杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第19回: You Keep Me Hangin’ On

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.06

 金曜夜の電車は酒臭い。まともに立っていられぬ男や座席で眠りこける女ばかりだ。明日香もそのうちのひとりだった。運よく座席を確保し、ほろ酔いで揺られながら幸福な気分に浸った。
 やはり思いきって参加してよかった。画布に向かう背中を遠くから見つめるしかなかった憧れの先輩。再会できたばかりか連絡先まで手に入れた。タマミのお節介には感謝の念しかない。
 高校時代は膝がぶつかる距離で会話を交わすなんて夢のまた夢だった。アイコンが加わった携帯の画面を見つめてニヤニヤした。ソーシャルメディアへの忌避感はいまや礼賛へと転じた。おかげで今後はいつでもつながっていられる。その気になれば会話さえできるかもしれない。あわよくばふたりきりで逢うことも……。
 夢のような記憶を反芻しようとして気づいた。多感な十代をともに過ごした旧友らの、酒臭い息を吐きながら騒ぐ声や赤ら顔ばかりが脳裏を占拠している。肝心のキヨタカ先輩は大人の顔だったという曖昧でおぼろげな印象しかなかった。間近で話したはずの顔も声もアルコールの霞がかかってよく思い出せない。
 おかしい。そんなはずはない。必死になって思い出そうとした。確かにそう長くはなかったが親しく会話さえ交わしたのだ。そうだ、忘れるわけはない。実家に戻っているか訊かれた。そしてあたしは……どう答えたんだっけ。ほかに何を話した。話したはずだ、おたがい笑顔で。笑顔? どんな笑顔だ。
 むりに思い出そうとするとセルフレーム眼鏡とお洒落パーマの爽やかな笑顔が浮かんだ。違う。確かに輝くばかりの美青年だが思い出したいのは光丘秀蔵じゃない。頭から振り払うと今度はクックロビン音頭に笑い転げるマシューやヤンパチが現れた。どんなに笑わそうとしても表情ひとつ変えなかった田辺美樹まで思い出される。自分の脳はいったいどうしてしまったのだ。少し飲み過ぎたかもしれない。この十年大切にしてきた記憶に立ち返ればいいと思いついた。名案だ。
 愕然とした。画布に向かう先輩は決して振り向いてくれなかった。キヨタカ先輩の顔が思い出せない。
 あれだけ至近距離ならいい匂いがしたはずなのに、周囲の酒臭い息や煙草の臭いが思い出されるばかりだった。その記憶を追い払おうとするとまたしても光丘秀蔵の匂いがよみがえる。違う、と心中で叫んだ。母の愛人などどうでもいい。いま必要なのはキヨタカ先輩の想い出だ。ヤンパチの煙草臭さでもなければマシューの乳臭さでもない。
 ましてや地下のランドリー室に立ち籠める汗の匂いなどでは決してない。
 作品を見れば記憶を取り戻せるはずだ。こっそり撮影した彼の作品はいまもクラウドに保存してある。数年ぶりにアプリをタップした。そしてまたもや愕然とした。印象が記憶と違う。当然のようにプロになると校内のだれもが信じていた彼の作品はどれも凡庸な高校生の作品にすぎなかった。
 ——あんたでなくとも描けるものをなぜ描いた。それが世間で正しいとされるからか。
 明日香はぎゅっと目をつむり、呪いのような声を振り払おうとした。胸の悪くなるイメージはかえって鮮明になった。理不尽な怒りに囚われ、むずむずしてじっとしていられない気分になる。だれかをめちゃめちゃに殴りたい。できれば田辺美樹を。締め切り前の母が壁を蹴ったりリモコンを投げつけたりしていたのと、そっくりの状態に陥っているとは夢にも思わない。
 確かに美しさの点で光丘秀蔵に叶う男はいないし、ボッチーズの強烈な個性の前ではだれだって掻き消される。美樹のような腕力も多くの人間は持ち合わせていない。でもこっちが普通なのよ、と明日香は心中で叫んだ。あたしやキヨタカ先輩をつまらない人間みたいにいわないで。
 酔いが回ったらしい。翌朝には頭痛と後悔とともに思い出すことになる。緊張のあまり憧れの先輩を直視できず、ろくに口も利けず、間が持たぬので目の前にあった他人の酒を片っ端から干したのだ。せっかくの多幸感が電車を降りる頃には台なしになっていた。駅のトイレで吐いた。
