三十年ぶりに読み返した。 図書館から借りてきた文庫本は当時の版でバーコードすらついていない。 三十年分の手垢がついて変色していて埃臭かった。 意外に内容を憶えていることに驚いた。 一方で性暴力について書かれていたことはすっかり忘れていた。 重要な主題であるにもかかわらずだ。 その理由がわかるような気がした。 主人公が当事者ではないかのような、 巧妙に迂回するような書き方をされているからだ。 もうひとつ失念していたのは、 自分がいかにこの作品に影響されていたかということだ。
前半は短編めいた挿話を巧妙な語りでつなぎあわせた構造だった。 世の中には確かに、 あっちこっちに飛んでいて、 脈絡が読み取りづらく、 「何を話しているの?」 と思わせておいて、 読みすすめるうちに全体像が見えてくる⋯⋯といった書き方もある。 アーヴィングものちの作品ではそのような書き方をしている。 たとえば 『オウエンのために祈りを』 などはヴォネガットの露骨なオマージュで時系列が操作されていた。 それと較べるとこの物語は驚くほど直線的に進行する。 あくまで語り口だけが脈絡なくあっちこっちに飛ぶ。 いわば躁の思考のように散漫でまとまりがない。 このまま展開されるのかと思いきや、 妻の不倫と尖ったシャフトのあたりから急に長編らしい構成になる。 散りばめられていた要素がつなぎあわされ、 よりあわされ、 まとめあげられていく。
主人公の性的な混乱に根拠がないかのように前半では感じさせられる。 重大なことを避けて遠回りをしている印象がある。 性暴力が性的な混乱を呼んだのではなく性的な混乱が先にある感じがしてしまう。 たとえば前半の夫婦交換のくだりは共感できない。 二作目だったか、 三作目だったか、 それともどちらもだったろうか、 売れなかった本がたしか同じ題材を扱っていて、 そちらのほうがむしろ混乱に妙な生々しさがあり、 滑稽でありながらも切実な説得力があった。 『ガープの世界』 の前半ではただ無理に冗談めかそうとしたような感じがする。 それも喋っている本人がとっくにうんざりした、 擦り切れた冗談だ。 しかし最後まで通読すれば、 それも後半にかけての助走だったとわかる。
主題を延々と迂回しているかのような、 小説そのものが主題から疎外されているかのような印象は、 やがて覆される。 何もかもが計算尽くの布石だった、 あるいは、 書かれるうちにそうであったことが見出されたのだ。 主人公は母親の葬式から疎外される。 男性であるために個人的な喪失を悼むことすら許されない。 暴力によって母を奪われた主人公は加害者であるかのように責めなじられ、 母を殺したのと同種の暴力をふるわれる。 そして、 映画では服装が人物の心理や、 役割や、 状況の喩えになることがしばしばあるのだけれど、 この小説でも同じことが行われる。 悼むために自分を傷つけるのは——加害者と同じことをやるのはまちがっている、 ということも書かれている。 そして、 そのまちがったひとたちにもそれぞれの事情があり、 一様に断罪するのはやはりまちがっているとも書かれている。
ひとにはそれぞれの事情があり、 物語がある。 鳩を受け止めた補導部長が子ども時代の主人公を受け止めたと妄想したように、 暗殺者は実在しない性暴力の復讐を果たす。 捏造された記憶はときとして事実より価値がある。 事実はだれにとっても同じだけれども、 記憶はそのひとだけのものであり、 そのひとがどんな人間かを示す。 暗殺者にはなんらかの欠陥が示唆されるがそれが何であったかは問われない。 記憶と、 記憶にまつわる事情、 事情にまつわる記憶——すなわち物語こそがこの小説では重要なのだ。 そしてこの小説はその後の作品が存在しないことによって記憶される作家の物語でもある。 もっとも鮮明に憶えていたのは掃除婦の発言で、 その記憶が 『悪魔とドライヴ』 にもつながったと思う。 でも結局のところ、 これはどうなんだろうと思ってしまう。 少なくともこの国では 「ほんとうのこと」 が許されない。 ひとそれぞれの事情が 「淘汰」 される土地では、 物語の価値は顧みられない。