杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第30回: What’s the New Mary Jane

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.15

 明日香はコンビニのATMコーナーで残額に溜息をついた。東京で職探しをするにせよ住居を探すにせよ圧倒的に足りない。資金稼ぎのために働いていたはずなのにいまではよくわからなくなっていた。岬愛子に無料同然で食事を提供したのも響いたがそれだけではない。労力と拘束時間の割に実入りが少なすぎた。
 やはり商売の才覚はなかった。要領が悪いのだ。あるいはいわゆる「やりがい搾取」だったのかもしれない。柳沢美彌子が入り浸るようになってからは、そのやりがいさえも感じなくなっていた。
 キヨタカ先輩と別れたおかげで土日に時間の余裕ができた。東京に戻るのは先でいい。まずは別の仕事を探すべきだ。ここでなければどこでもいい。肩身が狭い点では実家も同じだ。光丘秀蔵の料理を食べ、彼が母といちゃつくのを眺めながら転職活動をしよう。
 恒例となりつつあるお茶会でタマミに決意を報告した。持つべきものは友だ。やっと更生する気になったのねと励まされた。冗談でも茶化しているのでもなく心から賛同された。バイト先を紹介してあげようかと提案された。これを機に悔い改めておかしな連中には二度と関わらぬよう教え諭された。
 三人も子供がいてどうしてこうも小洒落た店ばかり知っているのか。きょうの店は器が凝っていて販売もしていた。少し前の明日香ならボッチーズに買っていってやろうかと考えたところだ。あたしも早くタマミみたいな普通の人生に追いつかなくちゃ、と思いながら明日香は愚痴という名の自慢話を聞き流した。自動運転のように相槌を打ち、あきらの言葉を思い返した。
 あきらは両親のいない自宅に戻ることになった。このアパートでは気が散って勉強できない。愉しかったときを思い出してつらくなる。あの女の顔を見るのも厭だと彼女はいった。明日香はひきとめる言葉を持たなかった。痛いほど共感できた。職と手頃な部屋さえあればあたしもいますぐ出て行きたい。
 寝具などのかさばる家財道具は納戸にしまわれ、勉強道具や衣類だけがヤンパチのワゴンRに積まれた。玄関先まで見送りに出たのは明日香と神崎陸だけだった。マシューは取材で不在だった。美樹は美彌子とともに部屋に閉じ籠もっていた。ほとんど監禁されているかのような印象を明日香は感じていた。
 ヤンパチの推察によれば元妻が訪れているときには美樹は『ぼっちの帝国』に取り組めないようだという。その証拠に仕事に関するメッセージを投げると深夜に一度に返ってくる。美彌子が帰宅してから作業をするのでほとんど寝ていないらしい。
 つい先週まで夜に書いていたのは明日香も知っていた。美彌子は本業がどちらかを思い知らせたのだ。画期的なウェブサービスとやらよりも新作が気になる明日香にとっては複雑な心境だった。
 美樹の体調を気遣う資格がないのはわかっていた。柳沢美彌子は元夫を作家としても男としてもだれより深く理解しているだろう。高校時代からの仲には立ち入りようがない。明日香の登場は遅すぎたのだ。
 アパートはいまや明日香にとって廃墟のようによそよそしく感じられた。人の気配がないわけではない。タイプ音や靴音、トイレで水を流す音、玄関を出入りする音は絶えず聞こえている。しかしそれらはまるで亡霊が立てる物音のようで、活気と笑い声に満ちていた頃を哀しく思い出させるばかりだった。
 ただひとり柳沢美彌子だけは溌剌としていた。圧倒的な存在感が放射線のように発散された。美樹の声を聞く日はなくとも彼の部屋から女教師のような声が洩れ聞こえぬ日はなかった。
 ヴェルヴェットを思わせる低い声に明日香は劣等感を刺激された。コールセンターで録音された自分の声はテレビアニメのように子供じみて聞こえた。容姿の美しい女は珍しくないし、自分だってその気になれば多少は、とも思うが声までああでは美樹が抗えぬのも無理はない。
 マシューやヤンパチは食事の時間もまちまちで顔を合わせることは少なかった。廊下ですれ違っても気のない挨拶を交わすだけだ。以前は食後に仕事の段取りを議論する光景も見られた。いまはどうしているのかとヤンパチに尋ねると専用のチャットツールがあるという。高校時代からの親友が同じ建物に暮らしていながら画面越しに会話するとは。本来そういう仕事なのかもしれないが明日香は哀しくなった。
