三十年ぶりの再読。 序盤は記憶していたとおり無造作な一文一文に身を切りつけられるかのようだった。 虐待の連鎖、 DV、 カサンドラ、 独善的な人格による搾取といった主題が、 随所にさりげなく仕込まれている。 たとえばのちに虐待者であることが明らかになる男が、 主人公をはじめて外へ連れ出す際、 上着を手渡すのでも着せてやるのでもなく 「投げあたえる」 との言葉が選ばれる。 感覚器から入力される情報の洪水に優先的な選択ができず自閉症児めいた混乱に陥った主人公に、 虐待者は最重要なのはきみだ、 自分に必要だからと告げる⋯⋯つまり自己愛的な動機による隷属の要求だったのだが、 後半が伝わらなかったおかげで主人公は、 自分自身を大切にすることを核にして認知の枠組を形成し、 自我を確立する。 そしてこの食い違いが結末で増幅されて揺り戻される。 ミッドポイントにおける虐待者の回想は太宰の 『人間失格』 のような幼少時の性的虐待であってもよかった、 わざわざ父親の女たちに言及したのだから。 主題をより明確に浮き上がらせる技法としてそのほうが自然というかむしろそれが必然に思える。 そうしなかったのは男性の加害性を滑稽に際立たせるために女性の加害性に触れることを避けたのかもしれない。 だとしたらそれは偽善だ。
研ぎすまされた文体は虐待者との別れから急に粗雑になる。 まず保安官のくだりで急にミステリの逃亡者ものの焼き直しになる。 その着想や手管をさほど活かさぬまま次の舞台へ移る。 ちぐはぐな書き方だ。 技術的にこなれていない。 ニューオリンズのくだりは思った以上にエフィンジャーだった (現実に起きる前にカトリーナのことを書いているのはおもしろい)。 マジックリアリズムめいた描写が唐突に挟まれるが必然性が感じられない。 その後の展開に何も影響しないしそのような書き方はここでしかされていない。 これをやるなら砂漠の原住民コロニーのくだりにも何かあってよかったし、 冒頭と結末の虐待者のパートにも関連づけがなされるべきだ。 脈絡がない。 書きすぎといえるニューオリンズと較べると砂漠の挿話は短すぎるし印象にも残らない。 よくある筋立てをただなぞりましたといった風だ。 虐待者の描写が詳細であるのに較べてあまりにぞんざいで雑すぎる。
安心できる庇護者と思わせて信頼させておきながら年齢差という権力勾配を利用して搾取するのはグルーミングにほかならない。 ジェンダーは不動のものではないのは当然だけれど、 それとこれとは別の話だ。 ひとつにはわざわざ一人称や役割語を使い分けた翻訳に問題がある。 ジェンダーのごく当たり前のゆらぎを SF 的な奇想と捉えるような態度が訳者にあったのだと思う。 白人シスジェンダー女性である著者自身にもその姿勢があったのか、 あるいはトランス黒人への遠慮があったのか。 どの程度自覚的に書かれたものかはわからないが主人公を尊重されるべきひとりの人間としてではなく容易に利用可能な性的資源として見ていることを明確に示す台詞がある。 おまけにダメ押しのように異様に紙幅を割いて執拗にねちっこく描写される。 それなりの意図があってしかるべきと思えるが、 にもかかわらずあくまで若き日のありふれた成長・学習の通過点として語られる。 男性の醜さを滑稽に誇張しておきながらその体験への評価には悪い意味でフラットに距離を置きすぎている。 それが当時のおれには居心地悪かったし、 いまのおれにも共感できないところだ。 当時は乖離の表現として読んだがどうもそうではないようだ。 あるいは大抵の女性にとって問題視するまでもないありふれた経験なのかもしれない。 実際に成長過程の通過点なのかもしれない。 それとも主人公の何物にも損なわれない無敵さを示すためにあえてそのように書いたのか。 そうかもしれない、 醜い描写にはあからさまな悪意が感じられる。 皮肉のためにトランスジェンダーを利用したのであればここで男としての醜さを強調するのは矛盾する、 白人シスジェンダー女性によるそうした利用の是非はさておくにしても。 このことについて考えれば考えるほど自分がまぬけに思える。 結局のところ身体的あるいは社会的な事柄から疎外された立場からは何もいえない、 というのが正解かもしれない。
