Hulu で 『バッファロー’66』 を見ました。 一年ぶりです。 『さらば愛しき女よ』 にとてもよく似たつくりであることに気づきました。 ヴィンセント・ギャロが大鹿マロイでクリスティーナ・リッチがマーロウです。 マーロウはたまたま事件に巻き込まれますが、 クリスティーナ・リッチは出会い頭から加害者に強い関心を抱きます。 あたかも 「夜に女の悲鳴を聞けばなんだろうと見に行かずにいられない」 マーロウのように。
物語の構造も抑制された (喜劇的な) 語りも、 ハードボイルド小説にとてもよく似ています。 狂言回しによって謎が解き明かされる、 という意味ではこの映画は探偵映画といっていいでしょう。 チャンドラーの探偵は作中で延々と事件を要約しつづけます。 要約探偵とあだ名をつけたくなるくらいです。 行動している最中は探偵はなぜ自分がそのような行動をしているかを読者に説明しない。 代わりに要所ごとに警官や依頼人をつかまえて、 それまでの出来事をくどいほど要約してみせます。 この映画でもそれと似たところがあります。 友人に電話して手がかりの要約をしてみせるのです。 語りが抑制されているのでわかりにくい点もあり、 今回は革ジャンをどこで手に入れたかようやく理解しました。 車内でクリスティーナ・リッチを罵倒して (窓に流れる雨はおそらく彼女が泣いたことを示している)、 後ろめたくなって上着を貸し、 代わりのを買ったんですね。
優れた探偵小説がそうであるように喜劇としても巧みです。 菜食主義者なのに肉 (臓物?) 料理を食べさせられた復讐として、 チョコレートアレルギーの加害者にホットチョコレートを再三せがむ皮肉や、 シーツの皺をやたら気にする神経質な加害者の、 「触るな」 のノリツッコミなど優れた場面がいくつもあります。 物語の表面上は、 自己愛者の歪んだ認知からストックホルム症候群を描くようでいながら、 実際には加害者を滑稽に対象化しており、 必ずしも彼の自己愛を無条件に正当化してはいません。 妄想の犯行シークエンスの、 お笑い芸人さながらの歪んだ顔や、 車の運転もできずシーツの皺を気にするばかりで、 自分が拉致した被害者が女性であることに怯える描写など、 突き放して笑いものにしているといっていいくらいです。 もしもこの映画が自己愛的な認知の歪みとして断罪されねばならないとしたら、 探偵が実際には語り手 (狂言回し) である可能性を、 容易には観客に気づかせないためかもしれません。
この映画で最大の謎は動機です。 ハードボイルドの探偵は事件に自らを投影します。 だから謎の解決が物語の必然となるのです。 クリスティーナ・リッチの加害者への態度は、 登場シークエンスから結末の止め絵まで、 終始一貫しています。 怒りをたたえた眼で彼の背後にあるものを見据えている。 彼の人生をそのようにした世界に怒りを抱いているのです。 それが彼女の動機であり、 むしろ自分の怒りのために加害者を利用するかにさえ見えます。 その義憤はどこから来たのでしょう。 何が彼女の人生をそのようにしたのか。 その謎は謎のまま残されます。