 帰宅するとアパートが妙に静かだった。美樹とヤンパチは四十年代末から六十年代初頭にかけてのジャズを好んだ。普段なら彼らがまだ広間で音楽をかけているはずの時間だった。ときにはマシューも加わって古い白黒映画を観ることもあった。明日香も気が向けば仲間に入れてもらった。バードとディズもビリー・ワイルダーも彼らに教わった。骨董品めいた巨大なスピーカから聞こえるはずのその音がしなかった。
 広間に入るまで来客に気づかなかったのは共用部ではだれも靴を脱がないからだ。美樹などは自室でも土足で生活していた。明日香は最初は落ち着かなかったがいまでは慣れた。
 テーブルに長身の美人がいた。向き合って座る美樹と雰囲気がどこかしら似ている。腰まである黒髪は日本人形を思わせた。前髪は真一文字に切りそろえられている。からだに張りつくようなチャコールグレーのスーツから黒いストッキングを穿いた長い脚が伸びていた。靴は明日香なら立ち上がった瞬間に転びそうなハイヒールだ。マシューとヤンパチがソファから、あきらがバーチェアから警戒するようにテーブルのふたりを見守っている。あたかも油断すれば女がいまにも田辺美樹を刺殺しかねないかのようだった。
 女と美樹は直前までいい争っていたらしい気配があった。口論が膠着し、長い睨み合いに陥ったところに明日香は帰宅したのだ。明日香が戸惑って戸口に立ち尽くしていると、女はそのことで興を削がれたかのように席を離れた。振り返り、呪うかのようにいい棄てた。
「書かずにいられるわけがない。書かなければ何者でもないことをあなたは自覚しているはず」
 すれ違いざまに明日香を睨んだ。ものすごい美人だが切れ味のいい剃刀のように背筋が冷える何かがあった。だれも玄関まで見送らなかった。重い扉が閉まり、靴音が建物を離れるのが聞こえた。マシュー、ヤンパチ、あきらの三名は深い息をついた。この時間にどうやって宿まで帰るんだろうと明日香は思った。東京まで帰ると知っていたとしても引き留めはしなかったろうが。
 田辺美樹は憔悴しきっていた。出逢って以来こんな彼は見たことがなかった。ひとまわり縮んで見えた。
 あきらは明日香がそれまで耳にしたことのない優しい声を美樹にかけた。背中に手をかけ、励ますように立たせて彼を部屋まで連れて行った。十一歳の子供が三十八歳の大男をいたわり、支えていた。しばらくして戻ってくると彼女はあたしも疲れたからもう寝ると宣言した。
 夢のような酔いにせよ悪酔いにせよすっかり醒めてしまった。明日香はグラスに水を汲んでひと息に飲み干した。顔が重い。早く化粧を落としたかった。料理は一切手をつけられていなかった。育ち盛りのあきらを思って胸を痛めた。
 ヤンパチとマシューに経緯を訊いた。柳沢美彌子はかつての担当編集者で、美樹を執筆業に復帰させようとしていた。明日香が出かけた直後に何の連絡もなく唐突に現れ、たったいままで執拗に口説いていたという。美樹はいまの仕事に打ち込んでいるから戻るつもりはないと断り、感情的な罵倒に耐えつづけた。
 田辺美樹は十代で文筆の世界に足を踏み入れてから、長いあいだ柳沢美彌子と二人三脚で多数のベストセラーを世に送り出してきた。六年前のある日、柳沢にさえひと言の相談もなく突然に、断筆を宣言する一文をメディアに発表して失踪した。柳沢は美樹が自殺すると信じ、狂ったように彼の行方を捜した。
 手がかりは得られなかった。何者か、あるいは何らかの組織が彼の足跡を掻き消したかのようだった。
 自殺を心配したのはヤンパチとマシューも同じだった。学生時代に美樹から聞いた話を彼らは思い出した。子供時代、兄の都合で引っ越すまで祖父の持ち家のひとつに住んでいたこと。祖父の不動産に昭和モダン建築があり、いずれそこに住みたいと夢想していること。美樹は大切にしている考えを親友にしか話さなかった。そのことをふたりも知っていた。田辺財閥の元総裁、田辺宗一の出身地はウィキペディアにも記載されていた。青葉市に居住可能な昭和モダン建築は数えるほどしかなかった。
