杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第14回: Tomorrow Never Knows

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.04.14

 振り向くと大柄な男が戸口に立っていた。雑に刈り上げた坊主頭、無精ひげ、腕をまくり上げたシャンブレーのワークシャツ、色褪せたジーンズ。兇悪な目つきとただならぬ威圧感は、その男を知らなければ脱獄した強盗殺人犯でも侵入したかと疑わせたろう。しかし住民のだれひとりとして驚かなかった。おう遅かったな美樹、何やってたのよ美樹っち、勝手にはじめてたよ田辺君、と口々にいいながら身内に向ける視線を投げただけである。
 明日香はといえば驚きこそしたがその理由は恐怖からではなかった。見憶えがあったのだ。忘れようにも忘れられない。電車内で痴漢を殺そうとしたあの粗暴な男だった。
 権田原トモロウはどこだと男はいった。感情を感じさせない虚ろな低音。耳について離れなかったあの声だ。何年もあとになって明日香は、この無愛想な声にも戸惑いが聞きとれたはずだと思うようになる。田辺美樹が初めて自分の名を呼んだ声。
 明日香は立ち上がって挙手した。あたしです。
 田辺美樹はじっと明日香を見つめた。だれも何もいわなかった。それまでの和やかな空気が嘘のように張り詰めた。彼の登場のせいではない。住民たちは求職者の声色の変化に驚いたのだ。トモロウじゃなくトゥモロウです、と相手を睨み返しながら明日香はいった。母親が勝手につけた名前なんであたしのせいじゃありません。あすかと呼んでください。いつもはそれで通してます。
 明日香自身もなぜそんな態度をとったのかわからなかった。これまでの人生はずっと道化を演じてやり過ごしてきた。職場と住居を兼ねるはずのアパートでもその流儀を変えるつもりはなかったし、現に三人の住民たちの前ではうまくやれた。なのになぜかこの男には反抗心を抑えられなかった。
 怠惰な暮らしで二、三キロ肥ったものの明日香は華奢で小柄な骨格をしていた。対するに田辺美樹はハリウッド映画に出てくる海兵隊員のような体格をしていた。彼女の席は戸口から離れていたが、それでもはたからは巨大な肉食獣に追い詰められた小動物さながらに見えたろう。
 確かに明日香は歳上の男性を畏れぬでもなかった。しかし彼の長身や強面はまるで気にならなかった。初対面でも感じたように横幅や筋肉の発達ぶりは鈴木春子に遠く及ばなかったし、あのときでさえ明日香は彼のあとを追おうとしたのだ。条件反射のように無意識に。なぜかはわからない。
 捕まえることができていたら何を話していたろう。ゴミをつまんで棄てるかのように痴漢を車外へ放り出そうとするなんて。そんな人物には生まれて初めて出逢った。頭の中はどうなっているのか。どうしてそんな怪物が生まれたのか。その正体を見極めたくなったのかもしれない。再会したいまもその衝動に突き動かされていた。住居にあっては逃げられまい。追い詰めたのはむしろ明日香のほうだった。
 今度はだれにもまた同じ話をやれといわれなかった。明日香にしてもクックロビン音頭は日に三度で充分だった。作品を見せろと対面に座りながら田辺美樹はいった。向かい合ってみると身長差が際立った。あきらとマシューが顔を見合わせた。見る必要はないとヤンパチが渋面でいい、なぜと美樹は尋ねた。ヤンパチは言葉を濁した。
 マシューが例によって助け船を出した。『ぼっち』のほうじゃないんだ、新しい管理人さんだよ。受験の準備で忙しくなるっていったじゃない、とあきらも加勢した。いつまでもあたしが美樹っちの面倒を見るわけにはいかないんだよ、祖母ちゃんも引退したしさ。
 必要ないということは見たんだな。判断はおれがすると美樹は頑固そうにいった。
 三人は憐れむ目で明日香を見た。明日香は意地になって挑むように携帯を差し出した。田辺美樹は携帯の画面を見下ろした。短大の卒業制作で描いたものだ。ほんの数分前まで明日香にとって一番の自信作だった。指導教官にも同級生にも褒められた。額装した作品の前でピースして後輩に記念写真を撮ってもらったのを懐かしく想い出す。あの頃は通販会社にも内定して鮮やかに夢を思い描いていた。
 美樹はテーブルの上を静かに滑らすようにして携帯を明日香の前に戻した。関心のないものを誤って手にとったのに気づいた人間の反応だった。手渡しならせめて人間的な温もりを感じたろう。やはりだれにとっても無価値なのだ。感想をどれほど切望していたか自覚して明日香は打ちのめされた。ぼろくそに貶されても構わない、この男にとって自分は何者かであってほしかった。顔が、いや全身が熱くなった。
 期待した言葉の代わりに美樹は、どこかで逢ったかと明日香に尋ねた。今頃かよと思いながら明日香は、ちゃんと見てくださいと要求した。美樹は携帯を再び手に取るどころか一瞥もしなかった。感情に欠けた鋭い目で明日香を見つめつづけた。
 マシューがふたりの顔を交互に見つめ、初対面じゃないの、と戸惑ったように尋ねた。痴漢から救われた旨を明日香は事務的に説明した。クックロビン音頭の覇気はなかった。口が勝手に喋ったようなもので意識はテーブル越しに向き合う男から離れなかった。
 二大モンスター激突エピソードの空気はやはり本人を知る間柄でさえ伝わらないようだ。やるじゃんとあきらが感心するのが視界の隅に入った。そんな話ではないのにと明日香は悔しく思った。この男についてあたしが経験したのはそんな美談じゃない。法律に触れるようなことはしてないだろうな、とヤンパチがうんざりした顔で唸った。また駅員さんやお巡りさんに謝るのは厭だよ、そう何度も見逃してもらえるとはかぎらないんだからとマシューもいった。
 三人の反応は明日香にはどうでもよかった。場をわきまえる余裕すらない。認めさせたい欲求で相手のほかは何も見えなかった。女だから雇わないんですかと彼女は喧嘩腰にいった。才能がないからだと美樹はあっさり答えた。
 女には仕事ができないと?
