杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第7回: Your Mother Should Know

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.03.07

 母親の漫画がどれほどのものか明日香は知らない。読んだというひとに出逢ったことがないし知るかぎりドラマ化も映画化もアニメ化もされたことがない。何冊か手にとってはみたが漫画を読み慣れない明日香にはおもしろいともつまらないとも判断つかなかった。ちょっと画風が古いなと思うくらいだ。
 出版不況と呼ばれてひさしい時代を三十年も筆一本で生き延びてきたのだからそれでもひとかどの人物なのだろう。何者にもなれずに職も男も喪って郷里に逃げ帰る明日香にしてみれば自分との落差がどうにも腑に落ちなかった。あれほど常識に欠けた女がどうして自らを省みることなく思うがままに生き、それでいて世間から受け入れられるのか。どれだけ世間に気兼ねしてどれだけ努力を積み重ねても何ひとつ叶わぬ人生など母には想像もできない。どうしてそんなことになるのか不思議そうに見るような傲慢さが母にはあった。
 毎朝アシスタントの賄いを兼ねてカレーやシチューや豚汁といった汁物を大量につくるほかは家事らしきことを一切やらず、夫が出て行ってからは鍋や食器を洗うのはもちろん掃除洗濯の類から税金の計算に至るまで小学生の娘に押しつけて当然のような顔をしていた。幼い明日香はいつも同級生の家庭と我が身を較べ、どうして自分の家だけがこんな風なのだろうと惨めでならなかった。親というのはこんなものではないはずだ。父が自分たちを見棄てて出て行ったのも当然だと思った。
 何につけても浮世離れしていて日常会話すら噛み合わぬばかりか気にする様子がまるでない。親として社会人としてあらゆる自覚が欠如している。幼き日の明日香は母を尊敬するよう周囲の大人たちから言い聞かされて育った。母のために家事をし、愚痴を聞いて慰めてやり、壁を蹴ったり本を床に叩きつけたりテレビのリモコンをソファに投げつけたりするのを宥める毎日。どちらが親でどちらが子かわからないその生活に不満を抱くのはまちがっていると、編集者やアシスタントや取材記者や教師や親戚や近所のおばさんに諭された。お母さんは大勢に必要とされる天才なんだから支えてあげなきゃいけないよ……と。
 だれからも必要とされない自分はだれが支えてくれるんだろうと思ったが口には出さなかった。人間は生まれながらに選別されていると幼い日からすでに思い知っていた。
 進学を口実に家を出るまで明日香は母の気まぐれに振りまわされつづけた。高校の頃には無視することも憶えたが小学生時代は苦しめられた。深夜に突然叩き起こされ冬の海を見に連れ出されたりした。鍵も渡されていないのにある日学校から帰ると施錠されていて、算数の定規を使って窓を解錠しそこから侵入するはめになったりもした。そのとき母は突然どこかに取材旅行へ出たきり一週間も帰ってこなかった。置き手紙すらなかったので明日香はさまざまな可能性を考えて不安になり、家庭の恥を隠すために教師や級友の前では普段通りにふるまいながら、警察に通報すべきか否か悶々として過ごした。
 その旅行には編集者やアシスタントも同行していた。ある日帰宅すると大勢の声が家に戻っていて彼らから愉しげな記念写真の数々を見せられ自慢された。当時ネグレクトなどという言葉は知られていなかった。おおらかな時代だったとひとはいう。
 悔しくてならないのはそれだけ迷惑を被っていながら嫌うこともできない事実だった。どんな女であれ産んでくれた実の母なのだ。一挙手一投足に苛立たされるのを知りつつそんな母を頼るしかない自分が何より情けなかった。あまつさえこの十年のあいだに母が心を入れ替えて人間らしくなり、自分を温かく迎えてくれるのではという非現実的な期待が、感情の深い暗がりに巣くうのを明日香はどうにもできなかった。
