まず先に山田洋次の映画版を観たのでその話から。大筋としては、楽しくて輝いてた時期なんてあっという間で、一瞬のつまらない嫉妬とか過ちとかを、なんとまぁずるずると長いこと、一生かけて引きずるもんだろうかね人間は、というような話だった。いい歳した老女がそのことで若い女みたいに泣くんだよ。随所にさりげなく挟まれる一瞬の演出が巧みだ。初老の小説家がお手伝いさんに、浮気相手の恋文にまつわる冒険譚をこそこそと話した直後、奥さんが何を話してたんですか、とかいってお茶を持ってきて、その辺に転がってた手紙をひろいあげて旦那に手渡すのね。わかってるのよ、てな色っぽい目つきで。ばれたか、みたいな小説家の態度も自然で、これが彼らの日常のやりとりであることがわかる。長年連れ添った夫婦の色っぽいくだりを、そういうさりげない一瞬の演出でさらっとやる。
それからお手伝いさんがヒロインと共犯めいた友情をむすび、同時に恋にも落ちるあんまのシークエンス。あれはさりげないともいえるし、過剰なまでにわかりやすいともいえるんだけれど、いずれにせよ色っぽくてよかった。いちばん色っぽかった演出は子どもが本の印刷の匂いを嗅ぐとこね。ほんと一瞬なんだけど、あれであの子がほんとうに本が好きなんだってわかる。お手伝いさんの少女に小説家があんまをさせるシークエンスは、まぁ性的搾取なんだけど役者のせいか演出の意図か、あまりその気配がない。孫がかわいくてしょうがない爺さんみたいに見える。部下である画家に妻を近づかせて、政略結婚を受け入れさせようとする夫にしても、やってることはむかしの男の性暴力のはずなんだけれど、これまたまったくそんな感じに見せない。こちらは明らかに意図された演出で、セックスを知らない子どもみたいな男であるように描かれている。
よくわからないのは画家以外の男たちで、当時の男たちの愚かしさを揶揄するつもりなのかどうなのか、戦車のおもちゃをふりまわして遊ぶような子どもっぽさを強調している。あの演出意図は何か。あれだけ画家を出入りさせておきながら妻の不貞に気づかないわけはないので、夫がその逢瀬を仕組んだと考えるのがふつうだけれど、あの男たちの子どもっぽさは、妻の性的資源を自分の所有する道具であるかのように扱う(当時の男性に往々にしてあった)残酷さを、都合よくごまかす手管なのか。それとも単純に性愛に疎いかまととぶりを強調したかったのか。あるいは単に政治的な偏りによる演出かもしれない。語り手のお手伝いさんがいちばん嫌った歪め方のようにおれには思える。この映画で性的にふるまうのは女だけだ。画家にしても巻き込まれたにすぎない。
宝塚みたいな「親友」には、 LGBT とフェミニズムに対する露骨な差別意識を感じた。多くの客に一瞬でわからせるには現状あのくらいが求められるんだろう。ヒロインと不倫する画家の卵が描いた絵が、元お手伝いさんの老女の寝室にかかっている描写がくどいくらい繰り返されるんだけど、それは結末近くで、その画家もまた大成してからもずっとおなじことをやっていた、という逸話が語られるための伏線なんだよな。あの絵はたぶん戦後に買い求めたものだろう。元お手伝いさんは画家を知っていたけれど画家は彼女に買われたことは知らなかったんじゃないか。交流があったとしても罪の意識にもとづく友情みたいなものだったろう。画家のほうでも何かがあったのを察していたろうし(手紙は渡されなかったので真相は知らないままだった)、元お手伝いさんにしてみれば地獄の責め苦みたいな友情だったろう。進んで罰せられようとしたのでないかぎり、そのような関係に積極的に身を置いたとは思えない。人づてに一枚の絵を買い求めて、寝室に飾ってそれきりにしたんじゃないか。いろいろあった男のアカウントを偶然みつけて、遠巻きにヲチりつつフォローはしない女みたいな。
反戦に絡めて女の同性愛を描いた作品に見せかけて、そのじつ、色濃いミソジニーや同性愛嫌悪を感じた。巧みだけれども何かちょっとひっかかる。男を子どもっぽく描いたのは、赤い屋根の家をあえてミニチュアっぽく撮ったのとあいまって、かわいらしい童話みたいな感じを出していたから、映画の演出としては成功なんだけど。
⋯⋯で、肝心の原作。結論をいえば映画版は女性に差別的だった。持ち上げるようにしてばかにしている。女性編集者が勇ましい記事を書くくだりは映画では描かれず、代わりに男たちの子どもっぽさがひたすら強調される。男の幼稚さが戦争を引き起こしたのだとでもいいたげ。反面、性的にがっついてるのは女ばかりだ。奥さんにいい寄られる画家志望の青年は終始、迷惑げにしている。まるでしょうがなく押し切られたみたいだ。原作ではそのようなことはなかった。映画で印象に残るのは女中と画家志望の、残酷な共犯関係である。結末近くで明かされる紙芝居から判断するかぎり、画家志望のほうは奥さんと女中のあいだがらを、おそらくは女中自身が気づいていない彼女側の立場から見抜いている。映画では画家志望の側は、奥さんと自分とのあいだがらを見抜かれているのに気づいていて、しかし女中の罪悪感には気づかずにその共犯関係を残酷に理想化している。そういうイノセンスあるいは子どもっぽさが女中を苦しめる。女中は画家志望が信ずる共犯関係と、実際に彼女がやったことの落差に苦しむ。
原作小説ではこの画家志望の男は終始、他者として描かれる。共犯関係はない。女たちへの残酷さも様相が異なる。神格化のまなざしが残酷であることを知りつつあえて神格化した節がある。本人さえ気づいてもいないような女中の奥さんへの気持を知りつつあのようなことをやった。そもそも彼は男の臭いをさせている。それは寝取られ旦那からはしなかった体臭だ。女中はその臭いを生理的に嫌悪している。奥さんを神格化するのとは正反対だ。寝取られ旦那はいるのかいないのかわからん人間として描かれる。彼が何を考えていたのかはさっぱりわからない。映画版では妻の不倫を自分の利益のためにけしかけているのか、それとも子どもすぎて本当に気づかないのか、どちらかに見える。原作小説ではそれすらわからない。確かに臭いがしないのだ。獣じみた性的なことがらにまったく興味を示さない。単にそれだけの理由で結果的に不倫をけしかけることになり、しかもその事実となりゆきにまるで関心がないかに見える。
映画版では語り手の残酷さを持ち合わせているのは女中の側に見えるけれど、原作小説ではなんと画家志望の青年のほうだ。表面上の語り手が女中から現代の青年へと引き継がれ、画家志望の男は他者として扱われるにもかかわらず、作品世界を残酷に見下ろす語り手は、直接には内面が描かれない彼のほうなんである。あの紙芝居によって間接的にすべてを語るのだ。彼だけが知っていた。彼だけがこの物語の全容を見渡していたのだ(そしてそこからは寝取られ亭主は疎外されていた。つくづく部外者である)。恋愛から疎外された人間だけにわかる恐ろしさというものがあって、その辺と、創作における悪魔的な側面とがあの紙芝居には凝縮されているかに思える。映画ではその絵は男の側から、女を無邪気に神格化するものだった。原作小説は獣の臭いをさせる男とか、恋愛とかいったものの悪魔的な側面を描いていた。結論をいえば原作の圧勝だね。映画版は演出こそ巧みだけれども浅薄だ。