十年くらい前、 ひとりが踊りはじめたら真似するやつがでてきて、 つられてみんな踊りはじめる⋯⋯という動画が話題になった。 あれには騙されたね。 人類史上もっともひどい嘘だった。 ウェブ上の流行やインフルエンサーといったものが自然発生であるかに信じ込まされた。 だれかが儲けるのに都合のいいものを見せられているだけ、 という事実をうまいこと隠蔽された。 視界を支配されアルゴリズムに動機づけられたひとびとは、 権力に都合のいい考えを擦り込まれる。 すべての価値はアルゴリズムが決める。 利益にならないもの、 都合の悪いものは表示機会が抑制され、 人目につかぬようにされて無価値として扱われる。 そしてひとびとは自分で感じたり考えたりするのをやめてしまった。 権力が決めたとおりに考え、 行動するようになった。 いちばん儲かる商売は従わないやつを黙らせてひとびとの考えを支配することなんだよな。 その商売はかつてファシズムと呼ばれていた。 いまやだれもがその尻馬に乗って儲けようとしている。 世の中がこうなったのは 「法や社会倫理を出し抜いて自分だけいい思いをする」 ことをよしとする価値観が広まったせいではないかと思う。 そういう風潮がいまの Web をつくったとも、 Web がそのような風潮をつくったともいえる。 なぜかみんな出し抜く側にまわれると思い込んでいる——踏みつけにされる側じゃなく。 順番を守って列に並ぶほうが、 結局はみんな楽なはずなのに、 押しのけて横入りするのが賢いみたいに考える。 そういう発想や価値観が当たり前になってしまった。
人間性は評価を下げて最適化の妨げになる。 夾雑物を排除して効率を高めなければ。 だったら最初から人間を挟まず直接アルゴリズムだけでやりゃいい。 Instagram のインフルエンサーは顔を出さぬのが主流になりつつあると聞いた。 ちょっとでも人間性を感じさせると売上が落ちるのだそうだ。 前からそうだったが最近はその傾向が強まっているという。 より最適化するために AI を使う例も増えているとか。 はてなでも AI が書いた増田を AI がブックマークし寸評する光景が日常となった。 そこでは高得点を獲得するため効率よく対立を煽る文章が日々、 生成されている。 アルゴリズムへの適応を突き詰めれば、 そりゃそういうことになる。 受容する側も (ちょうど筒井康隆が 60 年前に 『48 億の妄想』 で描いたように) 人前でいかに演ずるかを採点されあるいは罰される。 消費とはそういうものになった。 あるいは読書のように、 それぞれの内面を尊重し育む文化すらも。 それすらもアルゴリズムに評価されるための自己宣伝の芝居でしかなくなった。 現代の小説はかつてそうであったような人間や人生についての何かではない。 アルゴリズムに評価されるための貨幣となった。 アルゴリズムに最適化されなければ存在を許されない世界。 人間性は排除せねばならず、 結果だれもが AI に頼る。
「倫理上の Web 原則 — W3C TAG Ethical Web Principles」 の 「2. 原則」 には以下のような理想が掲げられている。
2.1. web は一つである
2.2. web は、 社会に害をもたらさない
2.3. web は、 健全なコミュニティと討論をサポートする
2.4. web は、 すべての人々のためにある
2.5. web は、 セキュアであり, 人々のプライバシーを尊重する
2.6. web は、 表現の自由を可能化する
2.7. web は、 情報を検証することを可能にする
2.8. web は、 各個人の制御と力を増強する
2.9. web は、 環境を支続可能なプラットフォームである
2.10. web は透明である
2.11. web は、 複ブラウザ, 複 OS , 複機器のためにある
2.12. web は、 人々が選ぶ仕方で消費できる
