「わかりやすさ」 という 「ニーズ」 に従わなければ 「笑い物にされ淘汰される」 という実例がまたひとつ。 世間の求める 「普通」 や 「わかりやすさ」 に悩みながら、 ようやくそれぞれの幸せを見つけようとしていた登場人物たちは永久に未来を絶たれた。 あのような物語がこのように絶たれるのはやりきれない。 「原作通りにするのが正しい」 みたいな空気が醸成されつつあるのに違和感がある。 何もかも萎縮し息苦しくなるばかりじゃないか。 彼女を殺したのは改変でも炎上でもましてや特定の個人でもない。 媒体に合わせた改変そのものはむしろ当然で、 器が変われば見せ方も物語もおのずと変わる。 しかしそれとこれとは話がちがう。 あのブログの釈明文は誠実で配慮されたものだった。 記された経緯は作品の主題が 「ニーズ」 によって 「淘汰」 される過程を示していた。 読者として知り得る経緯を整理すると、 原作者が自由に口を出したり直したりできる契約→テレビ局が作品の根幹を理解しない→都度膨大な直しが必要に→自分で書かざるを得なくなる→本業の作業と重なる→口と手を出しすぎて恨まれ素人仕事も不評 (多くの視聴者は喜んだようだが原作者にはそう思えた) →弁解→炎上→過労自殺⋯⋯といった流れに見受けられる。 おれがいいたいのは、 じゃあなぜテレビ局は作品の根幹を理解しなかったか、 理解しない企業に対して作家はどうすべきだったか。 「ニーズ」 側の発言には作品と作家への敬意が不足していたようにも思えるが、 与えられた条件で仕様通りに納品する職能と芸術的な才能とはまるで別であり、 脚本家はあくまで求められる仕事をしただけだ。 無から物語をつくりだすことも人間を描くこともない立場にあって、 「ニーズ」 に忠実な、 有能で生産性の高い職業人だったにすぎない。 むしろ雇用側の不手際でふりまわされ、 しまいには仕事を取り上げられた被害者といえる。 これを個人の落ち度とされたらいかなる職業でも安心して従事できない。 しいていえば調整を怠ったプロデューサーや編集者に企業責任の一端はあるだろうし (かつては出版社の大切な役割のひとつに数えられていた 「作家を守る」 という責務が喪われて久しい)、 過労による自殺という側面には出版社に非があるようにも思えるが、 企業として改善されるべきものであって決して個人として責められてはならない。 原作者も脚本家もともに大企業が外注に出した下請けであり、 連携不足のために後者は仕事を、 前者は生命を奪われた。 なぜこれを個人の責任とするか理解できない⋯⋯いや、 ほんとうは理解できる。 テレビ局が作品の根幹を否定しようとした理由と重なるからだ。 人間性を描くことの否定である。
くだんの作品が描こうとしたことは数年前まで理解されやすい空気もあったのだが、 反動なのか徐々に受け入れられにくくなっている。 あるいはそのことも影響したかもしれない。 漫画は小説とちがって電子化への移行に成功した。 海外ではロマンス小説や SF が電子書籍と相性がよいといわれている。 店頭で買うのが恥ずかしい子どもっぽい本が電子版では売れるということだ。 日本ではそれが漫画に相当する。 最初の数巻を無料配布してつづきを買わせる手法や、 「話売り」 といって一話ずつ分割し、 最初の数話だけ無料にしてつづきを買わせる手法も成功した (2012 年末から 2013 年にかけて素人のゴミによく見られた手法を出版社が真似た)。 小説が契約の整備に手間どっているうちに、 漫画は 2014 年にはブラウザで読まれるのがあたりまえになった (小説の電子版があたりまえになるのはさらにその四年後)。 ブラウザアプリも洗練され Web 連載の手法も確立した。 小説などと較べると比較的、 好調なのである程度の多様性が許容されるようになった。 読者を育てることにも成功し、 複雑なものでもよく理解し味わえる目の肥えた読者が増えた。 そのため 「わかりにくさ」 に光を当てるような作品でも評価されやすい土壌が一時期はあり、 とりわけ MeToo の頃は人権や自由意思について考える作品が多かった。 くだんの作品もそうした気運において描かれたと考えられる。 しかしここ数年は潮目が変わった印象を受けている。 かつて 「自分自身の楽しみや自己肯定感のために化粧をする」 ことを主題に描いていた作家さえも 「肩肘はって生きるのはしんどい、 弱いままで愛され庇護されたい」 みたいな漫画を描くようになった。 くだんの作品にしても最終巻は充分に 「わかりやすさ」 に歩み寄っていて、 それまで丁寧に積み重ねてきたものが毀損されたかに個人的には感じていた。 そうであってさえこんな仕打ちを受けるのか、 このように罰されねばならないのか。
