崖っぷちマロの冒険

連載第8回: 影なき子供

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月12日

神の息子を生け贄の山羊として扱う。それは確かに変わったカルトだった。教団内には、僕が何者か知らない信者さえいた。父上と同様の狂人に生まれつけば、事情はまた違ったかもしれない。僕は勘違いしたまま育ち、犯罪者になっていたろう。そこでは誰もが手近な狂気にすがりつき、破滅の淵へなだれ込もうとしていた。
 その夕方、教団施設内は閑散としていた。道場では四、五名が掃除をしていた。板の間を競い合うように雑巾がけし、天井の煤を払う。動作のぎこちない青年、殴られる日常から逃げてきたらしい中年女、リストラされた男。人生が破綻した末に、こんなところへ行き着いてしまったのだ。
「餓鬼がウロチョロしてんじゃない。掃除の邪魔だ」入信して日の浅い連中らしかった。追い払われた。
 信者が出払ってる理由を想い出した。市民会館で父上の講演会があったのだ。講演は七時までだが、戻ってくるのは信者だけ。教祖と幹部らは、料亭で朝まで宴会だった。
 土蔵へ急いだ。針金の秘術で錠前をこじ開けた。独特の臭いのする暗がり。格子の嵌まった高窓からは、薄い夕陽が射していた。金色の光条に埃が踊った。
 段ボール箱。教団の広報誌の束。贈答品の空き箱。それらの山から、ラジオつきランタンを発掘した。ディックを取り出し、表紙を上衣の袖で拭いた。読みはじめてすぐ『虞美人草』との共通点に気づいた。登場人物たちは、ある種の人格に翻弄されていた。
 現実は意識から締め出された。街の騒音も表が暗くなるのも、狂った犬の声も。お嬢のいった意味がわかりかけた頃、尿意が堪えきれなくなった。本を鞄の底板に隠し、すぐ戻るつもりで蔵を出た。寒かった。
 最も近い便所は、幹部職員と巫女の居住棟にあった。普通の家庭にあるような型で、清潔に保たれていた。今なら使用しても差し支えまいと判断した。個室は使用中だった。把手の小窓が赤になっていた。五分は待った。ノックして耳を澄ました。何の音もしなかった。気配すら感じない。
 把手には小さな溝がついていた。外から鍵を開けられる。親指の爪をドライバー代わりにした。先客を確認するなりドアを締めた。渡り廊下を母屋へ向かった。一般信者用は、公園の公衆便所を思わせた。そこで用を済ませた。
 さっきのリストラ男が、手洗い場で雑巾を濯いでいた。僕は手を洗った。男は眉根を寄せた。僕は体が強ばるのを感じた。
「おい、いつまで洗ってる。水の無駄だ」
 彼は「節水」の貼り紙を指さした。僕は謝罪の言葉を口にし、逃げるように詰所へ向かった。食事係に小声で文句をいわれつつ、ご飯をよそって食べた。
 居住棟の方が騒がしくなった。渡り廊下を裸足で駆けてくる音がした。勢いよくドアが開いた。リストラ男が飛び込んできた。息を切らしていた。「大変だ! トイレにし、し、し……」
「また詰まった?」食事係のおばちゃんが顔をしかめた。「騒がなくてもスッポンやりゃいいじゃないか」
 僕にはわかった。おばちゃんのいわんとするのはラバーカップで、男は「屍体」といいたかったのだ。
 普段なら内輪で穏便に処理していたろう。不慣れな者しか残っていなかった。教団は閑静な住宅街にあった。それが非日常の光景と化した。敷地を囲む長い塀にパトカーが集まった。警官は無線で連絡を取り合い、呼子を鳴らし、野次馬を牽制した。不安げに囁き合い、携帯を掲げる人々。腕章をつけた報道陣。甲高い声のリポーター、フラッシュの閃光。
 狂った犬は叫びつづけた。
