杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第34回: You Left Me Sore

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.27

 田舎の情報伝達速度はインターネットよりも速かった。
 だれにも何も話さぬうちから電話やソーシャルメディアのメッセージが殺到した。高校時代の友人知人、おそらくキヨタカ先輩と再会した飲み会の参加者なのだろうが、多くは名前すら憶えていない連中から祝福の、あるいは揶揄の言葉が降りそそいだ。
 というのはつまり店を出たのち、先輩の内面において一方的に高まった欲求を解消する手間を、ひとりでよく考えたいとの口実で拒み、ローカル線で実家へ帰宅する半時間ほどのあいだにという意味である。先輩のことだからどこか金のかかる場所を予約していたのかもしれぬが知ったことではない。婚約は人生の重大事である。考えるのはあながち口実ばかりともいえぬ。
 ソーシャルメディアのタイムラインはさっそく大喜利と化した。あの飲み会から彼らはこのときを待ちかねていたのである。それほど娯楽に乏しい街なのだ。他人事なればこそ無責任に祝える。明日香にしても我が身に起きた出来事とは思われなかった。気どった欧州料理店での食事もデザート後の四十万も、縁もゆかりもない遠い世界の話題に感じられた。
 情報の流出源は考えたくなかった。四十万に延期を申し出た事実は自分ともうひとりしか知らぬのである。そしてその事実をあたかも受け入れたかのごとく歪め得る人物もまたただひとりしかいなかった。いちいち否定や弁解を返すのが面倒になった。はいはい、婚約婚約。
 そもそもあの情熱的な口説き文句がいけない。自己陶酔している感じがして怖かった。
 だれかほかの女と取り違えているのではないか。考えれば考えるほど非現実的に思えた。どんなつもりで交際してきたのかと問われれば返す言葉もないが、職も住居も喪って、一度は手ひどくふられさえしたこの自分が、あの先輩にふさわしい女とは思えない。これまではただなんとなく雰囲気で流されてきただけである。
 自己卑下でも何でもない。単にわけがわからなかった。
 本来なら夢を見ているかのようなとろけた気分になるべきなのだろう。目の前にCGアニメの狐が飛び出してきて明日香の鼻をつまんで逃げていったような気分だ。結婚詐欺なら手口が雑すぎる。無職を騙して得られるものはなかろうし、そうでなくても小道具や舞台装置に金をかけすぎている。
 動機を詮索したところでどうなるものでもない。先輩には先輩の事情があるのだろう。こちらはこちらで身の振り方を考えねばならぬ。ふたりでひとつの戸籍が新規作成される事態ともなればさすがにただ流されるわけにもいくまい。苗字の件がなければそれでも流されていた可能性は高いが、権田原トゥモロウは人名で散々苦労してきたのである。人生が名前による苦難と共にあったといってさえ過言ではない。
 一般的な日本女性にとって婚姻には苗字選びの側面もある。全国の該当者には誠に申し訳ないが、自分がたとえば真紀さんであったなら原さんや槙さんとの結婚には、どんなに愛し合っていたとしても躊躇をおぼえたろうと明日香は思った。さちさんなら薄井さんとの将来に一抹の不安がよぎろうし、愛さんなら尾見さんとの大恋愛が偽りであるかのように感じねばならぬ。
 名前とは妙なものだ。たかが表層のくせにあるべき実体を呪いのように規定する。人柄や生き方を世間に対して弁解せねばならぬような心持ちにさせられる。いいわけに疲れて逆らう気力もなくなりこのざまだ。思えば流れ流された人生は奇抜な名前のせいであったやもしれぬ。
 苗字といえば藤田磨美だ。とうの昔にほかの何者かに変じているはずなのだが、銀行員になど興味がないので一度は耳にしても記憶に残らなかった。あるいはあえていまさら質問し、ついでのようにキヨタカ先輩の苗字まで訊き出せばよかろうか。
 小洒落たカフェでの報告会はいまや週一のセミナーと化していた。鬼教官タマミは不出来な生徒を厳しく指導した。何しろ幸福な結婚をして三人も子供がいるのだから絶対の正義である。なぜそこで指輪を受けとらなかったのかと詰問された明日香は、後ろめたさのあまり思わず洩らした。
「自分がだれになるかわからなくて……」
「は? あんた何いってんの」
「キヨタカ先輩の苗字って何だっけ」
「ごめん。ちょっと意味わかんない。キヨタカ先輩はキヨタカでしょ」
 光丘秀蔵について尋ねた際の母のような口ぶりだった。さては莢人間は母の惑星から来襲したのかと明日香は疑った。タマミもまた異星人にでも出くわしたかのように明日香を見つめた。
「ずっとキヨタカ先輩って呼んでたからフルネームを知らないの。いまさら本人に訊けない」
 タマミの目つきが暗い色に変じた。狂人を畏れて身構えるかのようになった。指輪の推定価格を論じていたときには身を乗り出していたのに、いまでは距離が離れている。
 妥当な扱いだと明日香は思った。確かに抜けているにも程がある。仮にも恋をして婚約の寸前までこぎ着けた相手の、よもや苗字すら知らぬとは。
 脳に欠陥があるのかもしれぬと初めて思い至った。頭頂に電球が灯りエウレカと叫ぶかのような気分だった。そうかあたしは見下していた田辺美樹や神崎陸と同類だったのだ。そう考えればすべてが腑に落ちる。三十路みそじ間近に至ってここまで社会生活が破綻した人間はそういない。これは障害なのだ。