 食後のコーヒーも求められなくなった。積んだ資料を触られたくないからと部屋の掃除も断られた。稼げぬのも痛手だがそれ以上に会話のないのがこたえた。住民との無駄話が生活の大きな位置を占めていたことに気づいた。長く勤めすぎたのだ。
 明日香は自分を拒絶した男のことを考えまいとした。考えまいとするほど考えてしまう。そもそもあの粗暴な大男がなぜ気になるのか自分でも理解できなかった。所詮、他人ではないか。仕事でやむを得ず関わったにすぎない。関わらずに済むならそれに越したことはない。
 なのになぜ頭から離れず、夜ごと目が腫れるまで泣いてしまうのか。好きな男に告げられた別れはとうに吹っ切れたというのに。このまま書きつづければ彼はもたないと寂れた公園であきらはいった。過去を覗き込みすぎて死んでしまう。助けてあげて。
 頼みは聞いてあげたいが何をどうすればいいのか。あたしは憎まれている。馘をいい渡されたのだ。あたしの役目じゃない。金輪際あんな男に関わりたくない。あの美人がどうにかすればいい。長身の美女と野獣、お似合いの変人同士で心中でも何でも勝手にすればいい。
 場違いな言葉が耳に飛び込んできて明日香は急に現実に引き戻された。少し離れた席に座ったカップルが『ぼっちの帝国』について話していたのだ。悩みすぎて錯乱し幻聴が聞こえたのか。違った。女のほうがテーブルに置いた携帯の画面を指でつつきながら熱く語っていた。
 まちがいない。「おっさん」といった。アカウントとか事前登録などと口にした。
「ほらティザーサイトかわいいでしょ。……もベータテストに参加したらしいよ」
 耳をそばだてたが詳細は聞きとれなかった。チェックのシャツと色の薄いジーンズとダンロップのスニーカーの男は興味を惹かれたように装っていたが、実際には戸惑っているように明日香には見えた。
「ユーチューバーの?」
「お笑い芸人の……とかAKBの……も話題にしてる。有名人のあいだで口コミで広がってるみたい。一般公開は今晩零時からだって。いまのうちに事前登録しといたほうがいいよ。きっとアクセスが集中するから」
「もう登録したの」
「本登録は日付変わってからだけどね。なっちもみーちゃんも登録したってよ。もこっちもやりたいって」
「女の子なのにおっさんとか、よくわかんないよ……」
「もっと世の中に関心持ちなよ。その携帯も三年前の機種でしょ。新しいの選んであげるよ」
 女のほうに促されて男も伝票をつかんで立ち上がり、カップルは席を離れた。
「流行ってるよね『ぼっちの帝国』」
 タマミの呆れた声に明日香は仰天して振り向いた。目玉が飛び出るほどカップルを凝視していたことにそれまで自覚がなかった。後半が聞き取りやすかったのは身を乗り出していたからだ。
「知ってるの」
「あんたが知ってるほうが驚きだよ。ああいうの興味あるの」
「ううん……ちょっと知り合いが……」
「次から次へと出てくるよねああいうの。ずっと放置してるアカウントいっぱいあるわ。LINEとインスタだけで充分だよ」
 そうよね、と明日香は乾いた笑いを返した。うわずった声が洩れた。何がどうなっているのだ。
 その夜はちょっとしたお祭りのようだった。柳沢美彌子がアパートを出るのを待ってボッチーズが広間に集まってきた。ノートやデスクトップのパソコンを食卓に設置し、うち一台を無線で大型テレビに繋いだ。呪文のような文字列がスクロールする黒い窓、複数のグラフ、めまぐるしく流れるタイムライン、それに秒読みが表示された。ひさびさにコーヒーが全員に売れた。
 美樹は作業に気を取られていて明日香に何の感情も示さなかった。
「アクセス数、思ったほどじゃないね」
「まだわからない。ティザーサイトなんて何度も見たってつまらないからな」
「ハッシュタグは盛り上がっている。ほとんど大喜利化しているぞ」
「いま頃になって事前登録が増えてきたよ。サーバは大丈夫なの」
「予測値の一・八倍までは充分いける。その先はわからない」
「十秒前」
 マシュー、美樹、ヤンパチが固唾を呑んで大画面の秒読みを見守った。意味がわからぬながら明日香まで引き込まれた。神崎陸は八十年代のSF映画に登場するハッカーのようにノートパソコンのキーを叩いていた。
 日付が変わった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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