崖っぷちマロの冒険

連載第6回: たったひとりの死にざま

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月12日

校門をめざす子供の群。黒と赤の弾む鞄。騒がしい声。小さな靴に踏み固められる、黄色い堆積物。
 僕が登校の列に加わると、男子たちは顔をこわばらせた。女子たちは白い眼で囁きあった。いきなり泣きだす下級生もいた。朝はお勤めで忙しく、鏡など確かめる余裕はなかった。
 教室は静まり返った。視線が集中した。罪悪感と不快感の入り混じる空気。タカケンと茂太はまだ来てなかった。小島はあからさまにニヤついていた。ざまあみやがれという顔。牛島は無表情だった。残る四名は青ざめた顔。視線を逸らしていた。
 みんなが気の毒に思えた。
 好きでこんな人間になったのではない。人類の何割かには、変質者が生じる。その被害でおかしくなる者もいる。善良な人々の暴力性を、変質者はしばしば引き出す。精神科医でさえ加害者に荷担する。暴力や災害、外見や文化の違いによる諍い。それらは必然性もなくただ生じる。それがこの世界であり人生なのだ。
 手洗い場の鏡に向かった。みんなの態度は正しかった。僕の顔は放置された真夏の死体を思わせた。教室へ戻った。仁美はお喋りに興じていた。談笑は中断された。彼女は眼を丸くし、息を呑んだ。華奢な手で口を覆った。「どうしたのマロ君……」
「階段で転んだ。見た眼ほどひどくない」
 仁美は周囲の態度に戸惑っているようだった。「ほんとに大丈夫?」
「何ともないって……」
 今やクラス全員が親衛隊だった。仁美に身を寄せ、励ましていた。遠巻きに眺めるだけだった男子もだ。縫いぐるみの特定はあとまわしにせざるを得なかった。仁美のすがるような視線には、こたえようがなかった。気づかないふりをした。
 上井戸はわずかな関心さえ示さなかった。戦場のような授業をやり過ごしながら、僕は放課後を待った。
 さよならを唱和して掃除を終えた。
「あのねあのねー」
 甲高い奇声。晴彦が追ってきた。無視して図書館をめざした。見憶えのある高級車が近づいてきた。減速した。スモークガラスの窓が下りた。後藤杏がいった。「乗って」
 猛獣と変態を天秤にかけ、仰せに従った。晴彦の顔に失望がよぎった。下校中の生徒らの視線を感じた。また新たな噂の種を撒いたわけだ。車は滑らかに加速した。彼らはたちまち過去に置き去られた。
 ピエール瀧は杏の足許に丸くなり、居眠りしていた。杏は僕の顔に動じなかった。「イジメ?」
「ほっとけ」
「捜査の進展は」
「別件でそれどころじゃない」
 いきなり掴みかかられた。熱い息が顔にかかった。「姉さんは殺されたのよ。どうでもいいの?」
「犯人と疑われて脅された」
「あなたにわかる? 家族が殺される苦しみが。あなたもパパも口先だけ。ウヤムヤになるのを待ってる。面倒に関わりたくないだけなのよ!」
 杏はごっこ遊びに打ち込むことで痛みを紛らせていた。その子供らしいわがままに、梶山氏は寄り添おうと努めていた。僕が求められたのは、混乱に秩序をもたらす探偵役だった。犯人が明らかになったところで家庭は元には戻らない。
「ママもママ。娘が殺されたのよ? パパに文句のひとつもいえないなんて!」
 僕は杏の手から逃れ、激しく咳き込んだ。杏は膨れ面で腕組みし、座席にもたれた。視界に色が戻ってきた。窓を開け、対向車が絶えるのを見計らって、乳歯を吐き棄てた。リンチ以来ぐらついてたのだ。ピエール瀧が血の臭いに反応し、頭をもたげた。
 風と騒音を締め出し、杏に向きなおった。「飯沢警部は何もいってこない。新事実が判明したとも聞かない。図書館に行く暇なくて、新聞は読んでないけど。この車はどこへ?」
「お祖父さんのとこ。新作の試食に呼ばれたの。特別に参加させたげる」
 車はやがて大きな門をくぐった。鬱蒼とした針葉樹林。ザリガニや食用蛙が捕れそうな、暗い沼。井戸の手押しポンプには枯れ蔦が絡まっていた。玉砂利の振動は伝わらなかった。屋敷の前に止まった。梶山氏がドアを開けてくれた。黒豹が主人より先に滑り出た。勝手知ったるという風に、どこかへ消えた。
