杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第15回: ふたりは親友

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.04.19

 明日香は学生時代からソーシャルメディアが苦手だった。空気を読む受け答えが苦手だったし、そもそもが相互監視のように感じられたのである。卒業すれば散り散りになる仲間との時間は大切に思っていたが、輪から離れてひとりになる時間もほしかった。いついかなるときでも数秒以内の返事を強いられ、果てはどこで何をしているか常時GPSアプリで教え合わねばならぬのには息苦しさをおぼえた。
 笑顔で調子を合わせていても本心では休み時間や放課後のお喋りで充分だった。休日に遊びに行くのを断って溜まった家事を片づけているのをカラオケ屋から把握されるのも厭だったし、学校を病欠した友人がラブホテルにいるのを知りたくもなかった。
 厳密に定義するならいつも一緒にいた五人のうち、親友と呼べるのは藤田磨美くらいだった。強いられる絆の息苦しさを打ち明けたのも、共感して肯いてくれたのも彼女だけだった。細縁の眼鏡をかけたいかにも優しく大人しそうな顔立ちは『ちびまる子ちゃん』の登場人物を思わせ、それもあってか苗字と名前をつなげてタマミとかタマちゃんなどと呼ばれていた。地元に留まったのも、仲間内のだれよりも早く結婚し出産したのも、相手が銀行員だったのも堅実な彼女らしい選択に思われた。
 華やかな結婚式に呼ばれたのは最初の職場を解雇されたばかりの頃だった。旅費や祝儀にも難儀して素直に祝えぬ己の狭量や、親友の幸福との落差に打ちのめされた。以来たまに電話をしても話題が噛み合わなくなった。子供の写真が送られてくるたびに隔たりを感じた。向こうも家事や育児に忙しいらしくここ五年ほどはすっかり疎遠になった。
 ソーシャルメディアや電話ではうまく話せずとも、懐かしい顔に再会すれば想い出話が止まらなくなるのはわかっていた。一方で互いの現況に話題が及べば電話と変わらず気まずくなるのも、その話題を避けられぬのも容易に予測できた。転落の一途だった明日香とは逆に、タマミにとっては卒業後の十年こそが人生における幸福な夢そのものなのだ。
 敗者の事情を窺わせれば相手の幸福にケチがつく。心を殺して退屈な夢を祝福せねばと身構えると帰郷を伝えあぐねた。実家のソファで過ごした自堕落な日々も、男たちのアパートへ越してからも、掌の画面を睨んでは溜息をつくうちに日が経った。
 そしてある日、短文やスタンプでの様子伺いも抜きでいきなり着信し、連絡しなかったのを責められる仕儀と相成った。平日の昼間である。堅気なら働いている時間帯だ。高校時代と変わらず二十四時間いつでも繋がるのが当然であるかのような態度でタマミは話した。
 転職で忙しかったからと明日香は弁解した。まったくの嘘ではない。実際いまだって業務中だがやっているのは高校時代と変わらぬ便所掃除だった。「青葉市にいるってどうして知ってるの」
「秀子に聞いた」
「ふうん……」ほつれて目にかかる前髪をゴム手袋とまくった袖口のあいだの露出部でどうにかしようと試みた。こう広い建物だと一日で掃除を終わらせるのは不可能だ。曜日ごとに場所を決めて取り組むことにした。一階はともかく二階の風変わりな浴室はどう掃除すればいいのだろう。漂白剤など使えないのは明らかだ。簡単な説明は受けたが実際にやるとなるとわからぬことだらけ。光丘あきらに訊かなければ。彼女とならソーシャルメディアでのやりとりにも気兼ねしなかった。実務上の要件だけで済むからだ。
「聞いてる?」
「秀子ってだれだっけ」
「ほらハンドボール部の情報通。バスケ部の梅崎君とつきあってた」
 また知らぬ人名が出た。だれかを説明するのになぜ別のだれかを持ち出すのか。安い辞書のようだと明日香は思った。交際歴が人物を説明し得ると考える理由も、それで他人に伝わると見なす思考もわからない。着信を無視すればよかったと後悔した。やはりそれぞれに歳月が流れたのだ。バスケ部の梅崎君が何者であるかはさておき、要するにあの名前すら忘れた同級生にコンビニでしっかり目撃されていて、地元の元同級生らのあいだで情報が駆け巡ったらしい。ソーシャルメディアの面目躍如である。
「挙動不審だったって聞いたよ。何してんの」
「働いてるよ。そっちは」
「子育てに専念。ね、逢って話そうよ。きょう暇?」