 見返りのない相手を愛して世話を焼いては裏切られる悪癖はそのように身についたのだろうと鈴木春子に指摘されたことがある。精神科医でも占い師でもない明日香にはわからない。
 母が別人になる夢よりは、失踪した父がソーシャルメディアで娘の成長した姿を見つけ、DMを寄越してこれまでを詫びる筋書きのほうがまだしもあり得た。しかし父が家にいたのは明日香が幼かった数年間に過ぎず、ほぼ記憶がないので夢想のしようもない。夜行バスでのような疲れた夜に、歳上の男に護られる夢をしばしば見るのは春子にも話していなかった。その事実を恥じて歳下好きを公言していた。母の影響は否めないが父の不在が人格形成に影を落としたとは見られたくない。
 あの暴力的な男のあとを追おうとしたのは動揺して混乱したからだと自分にいい聞かせた。
 運転を再開したローカル線にさらに十分ほど揺られ、厭わしくも懐かしい風景に降り立った。世間はとっくに就業なり授業なりをはじめている時間でほかに利用客はなかった。小さな無人駅は券売機や自動改札が新しくなったくらいで、通学に利用していた頃と変わらずに斜面の中腹で市街地や海を見下ろしていた。何もかも変わってしまった自分が街の喧騒に背を向け、学校とは逆方向をめざしている。学生時代の白昼夢を現実に生きているかのような奇妙な感じがした。
 目を覚ませば日当たりのいい縁側で制服のままうたた寝をしていたことに気づくのではないか。大人になってからの十年は悪い夢だった。ばかげた、怖ろしい夢だった。人生があんなに醜悪になるはずがない。自分には価値がある。こんなつまらない田舎に縛られ、いかれた母親に振りまわされるだけの器ではない。人生はこれからよくなるのだ。進学を口実に広い世界へ飛び出すのだ……。
 現実を知ったいま、若き日のそんな思いに復讐されるかのような気分だった。蔑んでいたこの街の、あの母親へ泣きつくためにとぼとぼと歩みを進めている。
 空き地に家が建っていたり、悪童の声が絶えなかった家が空き家のように荒れ果てていたり、シャッター通りになりかけていた商店街が意外にも持ち直していたりした。街を離れる直前に携帯ショップに変わったコンビニはまた別のコンビニになっていた。三叉路の角に建っていた風変わりな古い建物はまだそのままあった。繁盛していた激安スーパーが更地になっていた一方で自転車屋の一回二十円の空気入れは昭和の時代からそのまま放置されているかに見えた。ひとり息子だった同級生があとを継いだかもしれない。
 小遣いを握りしめて友人と通った雑貨屋兼文房具屋は潰れていた。シャッターにはつい数日前に閉店した旨の貼り紙があった。すれ違いだった、と悔やんだが最後の日に間に合ったところでどうしたというのか。もうファンシーグッズに胸をときめかせる小学生ではない。あの頃の母親たちや教師たちと変わらぬ年齢だ。幼かった自分が知ったらさぞかし醜い大人に見えたろう。
 気持が弱っているせいか何を見ても何かを思い出した。どうしたわけか父のことを考えた。ほとんど記憶の残らぬ父を。彼は何を思ってこの街を選んで移り住み、家を建てたのだろうか。何を思ってその家を遺して姿を消したのだろう。もとより会話の成立しない母ではあったが父の話を聞く機会はなかった。明日香からも尋ねなかった。背が高かったこと、無口だったことしか知らない。知るかぎり彼らはまだ籍を入れたままのようだ。四半世紀も顔を合わせず音信さえないというのに。その心情も明日香には理解できない。
 おそらく母のずぼらさゆえだろう、と考えた。父は二度と関わりたくないのだ。あの家の妻とも娘とも。
 ついにメールも電話もできぬまま実家の前に立った。車が新しくなっている。換気扇の音とシチューの匂いがした。汁物を毎朝大量につくる習慣はいまでも変わらないらしい。