 車内ではそれまでずっと祖父自慢を聞かされていた。小さなカップ容器入りゼリー。ショートニングを加工した紛い物のヨーグルト。チューブ入りの色つきジュース。それら人気商品の開発者だという。五年前、名誉職を与えられ一線を退いた。
 彼の始めたテライ食品は、今では地元有力企業へと成長していた。会社の古い体質を、現社長は改革したがっていた。駄菓子部門は廃止の方向だという。
「今の子供は満ち足りている。もう夢とか滋養とかの時代じゃないんだよ、父さん」
 杏は物真似まで披露してくれた。子供にいい含めるような口調だった。僕のリクエストに応じて、祖父も演じてくれた。
「おうおう、よく来たなあ。見るたびに美人になって。さあ上がんなさい。今度のは自信作だ。お気に召すかな。フッフッ」
 平べったい木造家屋。瓦屋根は色褪せていた。異様なシルエットが人目を惹いた。鉄筋コンクリートの箱が、横手に張り出していた。異次元の建物が融合したかのよう。科学特捜隊の建物を思わせた。縁側の軒下に、干し柿が吊してあった。
 玄関の左脇に表札があった。ホルダーに厚紙を納める型だ。癖のあるマジックの字で「寺井太一郎」と記されていた。その下に、不調和なステンレスのプレート。「テライ児童食研究所」と横に印刷されていた。
 黒豹は玄関の前で待っていた。格子と曇ガラスの引き戸が開いた。黒豹は水銀みたいに中へ滑り込んだ。太一郎氏は小柄な老人だった。頬は餡パンみたいに色艶がよかった。孔のあいた靴下に、健康サンダルをつっかけていた。禿の両脇に白髪が残っていた。安物のネルシャツと、タック入りデニム・スラックス。茶色のスウェードのチョッキは、創業当時からの時代物と見えた。
 図書館の雑誌でディック・ブルーナを見て、サンタクロースみたいだと思ったことがある。太一郎氏はその写真によく似ていた。
「おうおう、よく来たなあ。今日はお友達も一緒かい。見るたびに美人になって。さあ上がんなさい。今度のは自信作でね。お気に召すかな。フッフッ」
 彼は僕の顔に気づき、眉をひそめた。僕自身はその惨状をすっかり忘れていた。老人はチョッキの裾で眼鏡を拭き、かけ直した。口があんぐり開いた。
「大丈夫かねあんた」
「階段で転んだんです」
 老人は梶山氏の顔をうかがった。表情から何か察したようだ。節くれだった手を打ち合わせ、明るい声を発した。
「さっ。アンズ姫とお友達に、とっときの新作をご披露しよう」
 子供らの肩に温かい両手をまわした。開発の苦労話を語りかけつつ招き入れた。
 張り出した部屋は研究室だった。六畳ほどに雑多なものがひしめいていた。
 保温庫。ステンレスの冷蔵庫。フラスコやビーカーの並ぶスチール棚。戸棚には各種の粉、着色料や薬品の瓶。流しに調理道具。ガス台、オーブンレンジ。年季の入ったミキサー。スチールの事務机。バネ式の椅子はビニールが破け、絶縁テープで補修されていた。白衣が背にかけられていた。
 書棚はぎっしり詰まっていた。化学の専門書から、料理や菓子づくりの入門書まで。半数近くが横文字だった。ウムラウトの付いた文字も見えた。多くが黄ばんで分解寸前。カバーのない『あさりちゃん』の二巻が紛れていた。
 小さな食卓には透明のクロス。コーヒーメーカーが抽出を終えた。ピエール瀧は皿を前趾で押さえ、青いアイスキャンディーを舐めていた。
 太一郎翁は客にパイプ椅子を勧めた。カラメルのない焼プリンを並べ、男ふたりにコーヒーを注いだ。僕は杏の向かいに座った。老人は孫娘にも数滴注いでやり、ポットのお湯を足した。彼女はむくれた。
 砂糖とミルクについて尋ねられ、どちらも断った。梶山氏は訊かれなかった。ブラックと決まってるようだ。僕が給食で出るものより強い飲み物を口にするのは、このときが初めてだった。
「どうぞ召し上がれ」老人は食卓に両手で頬杖をついた。期待に頬が輝いていた。
「いただきまあす」
 三人で声を揃えた。スプーンの柄は頭が動物型だった。プリンを口へ運んだ。中からカラメルがとろっと流れ出た。プリンは給食でしか知らないが、これが特別なのはわかった。