 連絡は行ったはずだが、父上が宴会を切り上げて戻ることはなかった。新入りに責任を押しつける旨みがあったのだろう。あるいは単に警官とやり合うのが面倒だったのかもしれない。施設には警官が詰めかけた。鑑識は粉を叩き、デジカメで撮影し、文字の札を並べ、掃除機をかけた。
 飯沢警部とスネ夫頭は、詰所に陣どった。遺体発見時、敷地内にいた者をひとりずつ呼び出した。最後に僕が呼ばれた。元SEの男が、付添いと称してついてきた。長い食卓に並んだふたりは、入社試験の面接官みたいだった。入室するや、厳しい視線が集まった。
「どうした坊主。いつもの威勢は」
「警部」尾根河は元SEを睨んでいた。警部はまだ居たのかという顔をした。
「この子供には何もわかりません。私が代わりに答えます!」
「君の話は聞かせてもらったと思うが」
「嘘をつくかもしれない! お父上にいつも迷惑を——
「嘘かどうかはこっちで判断する。捜査の邪魔だ。出てってくれ」
「警察は子供の嘘を信じるのか? 真理とは——
 飯沢は眼で合図した。制服警官が二名、すっと近づいてきた。元SEは羽交い締めにされ、廊下へ連れ出された。わめき声が聞こえた。「天罰が下るぞ! 修行の場を土足で荒しまわって。教祖様はお見通しだからな!」
「坊主との話が終わるまで、君らも出てくれ」
 制服警官たちは出て行った。警部は両肘をつき、組んだ手で顎を支えていた。小さな眼は相変わらず鋭かった。僕は向かい合う席に着いた。
「外弁慶なんですよ。目立たないよう気をつけてるんで」
「そのようだね」スネ夫頭が初めて意見を述べた。不正に憤る若さをまだ失っていないのだ。
「糞溜めに生まれたら一生臭うんです。ところでこういう施設は初めてですか。この部屋、監視装置があるんですけど……」
 尾根河はハッとした顔になった。警部はわずかに眉を動かした。
「カメラとマイクが数カ所。大丈夫、執務室には誰もいないんで。ハードディスク録画の導入を幹部たちは勧めてます。父上はそれが何かわからないみたいです」
「じっくり話を聞く必要がありそうだな。お父さんからは」
「どうでしょうね。県警幹部や代議士と繋がってますから。実際ちょっと驚きました。うちに警察が入ったのは初めてなんで」
 遺体を最初に発見したことを明かした。
「ドアを開けたら女の人が座ってました。蓋をした便器にジーンズ穿いたまま。血は見えなかったけど死んでると思った。瞬きしてなかったから。ブラウスは途中までボタンが外されてました。引きちぎられてはいなかった。着替え中に殺され、発見を遅らすために運ばれた。そんな風に見えました」
 警部は関心なさそうにいった。「隣の更衣室は調べた。あの低いロッカーは危ないな。角に体液と組織片が付着していた。適合する損傷が被害者の後頭部にあった」
「まだ先生を疑ってるんですか。今度のアリバイはどうです。やっぱり僕が怪しい?」
 尾根河はふっと微笑した。警部はうんざりしたように腕組みした。「この事件とは関係ない。それになぜ君を疑わにゃならん」
「死人に出くわしたのは二度目ですよ。偶然と片づけられます?」
「まるで罰されたいみたいだな。被害者を知ってるのか」
「中山愛子。同級生の母親で、父の愛人です」
「昨日、ここで揉めたようだが」
「査べがついてるんですね」
 順を追って説明した。仁美の父親が三年間、海外で生死不明だったこと。赤ん坊の交通事故死。その原因が妻の飲酒運転にあり、しかも彼女が教祖の愛人になっていたと知り、繁雄氏が激昂したこと。
 警部は小さすぎる椅子にもたれ、大儀そうに天井を見つめていた。聞いていないようにも見えた。やがて彼は視線を戻し、口をひらいた。「駐車場係が中山繁雄を見ている。被害者の車で現れたそうだ。娘に見える子供を連れていた。君ぐらいの年齢だそうだ」
