒体に合わせた改変そのものはむしろ当然で器が変われば見せ方も物語もおのずと変わるしかしそれとこれとは話がちがうあのブログの釈明文は誠実で配慮されたものだった記された経緯は作品の主題がニーズによって淘汰される過程を示していた読者として知り得る経緯を整理すると原作者が自由に口を出したり直したりできる契約→テレビ局が作品の根幹を理解しない→都度膨大な直しが必要に→自分で書かざるを得なくなる→本業の作業と重なる→口と手を出しすぎて恨まれ素人仕事も不評多くの視聴者は喜んだようだが原作者にはそう思えた→弁解→炎上→過労自殺⋯⋯といった流れに見受けられるおれがいいたいのはじゃあなぜテレビ局は作品の根幹を理解しなかったか理解しない企業に対して作家はどうすべきだったか。 「ニーズ側の発言には作品と作家への敬意が不足していたようにも思えるが与えられた条件で仕様通りに納品する職能と芸術的な才能とはまるで別であり脚本家はあくまで求められる仕事をしただけだ無から物語をつくりだすことも人間を描くこともない立場にあって、 「ニーズに忠実な有能で生産性の高い職業人だったにすぎないむしろ雇用側の不手際でふりまわされしまいには仕事を取り上げられた被害者といえるこれを個人の落ち度とされたらいかなる職業でも安心して従事できないしいていえば調整を怠ったプロデューサーや編集者に企業責任の一端はあるだろうしかつては出版社の大切な役割のひとつに数えられていた作家を守るという責務が喪われて久しい)、 過労による自殺という側面には出版社に非があるようにも思えるが企業として改善されるべきものであって決して個人として責められてはならない原作者も脚本家もともに大企業が外注に出した下請けであり連携不足のために後者は仕事を前者は生命を奪われたなぜこれを個人の責任とするか理解できない⋯⋯いやほんとうは理解できるテレビ局が作品の根幹を否定しようとした理由と重なるからだ人間性を描くことの否定である

 くだんの作品が描こうとしたことは数年前まで理解されやすい空気もあったのだが反動なのか徐々に受け入れられにくくなっているあるいはそのことも影響したかもしれない漫画は小説とちがって電子化への移行に成功した海外ではロマンス小説や SF が電子書籍と相性がよいといわれている店頭で買うのが恥ずかしい子どもっぽい本が電子版では売れるということだ日本ではそれが漫画に相当する最初の数巻を無料配布してつづきを買わせる手法や、 「話売りといって一話ずつ分割し最初の数話だけ無料にしてつづきを買わせる手法も成功した2012 年末から 2013 年にかけて素人のゴミによく見られた手法を出版社が真似た)。 小説が契約の整備に手間どっているうちに漫画は 2014 年にはブラウザで読まれるのがあたりまえになった小説の電子版があたりまえになるのはさらにその四年後)。 ブラウザアプリも洗練され Web 連載の手法も確立した小説などと較べると比較的好調なのである程度の多様性が許容されるようになった読者を育てることにも成功し複雑なものでもよく理解し味わえる目の肥えた読者が増えたそのためわかりにくさに光を当てるような作品でも評価されやすい土壌が一時期はありとりわけ MeToo の頃は人権や自由意思について考える作品が多かったくだんの作品もそうした気運において描かれたと考えられるしかしここ数年は潮目が変わった印象を受けているかつて自分自身の楽しみや自己肯定感のために化粧をすることを主題に描いていた作家さえも肩肘はって生きるのはしんどい弱いままで愛され庇護されたいみたいな漫画を描くようになったくだんの作品にしても最終巻は充分にわかりやすさに歩み寄っていてそれまで丁寧に積み重ねてきたものが毀損されたかに個人的には感じていたそうであってさえこんな仕打ちを受けるのかこのように罰されねばならないのか

