杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第27回: 結婚の手法

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.07

 なぜこうなるのだ。職務に一生懸命打ち込んだだけではないか。それが罪なのか。呪われた星のもとに生まれたに違いない。それもこれもすべて田辺美樹のせいだ。淑女の用便中にいきなり闖入し目の前で全裸になって堂々と入浴などするからいけない。あの偏屈男め。許せぬ。
 高校時代からの憧れだったキヨタカ先輩。大人になってもかっこよく、スーツも私服もキマっていて、常識人で正社員で、まともな年収が期待できる。失敗つづきの人生でこんな優良物件には二度と出くわすまい。話題がいつも退屈なのは些細な問題だ。お喋りを愉しみたければ鈴木春子に電話する。距離を詰めるために積み重ねてきた時間と労力が、それなのに一瞬で水泡に帰した。
 女ならだれだって仕事でもファッションでも芸能人の噂でも、そのときいちばん夢中になっている話題を語りたいではないか。自分はファッションにも芸能人にも興味はないし、女の代表を名乗る自信もないがそれはそれとしてだ。男に多くは望まない。理解されることなどはなから期待しない。ただ適宜、相槌を打って同意してほしいだけなのだ。ライン上の寿司にタンポポを乗せるがごとき簡単なお仕事ではないか。
 話題が悪かったのは認める。知らぬおっさんの話などされてもキヨタカ先輩は困惑するばかりだったろう。そこは確かに反省の余地はある。しかしそれをいうなら先輩の職場の話だって困惑させられるばかりだった。稼いだ金には素直に感心するがいかに稼ぐかに関心はない。読んだ本について話せばインテリ気どりの生意気な女と思われるからこれでも手加減してあげたのだ。
 しかしまだ望みはある。完全な破局ではない。正確には「ぼくたちは急ぎすぎたのかもしれない。いったん距離を置こう」と提案されたのである。
 急ぎすぎることなどあるものか。三十路まで残された時間はあとわずか。双方の家族に挨拶し職場に根回しして式場を予約し籍を入れて子作りし出産するまで、どんなに急いでも遅いくらいだ。高校時代には明日香と同様に奥手だったタマミでさえすでに三人も子供がいる。
 かといって具体的に生々しく訴えるのは得策ではなかろう。ますます距離を置かれてフェイドアウトされかねない。男とはそんなものだと明日香も苦い経験から思い知っている。過去に結婚を意識した男に迂闊にも本名を告げたのは焦りからだった。己のすべてを知ってもらおうと迫ったのだ。
 同じ轍は踏むまい。最大限に言葉を丸めながらもキヨタカ先輩に同様の指摘をした。
 先輩は溜息をついた。「確かに疲れているようだね」と呆れたように告げて伝票をつかんで立ち上がった。気持が離れているのがありありとわかる声だった。
 振り返りもせずに歩き出す背中に向かって手を突き出し、あぁーっ待ってよ行かないでまだ時間はあるでしょう、座ってさっきの退屈な話のつづきをしてよ我慢して聞くからさ、と喉元まで出かかったが、自己主張する女は愛されないという世間の常識を思い出してぐっとこらえた。急いては事をし損じる、なるほどそれも一理ある。戦略的一時撤退だと考えなおした。
 日に何度も執拗なまでに着信のあったソーシャルメディアがその午後を境にうんともすんともいわなくなった。見苦しく泣いて引き留めるべきだったろうかと明日香は悩んだ。キヨタカ先輩を喪ったことにではない。さほど打撃を受けておらぬ自分に気づいたからである。少なくとも歳下の学生におまえは金蔓でしかないと告げられたときのようには落ち込まなかった。
 そればかりか奇妙にもむしろ気分が軽くなった。その事実を認めざるを得なかった。貴重な結婚の機会を喪ったにもかかわらずこの平静さはどうだ。大人として社会人としていかがなものか。化粧や服装にかける金、神経、労力、時間……それに週末に向けて体調を整える配慮。好きな男のための努力は悦びに感じられてもいいはずなのに、無意識のうちに負担に感じていたことに気づいた。
 これからは退屈な話に付き合うためにわざわざめかし込む必要はない。上下が異なる安物の肌着と高校時代のジャージと割烹着とがま口でいてもだれからも批難されない。むしろ生じた余裕を手の込んだ料理に向ければアパートの住民に喜ばれる。デートの時間を確保するために無理をしたり、手抜きを後ろめたく思ったりすることもなくなる。いつ生理が来ても構わないしいざ訪れたときも煩わしい口実を考えずに済む。
 結婚するにせよ東京に戻るにせよ貯金はまだまだ足りない。「距離を置」けば化粧や服装や装飾品に費やす金が浮く。いいことずくめであるかのようについ考えてしまう。しかしそれは怠惰な甘えだ。そんなことではいけない。常識的な大人になると決めたのだ。
 悶々と過ごしていたある日、経過報告会と称してタマミに呼び出された。例のお洒落なデートスポットはさすがに勘弁してもらった。キヨタカ先輩にふられた心的外傷がよみがえりかねない。
 結果としてタピオカ飲料の店が指定されたが明日香はこれが苦手だった。幼稚園児の頃に近所の田んぼで遊んだ牛蛙の卵を連想する。洒落た外国語の店名からはそんな店だとは予想しなかった。いまさら蛙の卵は飲めないともいえず明日香はまずいカフェラテを注文し、タマミに呆れられた。
