杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第42回: あなたがここにいてほしい

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.30

 どうやら清高家の試験に合格したらしい。たびたび食事に招かれるようになった。
 ときには息子を差し置いて明日香だけが呼ばれ、母親の買い物に付き合わされもした。娘がほしかったのと打ち明けられた。明日香としてもかねてからまともな両親を夢見ていた。清高誠一郎と結婚しさえすれば彼らが手に入るのだ。世間のだれもが結婚したがる理由がわかるような気がした。それまでの人生をリセットして再出発できる。
 誠一郎の母は知的で話すのが愉しかった。支離滅裂で話の通じない母とは真逆だった。話題が豊かで独自の視点があった。一緒にいると明日香は何か人間性が高められる気がした。息子の婚約者を着せ替え人形にしたがるのが唯一の欠点だった。お古をくれるばかりではなく百貨店を連れまわして高価な服を何着も買ってくれた。可愛い可愛いと褒められた。
 不相応な施しに明日香は後ろめたさを拭えなかった。相手のはしゃぎように断ろうにも断りきれなかった。贈られるのは若い娘向きの服が多く、せめて五年前なら似合ったかもしれないと思わされたが、他人にどう思われようと彼女と逢うときには必ず身につけた。いつか必ず何かで報いようと心に誓った。
 清高家での何度目かの夕食で新居の新築費用が話題にのぼった。清高夫妻が援助するという。明日香は目を剝いてむせ返りそうになった。新築の戸建てどころか転居さえ考えていなかった。両親に甘えることに何の躊躇もない誠一郎でさえ、さすがに身分不相応だと遠慮した。
 何をいうかと父親はいった。婚姻届は引っ越しを先に済ませて転居届と同時に出すものだ。婚姻は親元から離脱して夫婦で新たな戸籍をつくることだ。記載する住所は早いうちに決めたほうがいい。子供の本籍地もそこになるのだし。あたかもそれが世間の常識であるかのごとくに息子と婚約者をそう諭した。
 明日香は混乱した。まるで馴染みのない発想だった。そういうものなのか。それとも清高家が裕福かつ過保護すぎるのか。あるいは父親もまた息子同様に見栄っぱりなのか。何ぶん初めて結婚するので判断がつかぬ。書類に記入し捺印して役所に提出するだけだと軽く考えていた。
 そもそも明日香は個人を家に帰属するものとして捉えたことがなかった。人間はそれぞれがひとつの単位であり、寄り集まって家族を形成するのだと認識していた。すると自分はろくに記憶すらない父親を筆頭とする組織の一部だったのか。物理的な容れ物に規定されるのが家族であり、それを再構築するのが結婚なら大金が動くのは当然だ。親なら援助したいと思うものなのかもしれない。
 新築はともかく転居はするつもりだと清高誠一郎は語った。いまのマンションは夫婦で暮らすには狭いという。そんなことを考えているとは明日香は初耳だった。充分に広いと彼女はおずおずと主張したが清高家の三人には聞き入れられなかった。いずれは子も生まれるからというのだ。
 息子が挿れたものが連れてきた女の胎内で育って人間のかたちをして出てくる、という生々しい話題を、食卓で平然と語る一家に違和感をおぼえた。普通の家庭とはそのようなものなのだろうか。年齢を意識しての結婚ではある。しかしいざ現実に対応を迫られると実感がない。自分にはまだ早いかに思われて躊躇した。幼いままに子を産めばあの母のようになりかねない。
 議論の末、転居と結婚式の費用を援助してもらうことで話がついた。そういうことはこちらの親とも話したほうがいいのではと思ったが明日香は口を挟めなかった。
 次の課題は両家の顔合わせだ。いつなんだと誠一郎に幾度となく催促された。彼は当然のように明日香が段取りをつけるものと考えていた。多忙を理由に丸投げし、自分では動こうとしなかった。そういう男なのだと明日香にも徐々にわかってきた。周囲から評価される努力は惜しまないが面倒なだけの用事は女にやらせる。この年齢まで相手がなかった理由はそのあたりにあるのだろう。