 柳沢美彌子の前で美樹は実家の話を一切しなかったようだ。にしてもこんな単純な事実を彼女がどうして探り当てられなかったのかわからない。一年ぶりに再会した美樹は、近所を訪れたついでに立ち寄った友人を迎えるかのような、最初からそこに住んでいたかのような何事もない態度で彼らを招き入れた。育ての親である兄が失踪に手を貸してくれたことを美樹は語り、柳沢には黙っていてほしいと親友らに頼んだ。
 美樹は小学校時代の同級生、神崎陸と暮らしていた。住み込みで彼らを世話している女性はだれかに似ていると思えば光丘秀蔵の祖母だった。美樹と孫の友人を彼女は歓迎し、ひどく喜んで酒の席を設けた。自慢料理が幾皿も並んだ。愉快に飲むうちに以前から仲間内で口にされていた冗談が蒸し返された。光丘たえは田辺宗一の若かりし頃の逸話を披露するなどして、ぜひおやんなさいとそそのかした。
 翌朝になっても酔いは醒めなかった。ヤンパチとマシューはいったん帰京し、それぞれの職場で引き継ぎを済ませ溜まっていた有休を取得して、二週間後には荷物をまとめて引っ越してきた。
「あいつといると退屈しないんだよ」ヤンパチは弁解した。
「顔を合わせてないと調子が狂うんだよね」とマシュー。「十八の頃からずっと一緒だったから」
「陸もあんなだけど同類だってことはすぐわかった。あきらもな。あれだけ頭の回転が速くて気が強くなきゃ学校で虐められてたろう。権田原トゥモロウさん、あんただけはよくわからない。割と普通そうに見えるのにおれたちに溶け込んでる。思い込みの激しさは柳沢美彌子に似てるが、あいつはおれたちとは馴染まないしな」
「毛嫌いされてるよね。虫を見るような蔑みの目で見られる」
「おまえはそういうの好きだろ」
「あのひとは苦手だよ。怖いもん」
「ま、そういう意味ではトゥモロウさん、あんたも変わってるのかもしれないな」
 好きになれない種類の女であることはひと目でわかったが、そうであってさえ明日香はあの黒髪美人に同情した。ほんのわずかな期間とはいえ通販会社で働いた経験があるのでわかる。下請けが仕事を放棄して失踪すれば会社員なら二度と顔を見たくなくなるものだ。しかも二人三脚なる言葉が事実なら全責任は柳沢美彌子ただひとりにのしかかったろう。どれだけの損害をどれだけ苦労して埋め合わせねばならなかったことか。
 そう考えると担当編集者であるだけにしては不自然だった。美樹にどれだけ才能があったか知らないが、村上春樹かスティーヴン・キングほど稼ぐのでないかぎり、探偵を雇ってまで行方を突き止めたり、夕食どきに押しかけて何時間も説得を試みたりするだろうか。通販時代に取引のあった業者でさえ代わりはいくらでもいた。作家だって違いはなかろう。明日香が疑問を呈すると男たちは困ったように顔を見合わせた。
 柳沢美彌子はかつて美樹と結婚していたとヤンパチは白状した。若い頃は名前も長身も似ていて双子のようにお似合いといわれていた旨をマシューは回想し、それがこんなことになるなんてねと残念そうにいった。
 なぜ隠そうとしたのかと明日香はふたりを問い詰めた。
「田辺君のこと好きそうだと思ったから……」
「おれは違うっていったんだけどな」
「はあ?」明日香は驚き呆れて怒りがこみ上げた。
「だってほら、痴漢から救ってくれた男と偶然再会なんて恋に落ちるしかないじゃない。あきらちゃんも怪しいっていってたし」
 おまえらみんな乙女かと明日香は思った。実在の人物を妄想に使うな。
「おれはそれもシュウの作為を疑ってるけどな。あいつの前で美樹の話をしなかったか」
「したかも。母の前で」つまり彼の耳のあるところで。
「気晴らしに変質者を脅すようなやつは世界中でほかにいない。シュウはわかっていて引き合わせたんだ。悪趣味な男だよ。美樹が昔からどんな女につきまとわれやすいかあいつも知ってるから」
 マシューが眉根を寄せて何事か小声で囁き、ヤンパチを丸い肘で小突いた。
「どういうこと」
 明日香の問いにヤンパチは言葉に詰まり、咳払いした。
「あんたシュウのこと自分より若いと思ってるだろ」
「違うの」
「あいつおれらと同級生だよ。みんな高校時代からの腐れ縁なんだ。柳沢も」


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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