杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第5回: When Heroes Go Down

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.25

 春子のおかげで風向きが変わったらしく予約もせずに女性専用席が取れた。催事もない平日であった上にキャンセルが出たらしい。割高なのは痛手だが身の安全には換えられない。夜行バスは何度か利用したことがある。逃げ場がないだけに周囲に男性がいれば一睡もできない。車内でスリに遭う割合も男性より高いと訊くし、男たちの脚が邪魔でサービスエリアでトイレに降るにも気兼ねする。そのような閉鎖空間で平然とパックなり化粧なりに挑む女たちを明日香は尊敬する。
「夜行バス 痴漢」で検索すると性暴力を娯楽の一種とみなすコンテンツばかり表示される。あまりの多さに一般男性は例外なく犯罪者なのではと疑われるほどだ。数少ない例外の女性向け記事も自衛のため露出の多い服装は避けましょうなどとカマトトぶったたわごとが書かれていて役に立たない。明日香の知るかぎり狙われるのは性的資源を誇示する女ではなく泣き寝入りしそうな女だ。自分がそのように侮られているのは癪だったが事実これまで警察なり司法なりに訴え出たことはない。自意識過剰だ大げさな、と鼻で嗤われて黙らされるのは、物陰で大人に脅かされた子供時代から身に染みている。
 高速バスの車体はパステルカラーの縞模様に塗られ虹色の会社名が記されていた。それこそMTVを先取りしすぎて商業的に失敗した六十年代末のテレビ映画を思わせ、目的地まで無事に運んでくれるか不安になった。独立した三列の座席はやはり縞模様で肘置きは林家パー子のようなショッキングピンクだった。空豆型の枕やら小型消臭機やらが備わっていた。女子供はこういうのが好きだろうという雑な発想が窺われた。
 凝った内装やオプション装備の分を人件費にまわして、運転手に充分な睡眠をとらせてあげてほしいと明日香は思った。しかし付加価値を訴えるのは男女を分け隔てる無難な口実にもなり得るのかもしれない。マッチョな屁理屈で武装した加害者はパステルカラーのバスに乗りたがるまい。その手の輩とどちらを選ぶかと問われたらピンクのハート柄くらい耐えられる。
 明日香の席は中央のやや後ろ寄りだった。前方は男女兼用であるらしく連れの女と席を探す学生風の男は居たたまれない顔をしていた。厭がらせをするためだけに女性専用車にわざわざ乗り込むサイコ老人はいなかった。安心してカーテンを引いた。やはり熟睡はできなかった。昼間のあれこれが神経を昂ぶらせていた。眠りはサービスエリアのたびに中断させられた。
 切れ切れにおかしな夢を見た。
 その夢で明日香にはひとまわり歳上の兄がいた。あるいは父親だったかもしれない。夢というものが往々にしてそうであるようにはっきりしなかった。無愛想な背の高い男に手を引かれて明日香は暗い森の中を歩いていた。いつから歩いていたのか何のためにどこを目指しているのかわからない。そのことを尋ねると男は安心させるかのようにただ肯いた。あたかも道がわかっているかのような態度だった。彼があてもなく歩いているのだとしても構わなかった。森は深く暗かったが明日香に不安はなかった。男を信じていた。彼に手を引かれ寄り添って歩いてさえいれば安心できた。
 やがて明かりが見えてきた。人家だ。駆け出そうとする明日香を男は制し、足許に注意するよう促した。思わず不満の声が洩れたがそれが男への甘えであるのも、指示に従わなければ転んで怪我をしていたのも理解していた。その夢で明日香はまだ子供だった。男のほうは世知に長けた大人のようにもまだ若い少年のようにも思えた。哀しげな色をたたえた鋭い目は老人のようでさえあった。
 お菓子の家だった。屋根はビスケットやチョコレートで壁には漆喰代わりにクリームが塗られ、マジパンや色とりどりのドライフルーツで飾られていた。窓には透明な氷砂糖がはめられていた。その向こうにご馳走の並ぶ食卓が見えた。一家が仲よく過ごす愉しげな笑い声も聞こえたが姿は見えなかった。明日香は今度こそ飛び出したくて仕方なかった。しかし男は許さなかった。厳しい声で彼女を立ち止まらせ、茂みに隠れて待つようにいい含めて、疑い深い目つきで扉に近づいた。
 男は飴でできた把手を握り、そっとまわして引き開けた。
 大量の毒蛇が絡み合いながらどっと溢れ出てきた。男は逃げる間もなく全身を覆い尽くされて倒れた。明日香はいまやうごめく蛇の山に見えるものに駆け寄った。彼女は悶え苦しむ男のからだから蛇をむしり取っては投げた。男がいなくなれば生きている意味はない。咬まれるのも喉や手脚を締めつけられるのも構わなかった。蛇は散り散りに逃げはじめた。