 仕事中だといったのが聞こえなかったのだろうか。確かにタイムカードで拘束されてはいない。いつ働いていつ休むか、時間の使い方の裁量は任されている。極端な話、あきらが認める水準で管理業務をこなしさえすれば一日の大半を遊んで暮らしても文句は出ない。逆にいえば水準に達せねば労働時間にかかわらず追い出される。要領を憶えるまでは土日も自由になりそうになかった。しかし二、三時間なら中抜けしても夕食の支度に間に合うはずだ。肩と頬で携帯を挟んで話しながら水を流し、用具を片づけて手を洗った。
「赤ちゃんほっといていいの」
 下の子ももう三歳だよと笑われた。「お母さんに預けるから大丈夫。親と同居してなきゃ子育てなんてやってられないよ」
 待ち合わせに指定されたのはやたらお洒落なカフェだった。煉瓦と漆喰の壁、板張りの床、骨董品のように見える家具。エジソン電球の照明、壁に吊された観葉植物。心なしか客もみな身なりから容姿に至るまで洗練されていた。タマミもその一員だった。高校時代が嘘のように垢抜けていた。ワンピースも靴もカーディガンもバッグもさりげないカジュアルなものでありながら明日香は値札を幻視できた。ゼロの桁が違った。
 ママ友とお茶をするのによく訪れると彼女は語った。そのママ友とやらも高年収の男と結婚したのだろう。生活に疲れた自分なんぞが高校時代のジーンズとパーカで闖入して許されるのかと明日香は気後れした。いや許されまい。せめて化粧くらいしてくればよかった。
 しかし一杯六百八十円のコーヒーを啜りながら観察してみると、煉瓦も漆喰も模造品だし調度類も無垢材ながらそれほど古くはなさそうだ。数日前から暮らしているアパートと較べれば見劣りした。音楽だって田辺美樹が広間でかけたレコードのほうが生々しくて泥臭い迫力があった。ジャズを知らぬ明日香には同じ曲に思われたにもかかわらず、店内で流れているのは気取った人工的な音に感じられた。
 こういう店の数十分に気取った盛りつけのケーキと合わせて二千円払うのと、昭和モダン建築のアパートに二万九千円の家賃を払って、建物を設計した建築家の手になる家具に座り、激安スーパーの特売チラシを睨みながら、その店で買ったインスタントコーヒーを啜る毎日とどちらが贅沢だろう……。
 勝者のターンと内心で名づけたタマミの近況報告に相槌を打ちながら考えていたのはそんなことだった。オレンジオイルを染みこませたウエスで目の前の家具を磨いたり、壁の観葉植物に水をやったりするところも想像した。コーヒーの淹れ方を憶えれば広間で住人向けにカフェを開店できるのではとか、カフェっぽいメニューを考案すれば昼食でも稼げるのではとも夢想した。傾聴し適切な相槌を打ちながら、同時に別の思考を巡らせるのはコールセンターで身につけた技術だった。
 勝者のターンは長かった。自然に見えるよう固定した笑顔で表情筋が攣りそうだった。そっちは、と話を振られたのは一時間近く経過してからだった。そんなときこそ気を引き締めて軽やかに受け流し、さらにもう少し相手に喋らせてから本題に持ち込むべきだった。しかしあまりに待たされて気が緩んだ。職場に戻ってからの段取りを考えはじめた。そこへ不意打ちされて咄嗟に嘘が出なかった。アパートの管理業務をしていると洩らした。
「えっえっ何それどういうこと」
 明日香は旧友の思いがけない反応に戸惑った。つい詳細に説明した。自分から訊いておきながらタマミはあからさまに困惑し退屈を隠さなかった。世界が異なりすぎて理解できないのだ。当たり障りのない感想のつもりなのだろう、自由な明日香が羨ましいと述べたりした。悪気がないのはわかっているが揶揄されたように感じた。そんな風にしか受け取れない卑屈を自己嫌悪した。
 多少なりともタマミが興味を示したのは食事のくだりだった。二日目から夕食、三日目からは朝食の提供をはじめた。料理に自信はないし凝った献立でもなかったが思いのほか好評だった。マシューはお代わりまでして美味しいと褒めてくれたし、ヤンパチは弁当を買ったり外食したりする手間が省けるといってくれた。あきらも食材の購入には無駄を省く余地があるとしながらも味については合格点をくれた。
 田辺美樹と神崎陸からの注文はなかったが明日香は彼らの分も用意して待った。その甲斐はなかった。翌日も次の日も。気にしなくていいとあきらはいい、祖母が元気だった頃から美樹は食事サービスを利用していないと説明した。陸はいずれ食べるようになるとも予言した。明日香の存在に慣れていないだけだという。ヤンパチによれば人見知りは美樹も同じで、人前で食事をするのが苦手なのだそうだ。あの大柄な強面に臆病な小動物めいた性質があることに明日香は笑い、いつか注文させようと決意した。