 明日香はあの母親を清高家に引き合わせたくなかった。破談を畏れる以前に恥をかきたくなかった。悩みに悩んだ。誠一郎の母とモールで買い物を愉しんでいるときにもつい表情が暗くなる。どうかしたのと心配された。思いきって打ち明けた。うちの母は変わり者なので……。
「そんなことを気にしてたの。大丈夫よ、うちのお父さんも偏屈だから」
「そんな次元じゃないんです。世間とずれてるんです。漫画家なので……」咄嗟に職業のせいにしたのを明日香は恥じた。母や編集者がそうするのをずっと卑怯に感じてきたのに。
「あらすごいわね。わたしも読むのよ漫画。ペンネームは」
 隠してもいずれ知られるのは避けられまい。リチャード支倉だと答えた。
 誠一郎の母はまじで、と少女のように昂奮した。「『金魚の夜』や『ラブレターズ』の? ドラマ化された『熱血少女』や映画化された『溺れる熱帯魚』の?」
 携帯を見せられ、愛読者なのと告白された。読書アプリには確かに母の著作が並んでいる。ぜひ逢いたいと懇願された。熱意に押し流されるようにその場で母に連絡した。向こうも乗り気だった。いつ声がかかるかずっと待っていたと恨み言をいわれた。
 電話の向こうに憧れの作家がいると知って誠一郎の母は熱狂した。もうどうにでもなれと思って明日香は携帯を手渡した。ふたりの女は意気投合した。明日香は半時間ほどベンチで待たねばならなかった。通話を終えると誠一郎の母は明日香の両手を包むように握りしめて礼をいった。そしてそれでも足りないかのごとく彼女を抱き締めた。
 食事会は数日後に北京料理店で行われた。母は光丘秀蔵を伴わずに現れた。漫画賞の授賞式でも見たことのないほど気負った服装をして化粧も完璧だった。認めたくはないが娘から見ても美しかった。外面そとづらのよさが持続する保証はない。愛人に来られても困るが、いなければいないで不安だった。
 杞憂だった。母親たちは漫画の話題で盛り上がった。明日香は誠一郎の父に酌をした。彼はずっと上機嫌だった。「引っ込み思案の息子がこんな可愛い嫁さんを連れてくるとは。老後も安心だ」
 初顔合わせでも同じことをいわれたのを明日香は思い出した。何が安心なのだろうと戸惑った。
 トイレに立った。個室を出ると誠一郎の母が化粧を直していた。ごめんなさいね、あすかちゃんと謝られた。えっ何がと問い返した。また介護のことをいわれたでしょうといわれて驚いた。
「息子のお嫁さんになる子にいやらしい顔をして。お爺ちゃんになってまでああなんだから」誠一郎の母は溜息をついた。「若い頃はやんちゃだったのよ。兄弟の多い家庭に育ったから男はそういうものだと知っていたけれど、いい顔はできなかった。誠一郎は奥手だけど似ているところもあるから心配で……」
 明日香は清高家の闇を垣間見たような気分になった。
「天才肌のお母さんをあなたがどう感じてるかはわかってる。きっと苦労してきたのよね。猟銃許可証とか持ってるんでしょう?」
 明日香はそれは別の作家だろうと思ったがあり得ないことではないと考え直した。娘の自分が知らぬだけかもしれない。誠一郎の母はコンパクトを閉じて息子の婚約者に向き直った。
「誠一郎とうまくいってもいかなくても、わたしはあなたの味方だからね。いつでも連絡して。またふたりだけでお茶しましょう」
 明日香はそれから数日間、電車やバスを乗り継いで不動産屋や式場をまわった。結婚の実感すらろくに抱けぬまま、債務であるかのようにそれらの労働をこなした。純白ドレスの「お嫁さん」に憧れる年齢ではない。見栄を張りたい相手もいない。明日香は挙式など一度たりとも望まなかった。そんな金があれば出産や子育ての費用にまわしたい。世間体を気にする誠一郎や、ひとり息子を愛する彼の両親のためにやっているだけだ。なのに当の誠一郎はあからさまに関心が薄かった。
 そういうことならと式場の営業に勧められ、休日にふたりでブライダルフェアに赴いた。会場で模擬挙式や模擬披露宴、衣裳のファッションショーを見学して試着までさせてもらった。装花やクロスを確認して料理やデザートを試食した。見てまわるうちに虚栄心が刺激されたのだろう。誠一郎は俄然、熱心になった。見積もりの数字を指さして質問したり注文をつけたりした。