「仁美だ。五時くらいに別れたばかりですよ」
 飯沢は無関心に頷いた。「十五歳の不登校児が、駐車場係を今日だけ任されていた。出勤する妻の車に、繁雄が無理やり同乗した。子供が心配してついてきた。そんな風に見えたそうだ。十五分後に父親だけが戻り、車で去った。掃除係の女が、更衣室での口論を耳にしている。娘はひとりで歩いて出ていくところを、守衛に目撃された。自宅に婦人警官をやって保護したよ」
「なぜそんな重要な情報を僕に?」
「どうせ一時間後には公表される」
 くたびれたコートの内側で振動音がした。飯沢は携帯を取り出して応じた。口を結んで虚空を鋭く見つめる。ああわかったといい、携帯を戻して立ち上がった。
「中山繁雄が車で青葉埠頭から飛び込んだ。地元ダイバーにすぐ救助された。犯行を告白する遺書が車内から見つかった。意識が戻りしだい病院で事情聴取する」
 彼は食卓を回り込んで戸口へ向かった。尾根河が後に続いた。
「その遺書を信じるんですか」
 警部は体を屈めかけて振り向いた。「俺が何を信じようと誰が気にする?」冷ややかにいった。
 ふたりは出ていき、ドアは音を立てて締まった。

 朝に新聞を読むのがその頃の夢だった。実際には連載小説が面白いときだけ、図書館で眼を通していた。
 翌日の午後に習字があった。その朝の地方紙を、誰かが古新聞として持ってきた。ブラジルはやはり事件について触れなかった。唯一の情報源は、休み時間のたびに回覧された。前の席の誠司は、国語が大の苦手。時間をかけて読破し、嬉しさのあまり僕にまで回してしまった。取り上げられないうちに急いで読んだ。
 カルトの施設内での殺人。本来は全国紙のトップになってもおかしくない。それが四コマ漫画の下に、小さく収まっていた。豪語するだけの力が父上にはあった。
「中央署は昨日、青葉市草花院の元会社員、中山繁雄( 38 )を過失致死、死体遺棄、道路交通法違反の容疑で逮捕した。妻を死なせ、遺体を隠して逃走した疑い。調べでは中山容疑者は昨日午後六時ごろ、妻の愛子さん( 34 )と青葉市米倉の団体施設で口論になった。激高した容疑者が突き飛ばしたところ、愛子さんはロッカーの角に頭をぶつけて死亡した。容疑者はその後、発見を遅らせるため、遺体をトイレに隠した疑い。容疑者は車で自殺を図ったが、生命に別状はない。入院先の病院で犯行を自供した」
 押し殺した周囲の囁きに、僕への非難が聞きとれた。知ったことか。誰もこの記事を不自然に感じないようだった。彼らの興味は仁美への同情に集約された。父親の帰国に喜んだのも束の間、今度こそ本物の孤児となったのだ。彼らの理解はそういうもので、実際には何ひとつ知らなかった。
 父親に目の前で母親を殺される。それはちょうど長年暮らしてきた場所が放射能に汚染されていたと知るようなものだ。元気を装うのに慣れてはいても、普段通り登校できるはずがない。僕でさえ翌日は便所で吐いたりしたものだ。
 団体施設とやらの正体を、親に聞かされた者もいたようだった。大人たちが眉をひそめる理由までは理解してないように見えた。まして僕がそこの息子だとは誰も知らない。出自を詮索するほど関心を抱く者はなかった。信者の子は知っていても隠していた。誰が好きこのんで家庭の恥を晒すものか。
 教団はこう謳っていた——「心身を鍛え直し、立派な日本人にする」と。そして不登校児の家族を数多く取り込んだ。教祖は幹部を率い、多くの学校を訪れた。教職員らを応接室に監禁し、数時間にわたって説教したりした。イジメの加害者とされる家庭に乗り込み、謝罪を強要することもあった。問題にならなかったのは県警や市の教育委員会とつながりがあったからだ。児童は不適応をこじらせる。すると家族はますます教団への依存を深めた。