 神崎陸に至っては一度として顔を見ていない。明日香の知るかぎりずっと閉じ籠もりきりだ。二階の浴室は使っているようだが部屋を出る現場を押さえたことはない。時たま例の騒音が聞こえるほかは気配すら感じなかった。彼と田辺美樹の変人ぶりを思えばあとの三人はまだしもまともだった。
 田辺美樹の偏屈ぶりときたら! あんな男には生まれて初めて出逢った。せっかく旧友との時間を過ごしているのにあの圧迫面接を想い出して腸が煮えくり返った。
「ダニエル・クレイグに似てる?」
「はあ?」タマミが田辺美樹のことを知りたがったので明日香は驚いた。少なくとも高校時代の親友はベクデル・テストに合格しない種類の女ではなかった。いつから理解できる話題が料理と男だけに成り下がったのか。目の前の人物は本当に自分の知る女か。「あんなかっこいいおじさんじゃない」
「やっぱりおじさんなんだ……。ジェイソン・ステイサムとかも好きだったよね」
「アクション映画が好きなの。スカッとするから」
 他人の嗜好は否定しない。歳上を求める向きもあるだろう。しかし世慣れて金を持っているから価値があるのであって、キモくて金のない無能な中年男は最悪だと明日香は力説した。コールセンターで実物を見知っているからこその熱弁だった。タマミは訳知り顔でニヤニヤした。既視感の理由に思い当たった。万事が恋愛に収斂するタイプの少女漫画でよくある場面だ。素直になれない主人公に親友が恋の自覚を促す。虚構と現実を混同する発言を予測して明日香は身構えた。
「本当に嫌いなんだね」タマミは感心したように呟いた。
 親友が宇宙から侵略に訪れた莢人間でなかったことを明日香は神に感謝した。
 ようやく念願の話題に移った。次から次へと記憶が溢れ出た。世界史の遠藤先生が……渡り廊下が、上履きが……文化祭の準備で……体育の見学……。高校時代にもこのように時間を忘れて語り合ったものだ。あのときはまだ見ぬ未来、いま語るのは過去という違いはあるが。缶コーヒーを片手に公園のベンチで語り合った冬の放課後を想い出す。あの頃に思い描いた世界には少しも近づけなかった。
 懐かしさについ声が高まり隣席のカップルに睨まれた。
「あの頃の明日香はつきあい悪かったよね。うちらのあいだでひとりだけ秘密主義でさ。相談もなしに東京行っちゃって」そう述懐するタマミに明日香はえっと思った。絆の煩わしさに意気投合した過去は親友のなかでそうなっているのか。進路についても人生の悩みについてもあれだけ語り合ったのに。「でも恋バナはしたよね。美術部のキヨタカ先輩。筋肉おじさんとは真逆の王子様タイプだったけど。思いきって告ればよかったのに」
「むりだよ。すごい人気だったじゃん……ファンクラブみたいな連中もいたし。抜け駆けしてID交換しようとして上級生に体育館裏に呼び出された子、憶えてる?」
「いたいた。生意気な子だったよね」
 甘酸っぱくも苦い想い出が鮮やかに蘇る。長身の美少年。放課後の美術室でいつも画布に向かっていた。遠くから見ているしかなかった。有名な画家になるのだろうと思っていた。
「描くのはやめて普通の会社で営業やってるらしいけどいまも格好いいよ」
「なんで知ってるの」
「八幡神社にうちの子連れて初詣に行ったときに逢ったのよ。のんちゃんと颯太と一緒だった。明日香のこと憶えてたよ」
「嘘。なんていってた」のんちゃんと颯太ってだれだ。
「本人に訊いてみりゃいいじゃん。うちらの集まりに呼ぶよ。みんなあんたに逢いたがってるしさ」
 着ていく服がない。なんなら服屋に着ていく服もない。そのことをいまさら強烈に意識した。気が置けない仲であるはずの親友の前ですら気後れするくらいだ。まともな服を手に入れようにも給料日はまだ先だ。別にいいよ、みんな忙しいだろうしと断ろうとした。遠慮しないでと強引に押し切られた。
 明日香は訝った。高校時代のタマミなら本心からの叫びを察して引き下がってくれたはずだ。しかし十年ものあいだ同窓会にすら一度も参加しなかった同級生にいまさら逢いたがるやつはいまい。この手の口約束は実現しないものと高をくくった。歳月が人間を変える力を侮っていた。
 しかも決まって悪い方向へ変えるのだ。彼女自身がいつかそう思い知ったように、幸福はそれを握りしめて生まれた者へ寄り集まり全人類には行き渡らない。どれだけ恵まれて見えようが生きていれば徐々にその事実に蝕まれる。そうして他人の目に映る芝の青ささえも喪っていく。
 そうでありながら余計な行動力だけは歳相応に身につくのだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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