AI については当時のジャンル小説なりによく調べて書いてあり、 『ガラテイア 2.2』 と読み比べるとおもしろい。 仮想現実のディテールはこの三十年間なんの進歩もなかったようだ。 醜いヘッドマウントディスプレイや両腕を振りまわすばかげたインターフェイス。 頭の硬い国家が天才のイノベーションを阻害するといったニュアンスで AI 規制法なるものが語られる。 プラットフォーム企業がひとびとを支配する未来なんて想像もできなかったんだろうな。 現実はどうだ。 技術を金で買った企業がその美しい神話を隠れ蓑にして、 騙されていることを知らない呑気な利用者を技術で支配している。 議会襲撃事件も若者たちの自殺も実際に起きるまで (あるいは起きてから何年経っても) だれも理解も想像もしなかった、 例外は筒井康隆の処女長篇くらいだ。 当時はまだ自転車とバックパックと米とサンダルの青年がボブ・ディランの海賊盤を聞きながら車庫で半田ごて片手に起業するイメージだったんだろう、 すでに団塊世代は神話を金に換えることを学んで、 十代だったおれらは搾取される側でしかなく、 金網をやぶってどろんこまみれで薬漬けになるしかなくて (グリーンデイが注目されたときのウッドストック)、 その時点ですでにご大層な神話が商業的な嘘っぱちでしかないのを思い知らされていたし、 ましていまの若者たちにとっては OK ブーマーなんて嘲笑の対象だというのに。 しかしそのヒッピーが法律をもてあそぶ大富豪となり金儲けのために主人公の権利を蹂躙しようとするくだりは、 読みようによっては現代を予知しているとも読める。
解離性障害がくりかえし描写される小説として記憶していた。 もっとも露骨なのは結末近くで主人公が虐待され殺害される場面だけれど、 序盤からささいな文章に巧みに紛れ込ませてある。 明確な描写はミッドポイントにもあって、 親としての権力を利用して主人公から搾取した虐待者は罰を受けて一度ここで死ぬ。 多少はあったかもしれない善良さも同時に死ぬ。 戻ってきたときには完全に父親とおなじ邪悪な男になっている。 この循環の皮肉が十代のおれを捉えて、 『崖っぷちマロの冒険』 で父親を嫌悪した少年が 『Pの刺激』 では父親そっくりのカルト教祖となり無残な死を遂げたり、 『ぼっちの帝国』 では両親のようになるのを畏れた主人公が子をなすのを拒否して狂気に逃げ込んだりすることになった。 男たちに都合のいいモノとして搾取されつづけた主人公が、 結末では性を拒否し、 性をもたない仲間とともにホームレスの子どもを支援するに至る⋯⋯そんな物語として記憶していたのだが、 どうもこれは同時期に読んだパメラ・サージェントのフェミニズム SF 『エイリアン・チャイルド』 と混同していたようだ。 身勝手な男の性を上から目線で小ばかにする態度こそあれ、 社会批判のニュアンスは感じられなかった。 身を切り刻むかのような文章は主題に結実するほどの掘り下げには至っていない。 ほのめかしに終始して商業的に期待される安全な枠内におとなしく留まる、 踏み込みの甘いジャンル小説でしかなかった。 唖然とした。 当時のおれはやがて自分で書くことになる物語をこの子どもじみた小説に投影していたのだ。 18 歳のおれが読んだ小説は存在しなかった。 それはおれの記憶だけにあった。 図書館の返却ポストの暗がりに滑り込んで消える本を、 孤独だった十代のおれに別れを告げるような気分で見送った。