両親が正常ではなかったので人生の大半は自由を制限されていた。 遺伝性の脳障害 (知的障害あるいは発達障害) を持つ上にアーミッシュまがいのデジタルデバイド最底辺から這い上がらねばならなかった。 そういう人間であるにもかかわらず、 あるいはだからこそこの理想を信じている。 これこそが人権であり民主主義だと思う。 ところが世の大半のひとびとはおなじ理想を信じていない。 むしろ憎み、 ファシズムや家父長制をいいものだと思っている。 かれらの望みに従って現実の Web はまるで別物へと変容した。 それはごく一部の政治家や資本家のためにあり、 対立を煽ってコミュニティを潰し、 プライバシーを奪い、 不都合な表現を不可能にし、 まやかしを信じ込ませ、 個人から力を奪って奴隷にし、 スリーマイルを再稼働させ、 悪意のブラックボックスであり、 権力の望む利用環境のためだけにあって、 かれらが選ぶ仕方でのみ利用でき (抜き差しならぬほど依存させた挙げ句 「利用したければ資源をよこせ」 などと強請るなど)、 そのようにして議会を襲撃させ図書館を焼き討ちさせ、 いままさに社会を崩壊させつつある。 そして最悪なことに、 Web はひとつでどこへも逃れようがない。 2016 年頃からお一人様サーバ的なものをあれこれ試してきた。 人権や民主主義の理想にとって必要だと感じたからだ。 だれもが自分のサーバを持ち、 それぞれが尊重されるべき独立した人間として、 たがいに緩く連合するのがおれには自然なありように思える。 現実の社会では (アルゴリズムに破壊されるまで) そのような営みが人類の歴史とともにあったはずだ。 でもだれもそんなふうには考えない。 遺伝と生育環境に恵まれたひとびとが、 わざわざ中央集権的なものに引き寄せられることがおれには理解できない。 あるいはこれも 「だからこそ」 かもしれない。 世間のひとびとは痛い目にあった経験がないのだ。 まだ。 しかし、 これからは⋯⋯。
インターネットを公共インフラとして考えたとき、 だれがどうやってそのコストを負担するのかという話になる。 自分が見ている世界にだれかの意図が働いていると考えるのをひとは好まない。 ただ自然にそこにあるものを利用するだけ、 だから金を払いたくないと考える。 ところが実際にはだれかがなんらかの利益を得るために資本を投下している。 そこで広告が、 虫のいい利用者とテクノファシストにとって Win-Win の答えとなった。 ここでいう広告とは知恵を絞り、 ひとと対話し、 汗をかいて商品のよさを理解してもらうことではない (本来はそういうことだったはずなのに!)。 「考えをコントロールする」 ⋯⋯ただそれだけになってしまった。 法や倫理を出し抜いて自分だけがいい思いをするのが賢い、 みたいな価値観の行き着くところがそれだ。 ノーランの SF 映画みたいに夢で考えを植えつけたりしなくてもいい。 ただ視界を支配して見せたいものだけを見せ、 望む行動に報酬を与え望まぬ行動に罰を与えれば、 それだけで人間の考えは支配できる。 そして困ったことに、 人間はそういう力に身を委ねるのが好きだ。 「賢い」 側に立った気になれるから。 やりたい放題の暴力を、 あたかも自分の力のように感じることができるから。 寄らば大樹の陰。 責任を負いたくない、 他人の決めた範囲で生きたい。 力のあるものについていればまちがいないと思っている。 父親が生まれながらの社会病質だったので、 かれをとりまく大人たちが、 やりたい放題の暴力に胸のすく思いをしたり、 尻馬に乗って二次加害したり、 そうすることで自分に力があるかのように錯覚したり、 密かにおこぼれにあずかったりするさまを、 子どもの頃からいやというほど見てきた。 踏みにじられた経験がないとそうした邪悪さには気づかない。 抗う人間のほうがおかしいことにされる。
