古本屋の軒先で野ざらしになっていた裸の文庫本で読んだのが四半世紀前。 あのときより生々しく感じられた。 今回は閉架書庫から出してもらった平野甲賀による布装幀。 古い本特有のにおいがする。 86 年刊。 現代の商品とちがって造本がしっかりしていて紙は白くて指が切れそうなほど。 黄ばんで粉っぽくなったりしていないし、 ひらくだけで背が割れたりもしない。 現代なら大手出版社のどんな本にも必ず五箇所はある誤植だって、 ひとつも見つからない。 そして何より批判精神がある。 当たり前のように思われるかもしれない、 でも日の丸が国旗に、 君が代が国歌に正式に定められた頃から、 その当たり前が喪われてひさしい。 育成コストを要する生身の人材よりも AI が尊ばれる時代だ。 生産性や効率が重視され、 他者への想像力、 人間性といったものは淘汰され排除される。 かつて本は他者への想像力を培うものだった。 いまでは社交の場において有利に立ちまわるための使い捨ての道具となった。 人間や想像力をないがしろにすれば、 国は滅びる⋯⋯その滅びるさまを描いたのがこの喜劇だ。 付録小冊子が職員の手で丁寧に綴じ込まれてあった。 そこで小林信彦はこんなことを語っている。
おっしゃるように、 日本では被害者小説、 敗者小説のタイプが多いですね。 戦争に行った人は、 加害者意識の部分が書きづらいと思います。 しかし、 少なくとも開戦から半年余りは、 日本は破竹の勢いで南方へ進出し、 占領していったんです。 そうなれば当然、 内地とは違って、 酒が飲めて、 うまいものが食べられた。 そういう 〈たのしさ〉 を、 なぜ、 誰も書かなかったのかというのが、 長年の疑問でした。 「〈対談〉 笑いと仕掛けで描く戦争」
搾取を気兼ねなく心から楽しみたい、 それを当然の権利と心得る。 踏みつける足をどけてくれと頼まれたら激昂する。 形勢が不利になり、 矛先が自らに向かえば知らなかった、 騙されていたと弁解する⋯⋯。 若年女性の支援事業を妨害するひとびとや、 児童虐待企業を擁護して被害者を金の亡者呼ばわりするひとびとを思い起こしてほしい。 結末で投降しあっさり敵に寝返る喜劇役者は、 そのあたりの心理を軽薄な芸風そのままに正直に吐露する。 かれは多くの日本人がそうであったように、 自分に危害が及ぶまで戦争はいいものだと思っている。 とりわけいい思い出として述懐するのは、 凝った料理や冷えたビールよりも、 現地民の子どもを浴室に閉じ込めてその母親を強姦したことだ。 この皮肉に満ちた小説において娯楽とは、 たとえ映画や流行歌や飲食の類いであれ、 血や泥をきれいに拭い去って無菌化し、 子どもや老人でも食べられるように甘くやわらかく加工して、 プラスティックで華やかに包装した 「他者を踏みにじること自体の楽しさ」 ——紛れもない暴力そのものなんである。
流行の服を着た血色のいい若者たちは鉄条網の向こうで高いチケットを買って踊り、 銃を乱射してかれらを殺害し拉致する男たちはしてやったりと得意げに笑う。 報復の名のもとに病院や学校や行き場のない住民が爆撃され、 そのライヴ中継には安全な土地からの双方を侮辱し愚弄するコメントがひしめき合うように流れる。 暴力は娯楽なのだ。 自分に向けられるまでは。 他者を踏みにじるあいだはいつか自分に向くことを忘れ、 あたかも自分の力のように感じられる。 「ぼくたち」 にとって娯楽とは、 楽しみとはそういうことなのだ。