 明日香が通った幼稚園はプロテスタントの教会だった。毎週日曜に礼拝があった。信徒の結婚式も見たことがある。仏教の檀家と同様に全員が顔見知りの狭い共同体で、そういう意味ではボッチーズのアパートに似ていた。大人になったいま、毒抜きされた紛い物が小綺麗な包装で売られているのを前にして、どうにも違和感を拭えなかった。これが商売というものなのだ。本物でないから喜ばれる。
 車で帰宅する途中、清高誠一郎がラジオをつけた。彼がラジオをつけるのは疲れて会話をしたくないときだと明日香はすでに学んでいた。夕食後にしばしば古いヴァイナル盤をかけて音楽について議論したボッチーズとは対照的だった。機嫌を損ねぬよう黙って耳を傾けた。
 番組のゲストが影響を受けたバンドについて熱弁をふるっていた。音楽にあまり関心がないらしい司会者は気圧されていた。ゲストが語るにはそのバンドの初期フロントマンはアスペルガー症候群だった。美貌ゆえアイドルのように扱われるも、成功による重圧と幻覚剤の影響で精神病を併発し、奇行が目立つようになって音楽を続けられなくなった。三八年後に糖尿病で死ぬまで実家にひきこもって過ごしたという。
 代わりに加入したメンバーもまた彼の友人だった。バンドは流行の変化に伴って作風を変え、さらに巨大な成功を手にした。ロンドンの各家庭に一枚はあるといわれた歴史的ヒット作ののちも、仲間を精神病で喪った傷は癒えなかった。彼らは喪失感を題材にアルバム制作に取りかかった。髪と眉毛をつるつるに剃った肥満男がふらりとスタジオに現れたのはそんなときだった。
 だれもがレコード会社のスタッフかだれかの知り合いだろうと考えた。それにしては挙動がおかしかった。男は長時間、居座った。そこにいるのが当然の権利であるかのようにいつまでも帰らなかった。
 メンバーのひとりが気づいた。それはかつての仲間だった。
 男は心ここにあらずといった様子でうろついたり、メンバーや録音技師に話しかけたりした。その言葉は支離滅裂だった。変わり果てた肉体だけがあって彼はそこにいなかった。収録曲のミックスが流れていたが自分のことが唄われているとは気づかぬようだった。
 何人かが泣いていた。だれも彼を取り戻せなかった。
「それでは聴いてください」とゲストが曲紹介した。「ピンク・フロイド『あなたがここにいてほしい』」
 雑音混じりのラジオのような効果音が流れた。歌手が咳払いするのを明日香は聞いた。遠い電波のギターに合わせて特徴的なリフが奏でられた。それはこんな曲だった。
 第一連で歌手は天国と地獄、青空と苦痛、草原と冷たい鉄路、微笑とベールといったあたかも正反対に思えるイメージを列挙し、その違いを本当に見分けられるのかと問いかける。
 第二連ではさらに「あなた」の英雄と亡霊、燃える灰と樹、熱気と冷風を対比し、「檻の導き手」のような「慰めにもならぬもの」と引き換えに、聴き手が「戦争の端役」であることを放棄したと指摘する。
 第三連で歌手は自分と聴き手を「幾年も答えを求めて金魚鉢のような場所を堂々巡りする魂」になぞらえ、見出されたのは「おなじみの不安」だけだと結論づける。そして主題がくり返される。
 あなたがここにいてくれたらどんなに、どんなにいいだろう。
 ラジオの空電はいつしか荒野に吹きすさぶ砂塵に変じる。
 その風音を聴きながら明日香はアパートの日々を思い描いた。集中治療室のベッドで医療機器に繋がれた神崎陸を、電話口で泣いたマシューを、友人たちを護るかのように明日香を睨めつけたヤンパチを思った。同い年の養子のために感情を剥き出しにした田辺美樹を思った。
 痛みと共感に満ちた小説を、退屈なはずの明日香の話に相槌を打って笑った美樹を思った。
 唐突にコールセンターのおじさんSVが思い浮かんだ。なぜかはわからない。当時はずっと軽蔑していた。あり得ないほど恥ずかしい中年だと。しかしもしかしたら、あのとき思っていたほど嫌いではなかったのかもしれない。
「おじさん」はジェンダーを超越した概念だという美樹の言葉を思い出した。
 あたしもおじさんなのかもしれないと考えた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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