 大量の毒蛇がいなくなるとあとには何も残らなかった。男の姿は消えていた。
 バスの車内は朝の光で明るくなっていた。目的地が近づいた旨のアナウンスが流れた。明日香は周囲に気兼ねしながら伸びをして筋肉をほぐした。全身がこわばっていてひと晩中見えない蛇に締めつけられでもしたかのようだった。奇妙な喪失感は頭がはっきりするにつれて霧消した。
 ペデストリアンデッキから眺める十年ぶりの青葉駅前は激変していた。もとよりホテルや商業施設と一体になっていた煉瓦色の要塞めいた駅舎は、初めて見るいくつかの商業ビルと融合して巨大化していた。まるで世界中の都市の劣化クローンがそこだけに取り憑いて増殖したかのように見えた。テナントに地域独自の店はひとつもなく、どの街でも見られるような中央資本や海外資本ばかりが目立った。ペデストリアンデッキの先にある、子どもの頃から親しんだ百貨店は閉鎖され買い手もつかないまま廃墟も同然になっていた。
 疎遠になっていた身内に再会したかのようなよそよそしさを感じた。東京ほどの速度ではないにせよ自分のいないあいだにこの街なりの時間が確かに流れたのだ。ひとびとはそれぞれの職場へ向かって足早に歩いていた。自分のいない街の朝、いない街の日常。
 連絡もなしに帰省すれば何をいわれるかわからない。ましてしばらく世話になるなどと告げる勇気はない。いくらあの身勝手な母親であっても、いやそんな親だからこそ娘の身勝手は許すまい。何をどう切り出したものやら。職と彼氏とアパートを一度に喪いましたとでも? 有閑マダム向け女性誌に連載中のエッセイ漫画におもしろおかしく描かれそうだ。ひと息いれて対策を練ろう。明日香はチェーン店で二百二十円のコーヒーを啜って携帯を見つめた。考えてみれば昨夜からコーヒーしか口にしていないが、混雑した店でわざわざ待たされるとわかっている食べ物を注文する気にはならなかった。メールや電話の画面を出したり消したりした。出勤前のひとときを過ごす客が慌ただしく入っては出ていった。
 母親が複数のソーシャルメディアを使いはじめたらしいのはごく最近、ネットで知った。半年ぶりのテキストメールにはゆーちゅーばーって何、とだけあった。編集者さんに訊いてと答えた。どうせいまだに手で描いているのだろう。だれそれが何々する話、などと「わかりやすい」題名をつけて画像を共有しないと本が売れない時代なんだよと忠告してあげればよかった。恩を売っておけば気後れせずに済んだかもしれないし、あわよくばアシスタントのバイトでもさせてもらえたかもしれない。
 店内が空いてきた。世の中は動き、自分だけが取り残されている。決心がつかないまま明日香はトレーを片づけて店を出た。
 ラッシュは過ぎたようだが電車はまだ混んでいた。明日香は昇降口と反対側に立ってまたも携帯画面を見つめては溜息をついた。アプリを出しては消し、携帯を鞄から出したり戻したりした。コールセンターでは今頃みんなどうしているだろう、三次対応の架電予定はあたし抜きでどう処理するのだろう、派遣会社のセクハラ担当者はうまいこと話をつけてくれたろうかと考えた。周囲を中年男性に囲まれたが考えることが山ほどあって気にする余裕がなかった。ヘトヘトに疲れていたし故郷に帰った安堵感もあった。何より夜行バスでの幸運にすっかり油断していた。
 青葉市はとりたてて特徴のない地方都市だった。坂と曲がり道ばかりの城下町で海に面してもいるが港町と呼べるほどの情緒はない。政令指定都市である割には都会の洗練に欠け、かといってゆったりした時間が流れるロハスな暮らしも存在しない。東北地方という言葉の印象とは裏腹に年間降雪量はむしろ京都より少ない。青葉駅周辺の商業地区から少し離れると斜面にむりやり造成した住宅街と、そのあいだのわずかな土地を利用した田畑といった退屈な風景が続く。
 窓外を流れる景色に明日香は、こんな惨めな場所は見合わないと考えて家を飛び出した若き日を思い出した。生まれ変わるつもりで上京した意気軒昂ぶりと、夢破れて帰省するいまの自分とを較べて苦い笑いが洩れた。
 その笑いが凍りついた。職と彼氏と部屋を一度に喪う三十路間近の人生がそうそう順調に運ぶはずがない。悪夢に出てきた蛇を思い出した。尻に不快な感触がある。
 男の掌に触られていた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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