まず前提としてくだんの作品は、 大人になっても成長できることを主題とした群像劇だった (読まずにこの件に言及してほしくない)。 作中において恋愛はひとりひとりの人間性と相互のかかわりあいを描く上での一要素であり、 それ以上でも以下でもなかった。 前半の主なプロットは女性に不信感のある男が個性的な仲間たちとの交流を通じて自分自身と向き合い、 前時代的な価値観から解放されて、 尊重されるべきひとりの人間として女性を見られるようになるまで——自分を含むひとりひとりの人間性を尊重できるようになるまでの物語だった。 それはテレビ的な 「ニーズ」 からは逸脱していた。 恋愛に寄せた最終巻の展開はあるいは慣れない作業と、 求められざる厄介者扱いの重圧、 それに本業の執筆が重なり弱腰になったためか。 「ニーズ」 に従う価値観を強化し再生産すれば、 視聴者にはたしかに喜ばれ円滑に消費されたろう。 メディアが求める商品はそのようなものだ。 一方でそれはひとびとが闘って勝ちとってきたものを否定する二次加害にほかならない。 そうしたものに対して作家は生命を賭してまで抗おうとした。 そして破れた。 「笑い物にされ淘汰され」 た。 「ニーズ」 の側に立つ者たちの思惑がどうあろうが、 彼女の描こうとしていたことは読者には伝わっていた。 それが唯一の救いだ。
【追記】
ずっとこのことについて考えていたら腹が立ってきた。 あんたの仕事は書くことだろ。 余計なことに責任を背負い込みすぎて肝心の作品を中途で放り出し読者をないがしろにするのは筋ちがいだ。 テレビの視聴者はあんたの大切な読者じゃない。 偏見に加担する内容に改変されようが口を出した結果ひどい脚本になって大勢から恨まれようが気にすることじゃない。 書きたければ書けばいいし慣れない仕事で大失敗しようが次に活かすだけだ。 作家はわかってくれる読者と作品のことだけ考えてりゃいいんだよ。 あんたはナイーヴすぎる。 くだんの漫画は登場人物の全員が善人で、 それもまたナイーヴさの表れに思えるが、 おれの小説はグラデーションはあるもののほぼ全員が悪人だ。 邪悪さを自覚して潰れそうになるやつもいれば、 あんまりわかってなかったりわかっているけど気にしてなかったりするやつもいる。 敵役として登場するのは自分の正しさを疑わない悪人で、 その悪役のほうがむしろ読者から共感されたりする。 それ以上に邪悪な人間を出すときはおれの両親を描くことが多い。 容姿や言動は異なっても思考はそのまま模倣している。 それがしばしば読者からはリアリティの欠如として指摘される。 自己愛的異常者の被害経験がなければ現実味が感じられないからだ。 ディケンズもおなじ謗りを受けがちなので気にしていない。 やや例外は 『血と言葉』 の悪役で、 あれは当時 KDP (Amazon 電子書籍の素人向けプラットフォーム) にいっぱいいた自己愛的な素人。 思考や発言をそっくりそのままトレスした。 ちなみにおれ自身は媒体に合わせて別物になるのは当然で宣伝になればいいと思っているし次の本で嘲笑するネタにもできるから、 『血と言葉』 がグルーミングを美しい恋愛であるかのように讃える恋愛ドラマにされたり 『逆さの月』 が親子愛を高らかに謳い上げる家族ドラマにされたり 『ぼっちの帝国』 が主婦願望のある若い女とジャニーズのいけめんがお洒落なシェアハウスで繰り広げるラブコメになったりしても 「儲かった」 としか思わないけどな。 原作料は無料同然。 挨拶には行くけど口は出さないよ。 メディア関係者の方いいお話待ってます。 たぶんそのような改変がされたらおれの小説は売れるのだろう。 事実、 若い頃に会った編集者たちはそのように書けと口々に求めた。 おれの書くものは子ども騙しだってさ。 大企業に勤める大人たちのいう 「ちゃんとした大人の読み物」 とはそういう商品だ。 テレビドラマのようにな。 そんなものしか書店に並ばなくなったら出版も読書もおしまいだ。 そして実際にすでに終わってひさしい。 だれも書こうとも出版しようとも売ろうともしないので全部自分でやることに決めた。 だから書いて出版してきたし、 これからは売るつもりでもいる。 いずれ人格 OverDrive はおれの本の直販サイトになる。 だれも読まないし買わないがそんなことはどうでもいい。 流されて生きたくはないし冬のダムに身投げもしない。 いいと信じたことをやる。 おれはあんたよりいいものを書くよ。 そのためには商業じゃだめだ。 あんたみたいに殺されるつもりはない。