聊斎志異を思わせる印象的なエピソードや描写、 笑いのセンスに魅力がありリーダビリティも高い。 反面それらの部分部分がまったくバラバラで、 技巧や一貫した論理でまとめる意思も感じられず、 そのため最後まで読んでも結局何をいいたいのか伝わらず、 バラバラや意図不明であることの必然性も感じられなかった (いいたいことや必然性がなければならないことはないが、 それはまた別の話だ)。 そしてエピソードの重ね方における技巧上の野心が、 なんだか途中で急に放棄されたかに感じられる。 やってみて飽きたみたいな。 長く書くうちに小手先のやりかたでは意味がないと気づいたみたいな。 第三作 『重力の虹』 のこなれていなさ加減に創作上の必然が感じられたのに対して、 処女長篇のこれは単純にまだ稚拙に思えた。 歪さがただのぎこちなさで終わった印象がある。 巻末のあとがきによればチャンドラーみたいに短篇をリサイクルしたとあるから、 そのせいかもしれない。 かといってそうしたあれこれが悪いかというと、 そうでもない。 その稚拙さは若さのあらわれとして感じられ、 主人公の片割れプロフェインの行状や悩みや迷走ぶりがきわめて二十代の若者らしく思われるのと分かちがたく結びついている。 はじめての長編小説を迷いながら、 苦しみながら、 そして楽しみながら書く青年が文章越しに見えるかのようだ。 そういうメタ的な必然性があって、 それがこの小説の魅力であるように思う。 だからほんとうはこの本は二十代のうちに、 若さの迷走に任せてひと息に読むべき物語なのだ。 難解との評判からなんとなく敬遠し、 五十近くなって衰えた集中力で、 個人的な懐かしさとともに読んでしまった。 お蔵入りにした 『約束の収穫』 やのちに書きなおした 『逆さの月』、 『崖マロ』 といった初期の小説を、 試行錯誤しながら書いていた二十代を思いだした。 当然これは誤った読み方だ。 でもきっと多くの読者に似たような筋違いの投影をさせてしまうだろう気恥ずかしい感傷がこの小説には確かにある。 聊斎志異みたいと書いたけれど、 主人公のもう一方の片割れステンシルは、 一人称が三人称だったり行動の叙述のされ方だったりがハメットのパロディのようだし (勝手な憶測だが実際そのように意図し、 しかも途中で急に飽きたのではないか)、 謎を巡ってへんてこな人物やおかしなエピソードが連なるつくりは 『踊る黄金像』 みたいにも思われ、 ステンシルとプロフェインはディックとホースラヴァー・ファットのようでもある。 百科全書的とかいわれるけれど、 そんな大層なものとは思われなかった。 貶しているのではない。 懸命に作家になろうとする若者の悪戦苦闘がたまたまそのような結果を生み、 それが好ましく伝わってくるということだ。 そしていずれ二作目の単純でむだのない中篇を経て、 歪さを技術として自覚的に使いこなすのだろうと予感させる作品なのだ。
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よくも悪くも二十代向け
読んだ人:杜 昌彦
(2023年06月27日)
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。