 自分に降りかかるとは考えたくなかった。外の社会と教団とを、僕は切り離して考えていた。でも結びつけようと思えば、やれる者はいたのだ。
「五年二組の縁部丸夫君。お家から電話がありました。すぐ帰るようにとのことです」
 昼休みに校内放送があった。視線を浴びながら、鞄を背負って教室を出た。職員室でブラジルの姿を捜した。向こうが先に僕を見つけた。窓からの陽光を背に近づいてきた。
「こんなときは先生に断らなくてもいいぞ。早く帰れ」
「何があったか聞いてますか」
「お父さんに逢えばわかる」
 担任の表情は見えなかった。わけのわからない恐怖を彼に感じた。さよならをいって職員室を出た。ほとんど駆けだしたい気分だった。それが彼との最後の会話だった。
 犬の叫びがいつにも増して耳についた。守衛小屋を過ぎるとき、その理由に気づいた。お題目が聞こえない。
 道場には信者らが、所狭しと正座していた。僕に視線が集中した。
 父上は眼玉をギョロつかせ、ふんぞり返っていた。自分の手前を厳かに示し、座れと命じた。両脇には幹部らが控えていた。肩書に「元」のつく、いかつい男ばかりだ。
 苦虫を噛み潰したような顔の、元経営コンサルタント。日焼けした童顔の元弁護士。丸顔の元暴力団幹部。麻酔をした患者にいかがわしい行為をした疑いで、大学病院を追われた元外科部長。
 僕は信者のあいだを進み出て、深々と伏し拝んだ。
「学校はどうだ」
「毎日、真面目に勉強しています」
 教祖はさも滑稽なことを聞いたかのように眼を剥いてみせた。「毎日、真面目に勉強しているとさ」彼は笑いのさざ波が静まるまで待った。穏やかな声で尋ねる。「何か私に相談することがあるんじゃないのか」
 意図が読めず、答えられなかった。
「クラスのお友達はどうなんだ」
「仲良くやってます」
「そんなことは訊いていない!」父上は立ち上がって罵声を発した。僕は身を縮めた。
「教祖様はイジメを心配しておられるのだ」暴力団あがりの幹部が、厳かにいった。
「話にならん。行くぞ」教祖は呆れたように幹部らにいった。
 五人は板の間を踏み鳴らして出ていった。次第にことの重大さが脳味噌に浸透した。僕は鞄を背負ったまま後を追った。お題目が背後から沸き起こった。
 事前に連絡をしなかったのだろう。校門は閉ざされていた。見覚えのある高級車が二台、裏手に路上駐車していた。教団の公用車と幹部のスポーツカーだ。明らかに通行の邪魔だが、この手の車に文句をつける住民はいない。
 二階まで駆け上がったときだ。廊下に父上の喝が響いた。職員室の戸口に駆け寄った。ご高説をまくしたてる後ろ姿が、隙間から見えた。幹部らはそれぞれの流儀で、教職員を威圧していた。元ヤクザは睨みを効かせていた。元コンサルタントは事務的で、冷静な態度だった。元弁護士はふてぶてしく腕組みしていた。元外科医はキョロキョロしては、他人の机のものを物珍しげにつまみ上げた。
 授業中で、応対できる教師は少なかった。教頭はこめかみをハンカチで拭い、例の水呑み人形の動きをしていた。そこへ校長が、電話を終えて校長室から出てきた。教頭に事態を説明され、眼に怯えをよぎらせた。営業用の笑みを繕い、一行を校長室へ招いた。
 騒ぎは待ちかねたように再開された。
 教頭は汗を拭き、ドアの前を行きつ戻りつした。僕はただ見ているしかなかった。五分後、弱り切った校長が出てきた。教頭の席に屈み込み、放送で全教職員を呼び出した。それから職員室にいた全員を、校長室へ連れ込んだ。