 いや、何か持っていれば膚が緑色で赤い息を吐いていても雇う。この台詞は何かの引用であるらしかったがニヤリとしたのはヤンパチだけだった。マシューもあきらも明らかに困惑していた。何が悪いんですかと明日香は尋ねた。
 あんたは学校で習ったとおり上手にやっている。それだけだ。
 そうそう上手だよね、ここんとこなんかさ……とマシューが口を挟もうとした。明日香は無視した。習ったとおり上手にやって何が悪いんですかといい募った。美樹はたっぷり二分ほどじっと明日香を見つめた。それからいった。あんたがだれなのかわからない。
 最初からデザイン職の面接のつもりで訪れたら明日香だって萎縮したはずだ。面と向かっておまえはだれだとのたまう失敬な言葉さえ素直に受け入れたかもしれない。しかし彼女は、そもそも才能の評価など求めなかったのに成り行きで貶められ、あまつさえ存在を忘れられ、腸が煮えくり返っていた。電車で一度逢ったって説明したじゃないですか。そう叫んで憎悪を込めて睨み返した。他人に対してかくも反抗的な態度を示したのはコールセンターのキャバ嬢SVと格闘したときくらいだった。
 何が自分をしてかくも感情的にならしめたかわからなかった。周囲の三人にしてみればなおさらだったろう。あきらは年配者が血気盛んな若者をいさめる口調でいった。美樹っちはね、あんたがどんな人物なのか作品から伝わらないっていってんの。ばかみたいでしょ? 絵を一枚見たくらいでそんなことわかるかって。
 こいつはこの歳までそれで喰ってきたとは思えないほど下手だが、といって美樹はマシューを顎で示した。ほかのだれにもやれない仕事をする。傷ついた様子のマシューには構わず美樹は平然と続けた。あんたでなくとも描けるものをなぜ描いた。それが世間で正しいとされるからか。
 だからやめたんだろとヤンパチが話を終わらせるかのようにいった。聞いただろ、絵を売りに来たんじゃないんだよ。あんたが饒舌になるとろくなことはない。言葉は書くために取っておけ。
 田辺君に悪意はないんだよとマシューが取りなすように明日香にいった。あきらは溜息をついて首を振り、こういう連中なのよとでもいいたげに肩をすくめてみせた。彼らの優しさは嬉しかったが明日香の気持は沈んだ。美樹のせいではない。だからやめたというヤンパチの言葉のほうが胸に鋭く突き刺さっていた。
 このときの明日香には知りようがなかったし、そればかりかマシューやヤンパチにとってさえ理解の埒外であったが、田辺美樹の問いは純粋な好奇心から発せられていた。彼はさながら子供が昆虫の生態を知りたがるように心から不思議に感じていたのだ。本当に創造的な人種を明日香は生まれて初めて目撃していた。彼はそれまでに出逢ったどのようなひとびととも異なった。
 明日香はこの時点でアパート住民全員に相対したつもりでいた。もうひと部屋を紹介されていながら彼の存在をすっかり失念していた。咳払いで注意を惹こうとするかのごとくに蜂のような低い唸りが聞こえた。マシューとヤンパチとあきらが揃って天井を見上げた。明日香もつられて同じ方向を見上げた。
 咳払いのような可愛らしさはなかった。どたんばたんという激しい物音がしはじめた。だれかがマットの上で格闘しているかのような振動だった。発動機のような音や歯車が回転したりピストンが上下したりするような音も聞こえる。レールの照明が揺れた。天井から埃がぱらぱらと落ちた。
 あれ電圧喰うんだよなとヤンパチが愚痴をこぼすようにいった。
 夜とか電気がちょっと暗くなるよね、サーバは大丈夫なのかなとマシューもいった。
 あいつがいいならいいんだろ。サーバ室だけ電気系統が別になってんだよ。
 夜はやめてほしいのよね近所迷惑だから。美樹っち注意してやってくんない?
 五分で終わる。来客の気配でストレスを感じたんだろう。
 明日香は唖然として住民たちを眺めた。会話がまるで理解できない。これまで生きてきたのとは遠く隔たった世界だと気づいた。世慣れた言動をするあきらはもちろん、それまでは比較的、常識人のように思われたマシューとヤンパチでさえ異星人のように感じられた。雇用契約と賃貸契約を交わしたのは早まったかもと不安になった。こんな職場に住み込んで本当にやっていけるのだろうか。
 明日香は自分を何よりも動揺させたものに気づいていなかった。ずっとあとになって思い至る。フランケンシュタインの怪物じみた外面に覆い隠されて、初めから彼はずっとそこにいたのだ。さながら病弱な家族への気遣いを思わせる表情を、このとき田辺美樹はふと言葉に漂わせた。
 天井の騒音は彼の言葉どおり五分きっかりでやんだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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