 まず前提としてくだんの作品は大人になっても成長できることを主題とした群像劇だった読まずにこの件に言及してほしくない)。 作中において恋愛はひとりひとりの人間性と相互のかかわりあいを描く上での一要素でありそれ以上でも以下でもなかった前半の主なプロットは女性に不信感のある男が個性的な仲間たちとの交流を通じて自分自身と向き合い前時代的な価値観から解放されて尊重されるべきひとりの人間として女性を見られるようになるまで——自分を含むひとりひとりの人間性を尊重できるようになるまでの物語だったそれはテレビ的なニーズからは逸脱していた恋愛に寄せた最終巻の展開はあるいは慣れない作業と求められざる厄介者扱いの重圧それに本業の執筆が重なり弱腰になったためか。 「ニーズに従う価値観を強化し再生産すれば視聴者にはたしかに喜ばれ円滑に消費されたろうメディアが求める商品はそのようなものだ一方でそれはひとびとが闘って勝ちとってきたものを否定する二次加害にほかならないそうしたものに対して作家は生命を賭してまで抗おうとしたそして破れた。 「笑い物にされ淘汰され。 「ニーズの側に立つ者たちの思惑がどうあろうが彼女の描こうとしていたことは読者には伝わっていたそれが唯一の救いだ

芦原先生に思いを寄せすぎてしにそう

人生で初めて買った漫画

【追記】

 ずっとこのことについて考えていたら腹が立ってきたあんたの仕事は書くことだろ余計なことに責任を背負い込みすぎて肝心の作品を中途で放り出し読者をないがしろにするのは筋ちがいだテレビの視聴者はあんたの大切な読者じゃない偏見に加担する内容に改変されようが口を出した結果ひどい脚本になって大勢から恨まれようが気にすることじゃない書きたければ書けばいいし慣れない仕事で大失敗しようが次に活かすだけだ作家はわかってくれる読者と作品のことだけ考えてりゃいいんだよあんたはナイーヴすぎるくだんの漫画は登場人物の全員が善人でそれもまたナイーヴさの表れに思えるがおれの小説はグラデーションはあるもののほぼ全員が悪人だ邪悪さを自覚して潰れそうになるやつもいればあんまりわかってなかったりわかっているけど気にしてなかったりするやつもいる敵役として登場するのは自分の正しさを疑わない悪人でその悪役のほうがむしろ読者から共感されたりするそれ以上に邪悪な人間を出すときはおれの両親を描くことが多い容姿や言動は異なっても思考はそのまま模倣しているそれがしばしば読者からはリアリティの欠如として指摘される自己愛的異常者の被害経験がなければ現実味が感じられないからだディケンズもおなじ謗りを受けがちなので気にしていないやや例外は血と言葉の悪役であれは当時 KDPAmazon 電子書籍の素人向けプラットフォームにいっぱいいた自己愛的な素人思考や発言をそっくりそのままトレスしたちなみにおれ自身は媒体に合わせて別物になるのは当然で宣伝になればいいと思っているし次の本で嘲笑するネタにもできるから、 『血と言葉がグルーミングを美しい恋愛であるかのように讃える恋愛ドラマにされたり逆さの月が親子愛を高らかに謳い上げる家族ドラマにされたりぼっちの帝国が主婦願望のある若い女とジャニーズのいけめんがお洒落なシェアハウスで繰り広げるラブコメになったりしても儲かったとしか思わないけどな原作料は無料ただ同然挨拶には行くけど口は出さないよメディア関係者の方いいお話待ってますたぶんそのような改変がされたらおれの小説は売れるのだろう事実若い頃に会った編集者たちはそのように書けと口々に求めたおれの書くものは子ども騙しだってさ大企業に勤める大人たちのいうちゃんとした大人の読み物とはそういう商品だテレビドラマのようになそんなものしか書店に並ばなくなったら出版も読書もおしまいだそして実際にすでに終わってひさしいだれも書こうとも出版しようとも売ろうともしないので全部自分でやることに決めただから書いて出版してきたしこれからは売るつもりでもいるいずれ人格 OverDrive はおれの本の直販サイトになるだれも読まないし買わないがそんなことはどうでもいい流されて生きたくはないし冬のダムに身投げもしないいいと信じたことをやるおれはあんたよりいいものを書くよそのためには商業じゃだめだあんたみたいに殺されるつもりはない


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。

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