 当時は子供の目にもアシスタント全員が若く情熱に溢れていて、地方に暮らしながら働けるだけで幸福そうに見えた。おかげで食事にも給料にも文句は出なかったろうがそれぞれが家庭を持つ年齢に至ればそうもいくまい。知った顔が残っているとも、描ける人材をこんな田舎で新たに確保できるとも思えない。汁物は惰性でつくり続けているのかもしれない。母ならあり得る。ただつくっては食べきれずに棄てているのだろう。スーパーの跡地や文房具屋のシャッターを連想した。母にとってあれはいい時代だったのかもしれない。
 呼び鈴を押すべきか否か躊躇した。そのこと自体によそよそしさを感じ、扉一枚を隔てた向こうが遠ざかった気がした。ここまで来て引き返せない。帰る場所もない。把手を試した。大勢のアシスタントが出入りしていた当時のように鍵はかかっていなかった。意を決して踏み込んだ。
 ただいま、と声をかけて違和感に気づいた。汚いスニーカーやクロックスの紛い物がかつてのように玄関を埋め尽くしていないのは想定内だった。よその家のように感じたのは廊下が片づいているせいだった。通るたびに必ず足の小指を痛めた家具やわけのわからぬがらくたの類いが一掃されている。綿埃が隅に溜まっているどころか床板は鏡のように磨き上げられていた。踵を返そうとしたときには遅かった。台所のほうからスリッパの足音が聞こえた。
 母が娘に報せずに転居する可能性を考えていなかった。母ならやりかねないし、そうされたところで家を棄てて十年も里帰りをしなかった身には文句をいえる筋合いはない。エプロンを着けた男が現れた。明日香と同世代かやや若い。明るい色の小洒落たパーマとセルフレームの黒縁眼鏡。モデルのようなからだつきと容貌。細いジーンズから覗く足首や、薄手のセーターの大きく開いた襟元に見える肩甲骨からは、痩せてはいても無駄なく引き締まった筋肉が想像された。
 控えめにいって美青年だった。きわめて、と付け加えても差し支えまい。あたかも母親の漫画から抜け出てきたかのようだ。どちらさま、と彼は爽やかな微笑をたたえて明日香に尋ねた。声も魅力的だったし心なしかいい匂いがした。高校生向けの邦画やドラマ、あるいは明日香と同世代の寂しい女性を客層に想定した、人気タレントが理想の恋人を演ずるイメージビデオの一場面さながらだった。
 相手がこれほど美しくなく場所も別であったなら、親しくなる可能性は皆無にせよ、せめて髪くらい整えたろう。化粧の習慣がないことを数年ぶりに恥じ、両手で顔を覆って逃げ出したかもしれない。職を喪い男に棄てられ部屋を喪い、果ては痴漢や暴漢にまで脅かされて、破れた服と乱れた髪でここまでたどり着いた明日香にとって、その男の甘い容姿と爽やかさは眩すぎて現実の光景とは思えなかった。我が身のみすぼらしさを忘れて茫然と見とれた。この世界に、狭い町内に、いやそればかりか生まれ育った建物に、夢のように素敵な夫か恋人を持つ幸福な女が実在するのだ。
 だぁれお客さん? と奥の仕事場から声がした。うんざりするほど聞き慣れた声だった。その現実味の落差たるや。毛玉だらけのジャージの女が寝不足気味の目をしょぼつかせ、ヘアバンドで雑に束ねた白髪交じりの長髪をペンの尻で掻き、腰をさすりながら裸足でぺたぺた歩いてきた。
「あぁお帰り」娘の顔を関心なさげに一瞥して母はいった。「ねぇシュウ君、iPadが調子悪いんだけど見てくれる? それともこのペンがおかしいのかしら」見ると確かにそれは彼女が三十年のキャリアで愛用してきたはずのインク瓶に先を浸す道具ではなかった。白い工業製品だった。
 iPadの不調の原因が何であれ、顔を突き合わせてペンを覗き込むふたりを見つめる明日香は確かにフリーズしていた。処理すべき情報はあまりに多すぎた。思わず鞄と顎を落として松田優作の殉職シーンさながらに野太い声で叫びそうになったし、なんなら実際にそうしていた。
 その声は町内に響き渡った。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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