杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第25回: The Lemon Song

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.28

 幸福とはただなかにあるときには日々の暮らしに懸命で気づかず、喪って初めて、ああ、あの時期がそうだったかもしれぬと思い至るものだ。
 この頃の美樹は新サービス開始に向けた追い込みと普段の業務、それに長編の執筆を同時にこなしていたことになる。特殊な視線を向ける明日香を別にすれば、美樹以外のだれも柳沢美彌子とは口を利かず目も合わせなかった。あたかも疫病神の存在を無視すれば水面下で進む崩壊がなかったことになるかのように。彼女のほうでも住民を無視していた。変わり者の元夫がなぜか好き好んで住んでいる掃き溜めくらいに見なしているらしかった。
 ウェブ制作にせよ小説にせよ突き詰めれば美樹のビジネスである。やるにせよやめるにせよ彼の決断にはだれも口を出せない。彼こそがこの小さな運命共同体の意思であり、彼抜きでアパートは成り立たなかった。その彼は奇妙なほど穏やかだった。マシューとヤンパチの話では業務も普段通りにこなしていた。あいつも大人になったんだろ、前とは違うんだよとヤンパチは論評した。マシューはその説に疑わしげな顔をした。
 明日香にしてみれば彼らが離散しようが転職の時期が早まるだけの違いである。それよりも執筆中の長編が大いに気になった。どうにかして盗み読むことができまいかと考えた。彼の居室に公然と足を踏み入れる口実が必要だった。掃除を申し出ることを思いついた。業務量は増えるが新作が読めるのなら安いものだ。
 魂胆が見抜かれてはたまらない。外堀から埋めようと考えた。
 洗濯のときと同様にマシューはぜひ頼むよと快く応じた。整理整頓が苦手で、これまでは「友人たち」が片づけてくれていたのだという。バスローブを羽織っただけの見知らぬ女をアパートで目撃しなくなったのは明日香も気づいていた。キャットファイト事件から噂が広まり、だれも寄りつかなくなったらしい。あきらの教育や岬が出入りすることを思えばこれはよい変化だった。
 ヤンパチは抵抗するかと思いきや意外にもあっさり受け入れた。『ぼっちの帝国』の追い込みで忙しく、部屋の掃除にまで手がまわらぬという。助かるとまでいわれた。
 彼の話によれば光丘たえの引退から明日香の着任まで、共用部は住民が分担して掃除していたらしい。当初はたかが掃除、とだれもが思ったが広い建物だけあって本業が逼迫するに至った。掃除をすれば仕事がきつくなり仕事を優先すれば建物が荒廃した。栄養事情も悪化し、光丘たえがいかに有能であったか男たちは改めて思い知らされた。人手が足りぬという結論に至って求人を出したのだという。
 明日香が来てくれて初めて、ウェブ制作の助手ではなく光丘たえの代わりを探すべきだったと男たちは気づいた。あとで考えればおかしなことにその発想はだれにもなかった。
 むくつけき独身中年男たちが「散らかっている」と自負するのだからさぞかしと思いきや、どちらも明日香の知る大抵の女たちの部屋より片づいていた。よく見れば隅にうっすら埃が積もる程度である。そもそも散らかりようがなかった。本は書庫に、衣類や靴は納戸にしまわれ、CDやブルーレイは広間のタワー型の棚に飾られていた。自室にそれらを保管する理由がなかった。家具は仕事机とベッドくらいでテレビさえない。マシューの部屋に小型冷蔵庫があり、ゴミ箱にスナック菓子の袋が棄てられていたくらいだった。
 したがって掃除といってもたいしてやることはなく、埃を払って窓や床を拭いたらあとはリネン類を替えるくらいだった。いまの自分ならこのくらいの業務量は増えてもやっていけると明日香は考えた。
 神崎陸は言葉を発しないので是とも非ともわからなかった。洗濯のサービスもまだ利用してもらっていなかった。そこで通訳代わりにマシューとヤンパチに立ち会ってもらい、彼の扉を叩いた。反応がなければ諦めろとふたりにはいわれていたが、はたして扉はひらいた。明日香は掃除と洗濯の話を切り出した。陸は彼女を通すべく戸口から退いた。マシューとヤンパチは明日香の背後でびっくりした顔を見合わせた。普段の陸は人間的な意思疎通がおよそ成立せぬ人物なのである。
 一歩踏み入るなり明日香は混乱させられた。汚かったからではない。完璧に清潔で掃除の余地などなかったからだ。寝具のカバー類は純白で、糊が利いてアイロンがかけられ、硬い紙を折ったかのようにぴしっとしていた。窓に埃はなくガラスにもくすみひとつなかった。床もまた顔が映るほど磨き上げられていた。生身の人間が寝起きしていながらかくまで清潔を保つとは理解を超えていた。身のまわりのことが何ひとつできない、とのヤンパチの人物評があてにならぬのを明日香は知った。