ひとびとが中央集権に引き寄せられるのはほかにも理由が考えられる。 まず中央集権が (本来的な機能ではないが、 結果として) コミュニティとして利用され得ること。 次に、 アルゴリズムないしその波及によるディスカバラビリティだ。 コミュニティとは本来はそれぞれ独立した個人が寄り集まった結果として形成されるものであるはずなのに、 あたかも中央集権の枠組があらかじめそれを規定し、 そこにひとが集まるものであるかに思われている。 そこでひとびとは、 そのように思わされているものを実際にその代替物として使い、 結果としてそれはそれなりに機能する。 だからコミュニティとはそれそのものであり、 それしかあり得ぬかに錯覚する。 テック企業はそうして誘蛾灯のようにひとびとを集め、 「仲間がそこにしかいない」 という錯覚でひとびとを人質にとる。 たしかに現状、 それぞれ独立した個人が寄り集まってコミュニティを形成する手段はない。 だれもつくろうとしないからだ。 というかそういうものが必要だとの発想すらだれも持たない。 すでに中央集権で用が足りていると錯覚させられているからだ。 この枠組の必要性はキュレーションやディスカバラビリティの問題にも通じる。 アルゴリズムの波及というのは、 洗脳された連中がその価値観のままふるまう現状が Fediverse にはあって、 そこでの見いだされやすさは結局、 テクノファシストの決めた価値でしかないということ。 あるいはアルゴリズムに選ばれし民こそが結局は (そこで付与された価値により) よそでも崇められるということ。 そしてアルゴリズムに適応できず表示機会を奪われたひとびとは、 価値のないものと認定されたまま、 よそへ行っても尊重されず、 不可視のままであるということ。 たとえば Fedeverse を支持する連中でさえだれもが大規模サーバに所属していて、 なんだかんだいって結局は中央集権に与している。 そうしないと見いだされ得ないし、 見いだされなければ存在しないもおなじになる。 「Fedeverse を支持する投稿」 を読めたのはかれらが大規模サーバに所属していて、 アルゴリズムに調教されたひとびとが、 アルゴリズムで見いだされた人脈やアルゴリズムで付与された価値でもってかれらを見いだしたからだ。 これらの現状があるのでひとびとは中央集権から離れられない。
ディスカバラビリティを担保する取り決めは、 ソーシャルメディアなりモールなりとは切り離された外側にあるべきだ。 何か技術上の取り決めのようなもので解決できそうな気がする。 なぜみんな単体でその機能を備えているべきものと思い込むのか、 切り離して考えられないのか。 個人とは権力の枠組によって規定されるものと思い込んでいるからだ。 人権というものを権力者の恩寵により賜ったものと思い込んでいるのと同様に⋯⋯。 アルゴリズムのすべてが悪いとはいわない。 YouTube の関連づけやサジェストも以前はそれなりに機能していた。 古いレコードばかり試聴していると好みの音楽ばかり表示してくれた。 それで知った音楽がたくさんある。 残念ながら七、 八年前から連中の都合のいいものばかり紛れ込ませてくるようになってきたが、 うまく機能していた頃のその体験を再現することはできるはずだ。 規則さえ定まればある程度までは人力でもやれるし、 権力につけ込まれぬためにはそうしたほうがいい。 つまり自分の意思で自分の手で、 自分の好みや考えを投稿あるいは自分のサーバ=自分のアカウントにタグづけしていく。 そのタグはハッシュタグのようなものであってもいいが不可視のほうが望ましい。 ソーシャルメディアにおいてはそこまでで終わりで、 それとは独立した別な仕組み、 外側を取り巻く何かが、 そのタグを集積して重なり合う雲を表示する。 関心のある重なり合いからもっとも自分に近いものを、 自分の意思で拾い上げる。 技術的な枠組さえ決まれば実現は難しくないと思う。 あるいはもっと単純に Fediverse アカウントでログインできる集会所のような場でもいい⋯⋯。 ここに書いていることは、 ただ世の中を嘆いているわけじゃない。 別な社会のありようがあるはずだと思って書いている。 その答えは 「ひととひととが対話する」 という泥臭い営みにあるような気がしている。 残念ながらその能力をおれは持ち合わせない。 世の中にはまともに戻ってほしいが、 そうなったところで結局どこにも適応できない。
楽犬舎(自前のMastodonサーバ)に書いたことをまとめました
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https://ezdog.press/post-42095.html