 校舎は騒がしくなった。自習を告げられ戸惑う声。やがて内履きのサンダルやゴム底の音が集まってきた。ブラジルの長身は遠くからでも識別できた。廊下の端から僕を認めたようだった。床を見つめてやり過ごした。向こうも声をかけてこなかった。彼らは困惑し、顔を互いに見合わせて校長室へ入っていった。僕を不審そうに一瞥する先生もいた
 教祖は調子づいた。説法は朗々と響き渡った。
 僕は打ちひしがれ、学校を後にした。図書館で気を晴らそうとしたが、活字はまるで頭に入らなかった。卑怯者になった気がした。地下で視聴覚資料を閲覧した。何を聴き、何を観たか憶えてない。傘立ての前を過ぎて表へ出た。
 違和感を憶えて振り向いた。骨だけの傘はなくなっていた。
 僕が逃げてから、全生徒が帰されたらしい。校長の判断だった。それから教職員は校長室に夕方まで監禁された。気分が悪くなる先生が出て、救急車が駆けつける騒ぎとなったそうだ。許しを得ずに救急車を呼んだとかで、教祖はますます荒れ狂ったという。その後、父上と幹部らは料亭に繰り出した。さぞかし旨い酒だったろう。教団に戻ったのは深夜だった。
 担任が休んだのは、僕の知るかぎり翌日が初めてだった。代理で教壇に立った教頭の話では、病院に検査へ行ったという。二日後に復帰したブラジルは、加齢臭の染みついた黒い箱を腰につけていた。電極はセーターに隠れていた。
 こんな担任を見るとは夢にも思わなかった。生徒への関心は明らかにおざなりだった。話しかけられても気づかずに通り過ぎさえした。授業からは何かが失われた。巧みだがそつのない、そんな授業をする先生なら他にもいた。生徒らは拍子抜けし、戸惑った。まるで何かの影に怯えるかのように互いの顔色を窺い、腹の内を探り合った。
 ほかの教師たちからは、僕はあからさまに問題児扱いされるようになった。不快げに一瞥したり、逆に無視したり、眼を背けたりされた。何も悪いことをしてないのに、気をつけろと怒鳴られたりもした。ブラジルも僕を避けるかに見えた。
 生徒は大人から自然に影響を受ける。伝染病の保持者みたいに扱われるようになった。女子たちが悲鳴をあげて逃げた。六年生に囲まれてどつかれた。下級生に唾を吐きかけられた。誰もが公然と罵声を浴びせ、石を投げつけてきた。
 教団内でも監視が強まった。これまで以上にお勤めに打ち込まねばならなかった。図書館に寄り道するどころか、黒沼さんに本を返すこともできなかった。そしてその夜が訪れた。
 道場は肌寒く、薄暗かった。風の音と犬の叫びだけが聞こえていた。僕は信者らに囲まれ、教祖の前に正座させられた。「毎日帰りが遅いようだな。どこで何をしていた」
 その数日はまっすぐ帰宅していた。道理などどうでもいいのだ。
「遊んでました。友達の家とか、学校の校庭で……」
「何? そんなボソボソ喋られても聞こえん」
 僕は生意気に取られまいと注意深くいった。「校庭や友達の家で遊んでました」
「友達ィ? 友達って誰だ」答えに詰まった。教祖は勝ち誇った。「点検だ。鞄の中身を見せなさい」
 たびたび行われる検査だった。従順に留金を外し、蓋を開けた。
「愚図愚図するな。みんなお勤めを中断して待ってるのだぞ!」
 咎め立てる視線が集中した。手際が悪かったわけでも、時間がかかったわけでもない。信者は教祖の望むようにしか物事を見られないのだ。僕は鞄を空にした。途端に顔を蹴り倒された。なんと酷い息子か、と信者らは嘆息した。慈悲深い教祖様にここまでさせるとは……と。
「底板に隠した物があるだろう」