 梶山氏は眼を細め、ほう、と嘆息した。杏は無関心を装い、「まあまあね」と評した。そしてペロリと平らげた。
 太一郎氏はニコニコし、感想を求めた。梶山氏は微笑んだ。「懐かしい味ですね。まだ珍しかった頃の……」
「こういうのをね、カプセルに入れられないかと。透明プラの」
「難しそうですね。食べ方は?」
「蓋を外して、孔からスプーンで。名づけて無重力プリン」
 杏がおとなしいと思ったら、文庫版『指輪物語』を読んでいた。書棚にあったらしい。黒豹は舐め尽くした皿を押しやり、毛繕いをはじめた。
 話題は創業当時に移っていた。「日本はまだ貧しかった。発育に不可欠な栄養価さえ、満足に摂れん家庭も多かった。滋養豊富で夢のある菓子。しかも安価でと、知恵を絞ったもんだ」
「今とは事情が違いました。原料も輸送手段も……」
「プラ工場の親爺も頑固でな。カップだのチューブだの、わけがわからんかったろう」
「面倒な注文を受けなくても、好景気でしたから」
「店に置いてもらうまでが、またひと苦労。毎日、暗くなるまで頭を下げてまわった」
「喧嘩も随分いたしました」
「あの時期が一番やりあったな」
「お年寄りが多かったですからね。商品を説明してもわかってもらえない。やっと置かせてもらったら、容器が欠陥品……」
「食べ物をずいぶん粗末にした。配合を間違えて大損したことがあったな」
「糊として売れないかと本気で相談しましたね」
「『テラちゃんビスケット』を憶えてるか?」
「あれは残念でした。当時の金型では、精度に限界がございましたね。いろは文字の発想は素晴らしかったのですが」
「試作品を近所に配ったっけ。あとで通りかかったら犬に喰わせようとしてた。喰わないんだな、これが」
「ゼリーの時でしたっけ。失敗作をふたりで処分しようとして、腹を下して……」
「あんときゃ参ったな。芳子さんに看病頼んだら『デートの先約が』って」
「本当は弟さんの授業参観だった。彼女、どうしてますかねえ」
「皺くしゃの婆さんさ。曾孫もいるかもしれん」
 ふたりは高らかに笑った。それからまた感慨に耽った。
「今の日本は物に溢れています。子供を取り巻く状況も激変しました。よくなったのやら、悪くなったのやら」
「高度成長、バブルを経て、何もかも効率優先になった。子供らに今、必要なのは——
「心の滋養でしょ」
 杏が暗唱するようにいった。発明家は大笑いし、孫娘の髪をくしゃくしゃにした。
「さすがアンズ姫。良くわかっとる」
「いつも同じ話なんだもん」
「歳を取ると誰でもそうなるのですよ、お嬢様」
「『振り返るべき過去がある』ちゅうのは、悪くないもんだ。今にわかるさ」
 発明家は読書する孫娘を見つめ、眼をしょぼつかせた。急にただの老人に見えた。「あいつも自分の娘くらい聞く耳を持てばなあ」
「友之助お坊っちゃまでございますか」
「昔は素直で優しい子だった」
「いつまでも子供ではございませんよ。ご自分の考えで経営されたいのでしょう」
「わかってる。譲った会社に口を出すべきじゃない。やかましい親爺にゃなりたくないんだ。でもなあ、あいつは変わったよ。高校で変な友達とつきあうようになってからだ。もう何を考えてるやら見当もつかん。今じゃ直継君、教祖様だっていうじゃないか……」
 僕は梶山氏を見つめた。彼は知っていて黙ってたのだ。
 太一郎氏は、些細な物事に頓着しない性格のようだ。僕は一度も名前を訊かれなかった。手を振る彼が車の背後に遠ざかるまで、そのことに気づかなかった。
「太一郎様は大層お喜びのようでした。ずっと塞ぎ込んでおられたのです」
「あなたの席、姉さんの定位置だったの」
 ピエール瀧は満足げに喉を鳴らした。
「驚きましたよ。親同士が知り合いとは」
「てっきりご存知かと……。玲子お嬢様は何も?」
「それほど親しくなかったんで」
「ご自宅までお送りしましょう」
「図書館で降ろしてもらえます? 信者に見られても困る」