「清高誠一郎」
「は?」
「キヨタカ先輩の名前。誠一郎だよ」
 明日香は目を丸くし口をあんぐりと開けた。タマミは呆れかえったように溜息をつき、あんたらしいわと呻いた。脳障害があたしらしいとはどういう意味かと思ったが憤る資格はなかった。
 流されまい、との決意は脆くも崩れ去った。清高誠一郎の行動力を明日香は侮っていた。心情の如何を問わず入籍へ向けた段取りは着実に推し進められた。目的地を知らされぬままにドライブへ連れ出され、着いた先は寂れた郊外の住宅地。築三十年ほどの一軒家の表札に清高とあり、畳敷きの茶の間で老いた両親が寿司の出前を取り、ひとり息子の婚約者を待っていた。
 寿司ってと思った。宅配寿司が広まる前の商店街の寿司桶だった。こういうの昭和の二時間ドラマの再放送で観たことあると思った。絵に描いたような善人夫婦で思いのほか歓迎された。母親は感激して涙ぐみ、父親はビールで酔っ払って高笑いした。息子の幼少期のアルバムを広げて昔語りをされた。体の弱い子でねぇ、それがこんな立派に育って美人のお嬢さんを連れてきて……。いやめでたい、おまえも飲め。よせよ母さん、父さんは飲み過ぎだよ、ごめんねさん、こんな両親で。
 そんな心温まる光景を前にして、まさか求婚にまだ返事をしていないとはいいだせなかった。
 困った状況になった。清高誠一郎の強引さにこのまま押し流されればあの善人夫婦が身内となる。義理の両親として確かに理想ではあった。自分には幼少期の写真など一枚もない。実の両親があのようであったならとも夢想する。しかしそういう問題ではない。気持の整理がつかぬのだ。自分でも何が不満なのかわからない。
 四十万の輝きを前にしても収まるべきところに収まったという実感がしない。この違和感を抱えたまま清高誠一郎と子をなし、育て、あの老夫婦を介護し見送って、共に老いてゆくだけの決心がつかない。
 これ以上タマミには相談できない。先輩の気が変わらぬうちにさっさと籍を入れろ云々、と説教されるだけなのは目に見えていた。逃げられぬよう先に子供を仕込めなどと具体的な手法まで伝授されかねない。高校時代の大人しく清純だった藤田磨美の想い出がまだ残っていた。これ以上けがしたくない。
 その道筋で幸福になったタマミと自分とはさまざまな条件が異なるのだと説明したい。しかし常識を敵にまわして己を正当化するほどの言葉は見つからない。あきらの暴力沙汰で学校に呼び出されたときの田辺美樹を思い描いた。ひとそれぞれ違うのが個性でしょう。みんなが同じ人間でなければならないんですか。
 あたしもあんな風にきっぱりと物をいえたらよかったのに。そう考えると愉しかった頃のアパートが思い出されてまたも涙が滲んだ。
 思えばあの田辺美樹でさえ柳沢美彌子にはいいなりだった。面談の日の勢いはどこへやら、最後に目撃したときには目から光が消えていた。強引な元妻に振りまわされる男は、強引に婚約者へ仕立て上げられる悩みの参考にはならない。相談に乗ってくれそうなのはヤンパチとマシューだが、かつてのようにじっくり話す余裕はいまの彼らにはない。あきらは恋愛相談をするには若すぎる。
 見るからに百戦錬磨の光丘秀蔵は、チーフアシスタントだのハウスハズバンドだのと称して母の愛人をして暮らしているところを見ると、三十八歳にもなるまで年貢の納めどきから狡猾に逃げまわってきた人種のように思える。おまけに近頃では明日香が週末の外泊から帰宅するたびに呆れたような視線を向けてくる。口に出しては批難されないが快く思われていないのは明白だった。あたしがだれとどう付き合おうが関係ないだろう、愛人風情が義父気どりかよと腹が立った。
 鈴木春子の顔は思い浮かべなかった。いまここで彼女に弱音を吐くのはまちがいだという気がした。
 やむなく母に話した。彼女は露骨に喜んだ。手塚治虫文化賞に選ばれた際も、萩尾望都と対談した際もかくまで喜ばなかった。婚約やら指輪やら、都合のいい単語ばかり聞きとってねじ曲げて解釈された。指輪もまだ受けとっていない旨を訴えたが聞き入れられなかった。ぜひ家に連れてくるようにと命じられた。
 実の娘の一大事くらいはとか、同じ女として母も同じ悩みを経験したはずだとか、相手が血の通った人間であるかのような甘い期待を抱いたのがまちがいだった。この身勝手な女と会話は成立しない。二十八年間も苦しめられてきたのだ。娘の身にどんな災いが降りかかろうと変わるはずがない。
 清高誠一郎は思いのほか面の皮が厚かった。高校時代の繊細な印象で見ていたのでそんな男だと気づくのに遅れた。彼は万事につけ不都合なことは見ぬふり、聞こえぬふりをする。指輪が保留になっている事実などなかったかのような態度を押し通した。
 明日香は幾度となく事実を話題にしようとした。いずれ受けとるんだろうという顔で必ずはぐらかされた。そのような態度をとられてしまうと確かにここまできて拒む将来は思い描けない。実際にいつかは結婚するのだろうし、もうすでに承諾したも同然だという気がした。
 恋した男と結婚できる。経済的にも申し分のない相手だ。何を畏れる必要がある?


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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