 とぼけられる空気ではなかった。本を取り出すと、どよめきが起こった。教祖は鼻で嗤い、計算づくの台詞を発した。
「図書館から借りたのか」
 僕は床から視線をあげ、彼を見つめた。とどめの一言が発された。
「日頃の好き勝手を知らぬとでも思ったか!」
 それから彼は命じた。聞き違いかと思うほど素っ気なく。「裂け」
 僕はぽかんと口を開けた。元暴力団幹部が、いかめしい態度で補足した。「その汚い本を破り棄てろとの仰せだ」
 全員が僕を見つめていた。強い北風が庭木や窓を揺らした。犬は吠え続けた。
「聞こえないのか。さあ、教祖様が待っていらっしゃるぞ……」元経営コンサルタントが親切を装って忠告した。
 黒沼さんには説明してもわかって貰えないだろう。本をひらいた。左右の頁に、互い違いに力をかけた。人間性について書かれた本は真っ二つに引き裂かれた。お嬢もこの音を聞いたのだろうか、と思った。
 頁を細かく破り続けた。僕という人間もバラバラになっていった。
「皆の者よ。我が息子は世間の罪悪に染まった。修行を怠り、偽りにうつつを抜かした。これほど深く慈しみ、手を尽くしたにも関わらずだ。しかし私は息子を責めない。このような邪悪な子供が育つのも、教育現場の腐敗故だ」
 聴衆から感動の声が漏れた。
「先日、教師らと話した。物わかりの悪い校長だったが、最後には善処を約束した。だが肝心の担任は、反省が薄かった。罪を悟らせるには如何なる途があろうか?」
「禊だ」夢見るような声が上がった。
「そうだ、禊だ」
 信者らは口々に呟いた。次第に明瞭になり、道場を揺るがす合唱となった。連呼される声は、呪術的な波となった。人々は憑かれたように昂揚した。
 みっそぎ……みっそぎ……みっそぎ……!
 教祖は両手で厳かに制した。「その前に一度だけ、改心の機会を与えようぞ。彼の魂の救済を祈ろうではないか」
 誰もが胸を打たれ、涙を流した。お題目を唱え、伏し拝みはじめた。あほんだらだ、あほんだらだ……。道場は異様な熱気に包まれた。こんなに盛り上がったのは、母を殺した日くらいだった。
「堕落した魂を救いに赴く。正しき教えは必ずや真理を導くであろう!」
 教祖は四人の幹部を率い、僕の脇を過ぎた。落ち着きのない元外科医が、癖のある高い声でいった。「お前も来るんだ」

 担任のアパートは墓地の裏手にあった。塀や電柱で車体をこすりそうだった。元経営コンサルタントは慎重にハンドルを操った。
 水銀灯で照らされた路地。二台の車が辛うじて停められた。元ヤクザが、直行できて便利だと冗談をいった。塀の上を猫の影が走った。雲の垂れ込めた夜空を電線が寸断していた。そこでカラスが威嚇するように羽ばたき、警告の声を発した。
 木造モルタルの二階建てアパート。築三十年は経っていそうだ。墓地の植木が、寂しげな影と枯葉とを落としていた。枯葉は雨樋や側溝に詰まり、土に還りかけていた。階段の手すりや踏み段は、塗装が剥げて錆が浮いていた。男たちは乱暴な足音を立てた。階段は悲鳴みたいに軋んだ。
 元弁護士が二〇一号室の呼鈴を押した。ブーッと弱々しい音がした。錠が外れてドアが開き、土気色の顔が現れた。ジャージ上下に健康サンダル。茫然とする彼を押し退け、男たちは土足で上がり込んだ。
 僕は担任と視線を合わせられなかった。俯いたまま靴を脱ぎ、玄関を上がった。男たちは部屋の主が戻るのを待ち受けていた。教祖の衣裳は、よそで見ると強烈な違和感があった。元外科医は例によって物珍しげにキョロキョロしていた。