 礼をいい、今度は自分でドアを開けた。誰かが僕を呼んだ。その声を聞くと碌なことがない。仁美が息を切らせて駆け寄り、抱きついてきた。待ち伏せされたように感じた。
「マロ君! 良かった逢えて……」
 車内からの視線を感じた。仁美の華奢な肩を両手で遠ざけた。暗紅色のパーカー。裾の短い黒の襞スカート。焦茶のブーツ。そのままテレビのアイドル番組にでも出られそうな格好だった。涙に気づいた。支えてやらないと倒れそうだった。
「何があったの」
「留守電に入ってたの。四時過ぎに青葉空港に着くって」
「ジェレミーが?」
「パパ、生きてたのよ!」
 梶山氏が助手席の窓を開けた。「お乗りください。急げば間に合います」
 仁美は聞こえているか怪しかった。代わりに礼をいい、車内へ彼女を引き込んだ。ドアが締まるや車は滑り出た。杏の冷やかな視線に気づいた。
「『別件』の子?」
「ただの友達」
 杏は追求せず、暗い視線を向けてきた。
 渋滞が始まりつつあった。梶山氏は抜け道をいくつも知っていた。空いていても三十分はかかる距離を、およそ半分で走った。建物が次第に疎らになった。古びた大型店舗や、ホテルのネオンが眼につきだした。やがて倉庫や工場ばかりになった。
 仁美は泣きじゃくった。僕の胸元は涙で濡れた。金持ちの車に同乗していながら、彼女はそのことに一度も言及しなかった。疑問は山ほどあるはずだった。まわりが見えない性格とは感じていたが、これほどとは思わなかった。
 空港に来るのは初めてだった。ガラス張りの壁からの夕陽。到着ロビーは金色に染まっていた。人々は荷物と影を引きずっていた。
 その男は人混みで浮いていた。伸びすぎた脂っぽい髪。古いスポーツバッグ、深緑のコート、酷使されたブーツ。こけた頬を無精ひげが際立たせていた。落ちくぼんだ眼が何かを捜していた。
 仁美の泣き腫らした眼が、男を捉えた。彼女は引き寄せられるように駆けだした。男は自分に近づく少女を見た。憔悴した顔に笑みが広がる。鞄が床へ落ちた。大きく広げられる両腕。
 激しい抱擁。親子はまわりの視線を浴びた。
「大きくなったな。見違えたよ」男の顔に写真の面影はなかった。風雨に晒した革を骨に張りつけたようだった。「顔をよく見せてくれ……美人になったな。ママにそっくりだ!」
「幸博は、幸博は……」その先はいえず、仁美は嗚咽した。
「人伝てに聞いた。つらい想いをさせたな。もうどこへも行かない。これからはずっと家族一緒だ……」男は娘の頭を優しく撫でた。それから初めて気づいた。「ママは?」
 仁美の肩がこわばった。杏が訝しげに僕を見た。
「まさか独りで来たのか? あいつ何やってんだ。携帯番号は変わってないよな。間違いと思われたらしい。駅の公衆からかけたんだ」
「あのー……」僕は割り込んだ。親子は現実に引き戻された。父親は梶山氏に気づいた。
「縁部丸夫君。お友達なの」
「初めまして、仁美さんのお父さん」
「ああ、初めまして。梶山さんがここまで運転を?」
 運転手は嬉しそうに微笑した。「はい。よくぞご無事で……」
 ピエール瀧は車内でうたた寝をしていた。梶山氏の手がドアに伸びると、見知らぬ人物に警戒する体勢をとった。臭いに顔をしかめる黒豹を、繁雄氏は無関心に一瞥した。異国であまりに多くを見過ぎたのだろう。
 杏は助手席でペットを抱えた。客三名が後部席。父娘は恋人同士のように抱き合った。その隣にいるのは居心地が悪かった。
 トツクニスタンでの経験を、父親は言葉少なに語った。外国人は見つかると殺される。親切な人たちが地下室や屋根裏に匿ってくれた。それだけ話し、もっぱら愛娘の学校生活を聞きたがった。勉強はどうだ。友達とはうまくやってるか。給食は。仁美は食が細かったからな。クラスのみんなは親切よ。上井戸先生の授業は凄いの。成績は前と変わらない。八十五点は割らないようにしてる。算数はこないだ七十八点とっちゃった……。
 死んだ子供の話題は、初めは注意深く避けられていた。流れがそこへ及ぶのも時間の問題だった。
「お猿さんみたいって聞いてたけど、幸博は違った。頬っぺはふっくら。手足は小さくて、指を近づけると握ろうとした。いつも泣いてたけど、だっこしたげると笑った。ほんとにお人形みたいだった。もういないなんて信じられない」