 タマミが何を聞きたがっているかは明白だったが明日香は話題をそらした。そればかりか相手に関心がないのを知りながら管理業務の進捗を語った。そうすることでキヨタカ先輩の不興を買ったばかりだというのにである。あるいは先輩やタマミに代表される世間の常識に対し、明日香はいささか反抗的な気分になっていたのかもしれない。だとすればボッチーズの影響がそこには見て取れたかもしれない。
 いずれにせよ明日香は相手の思惑がどうあれ話したいことを話してやろうという気になっていた。
 リリース直前の追い込みで男たちは疲弊していた。ものいわぬ神崎陸でさえやつれて見えた。明日香の食事だけが癒やしだとマシューにもヤンパチにもいわれている。感謝の言葉こそ聞かないが田辺美樹も神崎陸も必ず完食してくれる。光丘たえが入院してから明日香が業務を引き継ぐまで建物の手入れは男たちがしていた。もしも明日香がいなければ作業が滞ってアパートは荒廃していたろうとあきらは語った。
 二十八歳にして明日香は生まれてはじめて仕事にやりがいを感じていた。当初はそのことに後ろめたさを感じた。アパートでの業務の大半は家事に類する作業であり、家事は世間では仕事と認められない。認められぬ仕事を侮る気持も、母の世話を焼くのに費やした子供時代への後悔もあった。「こんな仕事」に悦びをおぼえる自分を受け入れられなかった。
 しかしキヨタカ先輩が語る結婚観に耳を傾けるうち、それはそれでいいのではと思えるようになった。女は家庭でうんたらかんたらという論理だ。賛同はしかねたがそういう考えが成り立つのなら家事だって業務として評価されてしかるべきだという気がした。
 そもそも女だから男たちの世話を焼いているのではない。単にそうするのが好きだからやっているのだ。自分が男でもヤンパチのようなゲイでも同じことに悦びを感じたろう。
 そのように開き直ってからは仕事がいっそう楽しくなった。男たちが広間に寄りつかなくなった当初は寂しかったが、栄養のある料理をつくったり建物を手入れしたりすることで、彼らが仕事に全力を投じられるように支援しているのだと考えると張り合いを感じた。
『ぼっちの帝国』が「あたしたち」の作品でもあるかどうかを尋ねるあきらの言葉を思い出す。美樹の口からは聞けなかったが、明日香はその答えを知っているように思った。彼らが何をつくっているにせよ、それは明日香やあきらを含めた全員の作品だ。
 美彌子の出入りは「あたしたち」の仕事を妨げるかのように激しくなっていた。彼女が訪れた日は決まって「全自動締めつけ機」が騒音を立てた。明日香が触れてからどこかが不調をきたしたらしく、振動や騒音は前よりもひどくなった。神崎陸なりに近所に気を遣っているのか、単純に睡眠をとっているからなのか夜九時以降は静かなのが救いだった。
 美樹は両方の仕事をこなしているようで倒れやしまいか明日香は気がかりだった。深夜に目が覚めて二階へ上がってみると彼の部屋からコトコトという打鍵音が聞こえた。足音を忍ばせて階下へ戻り、ベッドで天井を見つめながら、書かれつつある新作に思いを馳せた。
 美樹がわざわざ元妻の料理を廃棄してまで自分の料理を食べるのは、明日香にとって嬉しくもあり胸の痛むことでもあった。美彌子に気取られぬよう台所のゴミ箱をこまめに空にした。そのことで美樹とのあいだに共犯意識めいたものが芽生えつつあった。少なくとも明日香はそう感じていた。
 そこまで話したところでタマミは強引に割って入った。「先輩はどうなったのよ」
「別れた」
「はぁ?」
 明日香はタマミのこめかみに青い血管が浮くのを見た。高校時代の親友は決してこんなことで血相を変えたりはしなかった。やはり莢人間に街を盗まれたのか。「距離を置いて考え直そうって」と明日香は弁解するかのように補足した。
「あなたがわからない」タマミは大げさに溜息をついてみせた。
 自分でもわからないと明日香は思った。ましてや他人にそう簡単に理解されてたまるものか。日々の労働が充実しすぎて失恋に打ちひしがれる余裕はなかった。
「あんたキヨタカ先輩のこと好きなんじゃなかったの」
 明日香が答えに窮して考える気配を見せるとタマミは激怒した。
「高校の頃からずっと憧れてたでしょう。ちょっと前まで狙ってる女は山ほどいたんだから。高嶺の花だからってみんな諦めて手近な男で手を打って、波が退いたいまがチャンスなのよ。うかうかしてるとられるからね。あんないい男がまだ独身なんてそうそうないよ。おまけに明日香に気がある。何が不満なのよ」
「不満は……ない」たぶん。よくわからない。
「だったら」タマミは苛立ってテーブルを叩き、客や店員の視線を集めた。「行動しなきゃ。そんな中途半端な態度でどうするの」
「好きだけど、いますぐ結婚するほどでも……」
「考え方が逆。結婚するために本気で好きにならなきゃ。もうあの頃みたいな子供じゃないのよ。二十八よ」
 明日香は目の前の親友を、というかそのように考えていた女をまじまじと見つめた。目から鱗だった。そんな考え方が成立しうるとは思いもよらなかった。なるほど世の中はそのようにまわっているのだ。そうあらねばならない社会的な論理が先にあり、個々人の感情はそれに従属する。ひとはそのようにして生活しているのだ。家族とはそのようにして形成され、維持され、再生産されるのだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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