mistress なる単語は 『 月は無慈悲な夜の女王』 を連想させる。 SF としてはハインラインより J・G ・バラードの思弁的な小説に似ている。 あるいは、 クラークよりも 『ヴァリス』 や 『暗闇のスキャナー』 で有名なプリーストに、 だったろうか。 実を言うと記憶が不確かだ。 ところで、 女教師と交際していた話はしただろうか。 むち打て親愛なる女主人様、 ほかのだれかなら腕をへし折っていただろう。 狂人の支離滅裂な思考に見せながら奇妙に辻褄が合っていたり、 思いがけないところで相互に結びついたり伏線が回収されたりするところは 『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』 を思わせる。 しかしながら、 さほど感心しなかったその名作にあってさえも、 ナボコフはもっと笑えるしもっと感性が病的に鋭い。 やりたいことは言葉の遊びでありながら、 その遊びを金に換えるための物語もちゃんとおもしろく書くのが、 チェス愛好家にして蝶の研究家でもある亡命作家のやり口だ。 その物語のおもしろさにしてもいかにもあからさまに口実然として、 どこからか安易にひっぱってきたことを隠そうともしないのだけれど、 そういうふてぶてしさ、 不敵なニヤニヤ笑いのしたたかさに強い力を感じさせられる。 そこに人間性への共感はないけれど、 人間を解しない逸脱した感性ゆえの人間性が感じられるし、 なんならありがちな犯罪小説やポルノを装いつつも、 ペドフィリアにだめにされた人生の惨めさまでちゃんと書かれている。 ほのめかしていたものを読者の鼻先でとりあげる意地悪さや、 語/騙ることへの不信こそが魔術なのだと思わせる力がナボコフの小説にはある。 他方で、 実をいうと、 本書にそこまでの魅力は感じなかった。 何かが起きた世界について書いておきながら詳細は記さない技巧にしても、 ナボコフのような悪意に満ちた笑いではなく (笑える箇所もいくつかあるが、 それほどの切れはない)、 単なる物語の不足のように感じさせられるし、 不貞と夫婦の諍いが招いた子どもの死についても、 同様に言葉を惜しみながら、 にもかかわらず、 それでもなお、 量感を伴って描き出す方法もあったはずだ。 それをいえば狂人の語りがどこまで信じられるか怪しく、 物語の前提であるはずの、 だれもいない未来世界だって妄想にすぎないのかもしれず、 かといってナボコフやディックのような、 足場の不確かさに不安にさせられるようなところもなく、 垂れ流される妄想の奥に現実がかいま見える彼らのすごさを逆に思い知らされた。 ところで、 両親の話はしただろうか。 彼らのために人生をだめにしたのだが、 そのことがいよいよ明確になった若いころ、 わたしは彼らのような精神異常にかなり近い場所にいた。 つまり、 頭がおかしかった。 その時期のわたしの文章がちょうどこのようなものだった。 ただし、 もちろん本書のは緻密に意図され計算された技巧であって、 わたしは単純に頭がおかしかっただけだ。 荒俣宏に文章がまわりくどいと貶されて以来十数年を、 だれにも読まれるあてのない小説から 「しかしながら」 「実を言うと」 「それはつまり」 「やはり」 「それでもなお」 「だから」 「実際には」 「他方で」 「一方」 「とはいえ」 「ところで」 「あるいは」 「ただし」 「そして」 「にもかかわらず」 「いずれにせよ」 「ひょっとすると」 「ちなみに」 「実際に言おうとしていたのは」 「誓って言うが」 ⋯⋯などなどをひたすら削ることで、 錯綜した論理の筋道を正す作業に費やし、 気がついたら四十歳になっていた。 あるいは五十歳かもしれない。 それとも三十歳だったろうか。 あるいは、 わたしはいまでも気が狂っているのかもしれない。 ウィリアム・ギャディスが幾度となくネタにされているのは単に笑えると思っただけなのか、 それとも著者が実際に友人だったりしたのだろうか。 それをいうなら、 わたしの人生に一瞬とはいえ荒俣宏が登場するのは事実なのだろうか。 彼はほんとうに 『Pの刺激』 を読んだのか。 似ても似つかぬドッペルゲンガーや窓をひっかく猫と同様の幻かもしれない。 誓っていうが、 当時わたしは気が狂っていたのだ。 ちなみにギャディス 『J R』 は過剰な言葉遊びの小説でありながらも物語に夢中になり、 どちらの方向からも両立しておもしろかった。 とはいえ、 読んだと思っているのも記憶違いなのかもしれない。 あるいは本書においても、 また。
ASIN: B08CK5RB8J
ウィトゲンシュタインの愛人
by: デイヴィッド・マークソン
地上から人が消え、最後の一人として生き残ったケイト。彼女はアメリカのとある海辺の家で暮らしながら、終末世界での日常生活のこと、日々考えたとりとめのないこと、家族と暮らした過去のこと、生存者を探しながら放置された自動車を乗り継いで世界中の美術館を旅して訪ねたこと、ギリシアを訪ねて神話世界に思いを巡らせたことなどを、タイプライターで書き続ける。彼女はほぼずっと孤独だった。そして時々、道に伝言を残していた……。ジョイスやベケットの系譜に連なる革新的作家デイヴィッド・マークソンの代表作にして、読む人の心を動揺させ、唯一無二のきらめきを放つ、息をのむほど知的で美しい〈アメリカ実験小説の最高到達点〉。
¥2,112
国書刊行会 2020年, Kindle版 313頁
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パスティーシュしてみました
読んだ人:杜 昌彦
(2020年07月25日)
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
『ウィトゲンシュタインの愛人』の次にはこれを読め!
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