「もっと抱いてやりたかった。家を空けてばかりで、駄目な父親だった」
「でも色んなとこ連れてってくれた。お土産だって——
「それがわかるほど幸博は大きくなかった。してやれることがもっとあった」
「お仕事だもの。パパのせいじゃない」
「ママには本当に済まなかった。不注意は心労が原因だ。会社の指示なんか無視すべきだった。紛争が悪化する前に帰国していれば……」
「お酒なんて呑むからよ」
 父親の眼が急によどんだ。聞き取れなかったようだ。「そういえばママはどうした。何かあったのか」
 仁美は床を見つめた。「お勤めに……」
「仕事を始めたのか。苦労かけたな」
 僕はまた遮ろうとした。仁美はううん、と首を振った。「気の毒な人たちを助けてるの。縁部君のお父さんのとこで」
 杏が息を呑んだ。梶山氏の視線をバックミラーに感じた。繁雄氏が、娘の頭越しに僕を見た。瞳孔の奥に深い闇が覗いた。彼がまともに僕を見たのは初めてだった。
「どういう意味だ」
 誰も答えなかった。黒豹さえ息を潜めているように見えた。
 何もかも自分のせいに思えてきた。お嬢や赤ん坊の死。母親たちの堕落。異国の貧困や内戦。父上に喰い物にされる人々……。
 繁雄氏は僕を品定めした。彼を地獄へ追いやった人物。その知り合いと結びつくのが見えた気がした。彼の声は奇妙に静かだった。「梶山さん。この坊やの家までお願いします」
 ドアを開くなり、外界の音が鼓膜を打った。犬の警告にお題目の合唱。繁雄氏に半ば押し出されるようにして降りた。彼は僕の存在など眼中にないようだった。
「お前はここで待ってなさい」
「パパ!」
 娘の悲痛な声は、ドアに封じられた。杏が降りようとした。梶山氏に厳しい声で制止された。僕は繁雄氏を追った。
 脇目もふらず母屋へ突き進む男。異様な風体だ。信者や入信希望者であるようには見えない。オニギリ頭は動揺し、守衛小屋を出ようとした。パイプ椅子に足をひっかけ、ドアへ激突した。プレハブ小屋が揺れた。
 お題目が急にやんだ。静まり返る道場を、狂った犬の叫びが際立たせた。百名あまりの信者。人生相談の母娘の行列。邪悪なピエロを思わせる教祖。誰もが凍りつき、闖入者を見つめた。色白美人の巫女は教祖に寄り添っていた。半開きの唇には、衣装と同色の紅をさしていた。
 繁雄氏は妻の名を呼んだ。そのひと言で呪縛が解けた。信者らは教祖の顔色をうかがった。合図ひとつでいつでも暴漢を排除する構えだ。父上は喝を入れる代わりに、寛大な笑みを浮かべた。
「何の御用ですか」妙に穏やかで優しげな声。危険な徴候だ。
 闖入者には聞こえなかった。彼は妻に話しかけた。場違いなほど普通の調子だった。「やっと帰国できた。一緒に家へ帰ろう」
 巫女は教祖の肩にすがりついた。眼が怯えていた。声はうわずり、慄えていた。「な、何よ今頃……迷惑よ!」
 繁雄氏は板の間へ強引に踏み込んだ。信者らは渋々通してやりつつ、教祖の合図を待った。暴力団出身の幹部を、父上は視線で制した。ふたりはニヤついて成り行きを眺めた。
「呑んでたのか」
 巫女は教祖の背後に後ずさった。繁雄氏は静かに問いを繰り返した。
「あれは飲酒運転だったのか」
 眼前で演じられる事態を、教祖は明らかに愉しんでいた。繁雄氏は信者らを強引にかき分け、妻へ近づいた。左手が胸倉を掴んだ。
「どうなんだ!」
 女の顔が嘲りに歪んだ。鼻で嗤った。「莫迦みたい。そんなことで大騒ぎして!」
 夫の顔がサッと赤らんだ。こめかみと喉が膨れ上がり、眼が熱を帯びた。右の拳を振り上げた。妻は手で頭をかばい、身をすくめた。
 道場は静まり返った。衣擦れや息遣いさえ聞こえなかった。
 気の触れた犬は叫びつづけた。
 三年もの地獄から生還したら、家族を失っていた男。衆人環視で巫女を殴ろうとした男。彼は脱力したように両手を降ろした。
 そして右の拳を茫然と見つめた。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。