 天井の低い六畳間。電灯は薄暗かった。侵入者らの前でスイッチの紐が揺れていた。カーテンは地味な灰色。漆喰壁にはカレンダーさえなかった。家具といえば炬燵と、部屋に不釣合いな書棚だけ。書棚には本が隙間なく詰め込まれていた。教育雑誌や専門書。日本文学の古典や名作。様々な辞書や六法全書……。『カルト脱会マニュアル』『犯罪被害者支援』といった書名も見られた。
 炬燵の上には薄汚れた電話機と、赤いトラックポイントのついた黒いノート機があった。芯を燃やす型の石油ストーブにはヤカンが乗っていた。火はついていなかった。僕は畳の目を数えた。
「お招きした憶えはありません。出て行っていただけますか。警察を呼びますよ」ブラジルの声には奇妙に感情が欠落していた。まるで何度もこの場面を演じてきたかのようだった。
 男たちは顔を見合わせ、爆笑した。
「まったく警察を呼ぶのが好きな男だ」元コンサルタントが呆れたようにいった。
 元弁護士が白い歯を覗かせた。「警察もいい迷惑でしょ」
「碌なもん入ってねえな」元外科医は冷蔵庫を漁っていた。残り少ない調味料やひからびたチーズを背後へ放りはじめた。瓶詰が壁にぶつかって割れた。
 元ヤクザがガニ股でブラジルに迫った。「警察呼ばれて困るのはそっちじゃねえか?」と顎を突きつける。「世間は忘れたわけじゃねえぞ。教え子の不審死を……」
「あんたの生徒はみんな不幸になるな。井上雪乃が死んで何年になる?」
 父上が面白がるようにいった。ブラジルは喉の奥で、息の詰まるような音を立てた。彼の呼吸が荒くなった。
「あれはいい女だったな。惜しいことをした。つまらぬ反抗などせねば良かったものを」
 金属的な騒音がした。元外科医が流しの扉を開け、鍋やフライパンを物色していた。元ヤクザは書棚の本を床へ落としはじめた。「埃臭え本なんか並べやがってよ……」
 ブラジルが低く呻いた。長身がよろめき、右手がジャージの左胸を掴む。元弁護士が押し入れを開けた。
「うっ、黴くせー。布団干せよ。何この古雑誌の束。エロ本?」
「ひどい部屋だ。住民の心の醜さを映しているかのようだ」教祖は厳かに頷いた。
 それからが本番だった。学校での説法は予行演習に過ぎなかった。雪乃なる女性がどのように男たちを愉しませたか、父上は詳細に語った。ブラジルの教師としての資質に、延々と疑問を呈した。近隣一帯に響き渡るような声だった。幹部らは部屋を荒らし、教祖の指摘に賛同し、ブラジルを指さして爆笑した。
 担任は壁にもたれて立っていた。熱病みたいに慄え、喉をゼイゼイ鳴らし、左胸を掴んで脂汗を流していた。唇は紫。落ち窪んだ眼は虚ろだった。ジャージの腋が黒い染みになっていた。
 その時点になって初めてわかった。彼の授業。穏やかな物腰とは裏腹の、ひとを怯えさせる不安な力……。この瞬間が訪れるのを、彼はずっと予期していたのだ。おそらく雪乃なる生徒が亡くなったときから。
 寺井の娘の殺害を誰もが疑っている。お前が首を突っ込まなければ、あの女は死なずに済んだ。そうほのめかされたあたりで彼はくずおれた。アパートは倒壊しそうなほど揺れた。
 一瞬の静寂ののち、男たちは爆笑した。腹を抱えて喘ぎ、壁を叩いたり足踏みしたりした。おい坊主、医者呼んでやれと元弁護士が声を絞り出した。医者ならここにいるぞ、と元外科医が叫んだ。神経症的な笑いが高まった。
 ブラジルは白眼を剥いてかすかに痙攣していた。呼吸は荒く、弱々しかった。大人たちになど構っていられなかった。僕は炬燵の電話で救急車を呼んだ。制裁は覚悟の上だった。
 手当ては間に合わなかった。後になってわかった。二台の車が路地を塞いでいて、近づくのに手間どったのだ。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。