岩波のKindle版で読んだ。話も語り口もおもしろいが文字がやたら画像になっている。漢字には何かこだわりがあるのかもしれないが三点リーダまで画像にしなくたっていいだろう。セピアの背景で読んでいるとそこだけ訂正シールが貼られたように白くなっていて読みにくい。文句をいいながら上巻の半分まで読んだら俄然怖くなってきた。芸術家が次々に連れ去られるくだりは荒唐無稽な怪異でありながらリアルすぎる。そのようにして発禁され地下出版された本なのにあくまでユーモアを喪わず「とても活字にできない卑語」といったギャグが頻発するのがおもしろい。「ズボンもはいていないのにネクタイなんか締めて、どうなるというのだ?」「猫はズボンなどはかないことになっているのですよ、ご主人」なんてのは当時としてはあまりにも先進的だと思った。でも考えてみれば当時から擬人化された動物のアニメーション映画はあったわけだ。
この物語で悪魔の一味がひどい目にあわせるのは男ばかり。マルガリータや小間使いの少女には悪事をなすどころか魔力でやりたい放題をさせる。世のさまざまな物語において魔女というのはしばしば男性優位社会のプロトコルを逸脱する女性のことだったりするけれど、悪魔と出逢って以降のマルガリータはひたすら愉しそうだ。そして性暴力が小さなほのめかしから印象的な逸話に至るまでやたら言及される。なんでも夢を叶えてやるといわれたマルガリータが望むのは愛する男との再会ではなく、強姦されて産まされた子どもを殺害した狂人を救うことだ。それもきわめて衝動的にあっさりと語られる。マルガリータの動機というか行動原理は基本的にそういうことであり、悪魔はひたすら彼女の、男性社会への衝動的な反抗を叶えつづける。彼らは文学者であろうと貴族であろうと権威者をことごとく嘲笑いつづける。社会主義国家における英雄であり富裕層である夫の束縛(個人の資質としてはそれほど抑圧的でもないようなのだが、しかし社会的な制約がある以上それは束縛として機能する)から逃れてダメ中年男のもとへ走る、ということ自体が当時の価値観に真っ向から喧嘩を売っている。このダメ中年、別の世界では巨匠になれたかもしれないが現実には最底辺の作家にすらなれず、精神病院の隔離病棟に拘禁されている。だからこそそのような男を愛することがマルガリータのような女にとってエンパワメントの手段になり得るのだ。そしてその巨匠自身のエンパワメントは社会的な尊厳を取り戻すことですらなく(それは悪魔の力によってさえ不可能なので)、長いあいだ未完だった原稿を最後まで書き上げ、登場人物を解放してやることにすぎない。それは体制の弾圧では燃やせなかった原稿をみずから燃やし、詩人としての人生を諦めることと紙一重だ。書き上げたのか葬り去ったのか、それは歴史が証明する。
奇想といいメタフィクション的な技法といい、社会に評価される本を書けないことへの絶望といい、奔放な女性と抑鬱的な男性の対比といい、自著『Pの刺激』との類似性を意識せずにはいられなかった。そして衝動的な女性が暴力によりエンパワメントし、原稿の呪いに囚われていた男が登場人物を解き放ち、死後の世界へと旅立つ結末は『悪魔とドライヴ』にもどこか似ている。『Pの刺激』はいうまでもなく『ヴァリス』や『朝のガスパール』に強い影響を受けている。ディックが現実と虚構の交錯に関心をもつに至ったのは統合失調症への関心や冷戦の時代背景がかかわっていたのだろうし、そうしたモチーフはジャック・フィニイによって街が盗まれた五十年代からすでに見られた。それをいうなら『牡猫ムルの人生観』だって『トリストラム・シャンディ』だってすでにあったわけだ(前者は好きだが後者はまだ読んでいない)。しかしマリアンヌ・フェイスフルがミック・ジャガーに読ませたくらいなので六十年代末にはディックもこの本を読んでいたかもしれない。筒井康隆は当然この本が日本に紹介された時点で読んだだろう。そう考えるとこの本は『Pの刺激』の直系のご先祖様にあたるわけで、なぜいまに至るまで読まなかったのかと後悔した。とはいえ研究も進み邦訳がKindle化され、『ベガーズ・バンケット』の五十周年記念盤が出たこのタイミングで読めたのは、それはそれでよかったのかもしれない。