 あとで知ったのだがリネン類が新品のように見えたのは実際に新品だからだった。光丘たえがいなくなってから大量に購入して週ごとに使い棄てていたのである。服にしても汚れて着られなくなるまで毎日同じものを着ていた。初めて対面したときに清潔な服を着ていたのはおろしたてだったからだ。このときにはすでにシャツの襟元や袖口はいささか黄ばんでいたし、スラックスにも皺がついて折り目が消えかけていた。数日後には廃棄して新品に着替えるだろう。
 身のまわりのことができぬのではない。流儀が独特すぎるのだと明日香は知ることになる。それはそれである種の潔癖さが感じられた。しかしそんなことは些末な問題だった。より理解しがたい代物が部屋の中央に鎮座していた。トレーニング器具と丸めたマットレスの合いの子めいた奇怪な装置である。
 これだけは控えめにいっても清潔とは遠かった。地下のランドリー室にあるようなトレーニング器具を改造したとおぼしき部分は、錆による腐食が進んでいたし、マットレスは汗や垢が染みこんで黒ずみ、異臭を放っていた。複雑な歯車やクランクや油圧装置、それにエンジンのように見えるものがマットレスを取り巻いていた。先端には密閉型のヘッドフォンが取りつけられていた。怪物の尾のような太いケーブルが床を伝って壁のソケットに接続されていた。
 マットレスの状態を見るに人間が中に入って用いるものに思われた。中世の拷問器具を明日香は連想した。
 陸の部屋に通されるのはマシューとヤンパチにとっても稀であるらしい。「前に来たときより片づいてんな」「掃除、要らないんじゃない?」などと会話しながら周囲を見まわしていた。異様な存在感を放つ装置にはふたりとも目もくれない。まるでそんなものなどそこに存在しないかのように。あるいは日常にごくありふれた代物であって、気に留める価値などないかのように。
「ねえこれ何?」明日香は好奇心を抑えきれなかった。
「あっ触っちゃだめ」
 マシューが叫んだが遅かった。明日香の指先がスイッチのようなものに触れた。エンジンが咆哮して筐体が震え、歯車やクランクが高速で躍動をはじめた。ヘッドフォンからレイ・チャールズの「旅立てジャック」が大音量で流れた。筒状のマットレス部分が脈打つように狭まったり広がったりした。
 騒霊現象の正体はこれだったのだ。
 明日香は装置を止めようとしてボタンやダイヤルをでたらめに弄った。歯車やクランクやピストンはその仕打ちに怒り狂ったかのように暴れた。筐体が激しくガタつき、振動で緩んだボルトがぽん、と弾け飛んだ。騒音は耳を聾するばかりとなり部屋がきな臭くなった。「旅立てジャック」は早まわしの歪んだ音で再生された。エンジン内部からネジか何か小さな部品が落ちて掻き回されるかのような異音がした。
 神崎陸は明日香を制止するでもなく無言でただ眺めていた。何を考えているやら計り知れない。
 ヤンパチが壁のソケットに飛びつき、プラグを抜いて装置の暴走を止めた。騒音がやんだ。急に静かになったので耳鳴りがした。
 騒ぎを聞きつけて美樹が戸口に現れた。彼はヤンパチから経緯を聞かされて神崎陸に無事かと尋ねた。陸は相変わらず視線こそ合わせなかったが驚くべきことに肯いた。美樹は明日香を難じるように鋭く一瞥して去った。明日香は彼に掃除のことを話すつもりで呼び止めようとした。ヤンパチが彼女の肩に手を置き、無言で首を振った。いまはやめとけ。
 美樹とのあいだに積み重ねた信頼が一度に損なわれた気がした。他人の私物に不用意に触れた自分も確かに悪い。でもあの態度はないんじゃないのと明日香は内心で憤った。そのとき割烹着のポケットで通知が鳴った。携帯を確かめる。キヨタカ先輩からメッセージが着信していた。気分がよくなった。
 新作にありつけぬとなれば次にやることは周辺情報の蒐集である。図書館で当時の雑誌インタビューや対談記事を読み漁った。ださいシャツを着た若き日の美樹の写真に失笑した。それらの記事で美樹が影響を受けたと語った本に明日香は関心を抱いた。図書館へ通わずともアパートの書庫にあることがわかった。彼の蔵書なのだから当然だ。
 愉しめる本もそうでない本もあった。理解できぬ本があると悔しかった。解説書に手を出した。似ているとされる作家を集中的に読んだ。再挑戦すると今度は読めた。愉しめそうな本を書庫で探すようになった。やがて美樹の蔵書だけでは飽き足りなくなった。作家の影響関係をたどって自力でおもしろい本を見つけ出せるようになった。
 気がつけば彼女はいっぱしの読書家になっていた。
 夕食を終えてヤンパチと陸が自室に引き上げ、あきらとマシューが岬を家まで見送るため出て行った。美樹はげんなりした顔でタッパーの料理を長時間つついていた。あたかもそうするのが義務だとでもいうかのように。彼は急に箸を置いた。立ち上がってキッチンの物入れから畳んで保管してあったレジ袋をとりだし、口を広げてタッパーの中身を空けた。思わず明日香はああっと叫んだ。日本人の美徳は喪われたか。美樹はレジ袋を縛ってゴミ箱に棄てた。
「美彌子の料理は旨いが、喰うとなぜか苦しくなる。みんなと同じものを食べたい。すまないがあしたからおれの分も用意してくれないか」
「美彌子さんの作り置きはどうするの」
「断ってもあいつは聞き入れない。食べ物を粗末にしたくはないが健康には替えられない。みんなの部屋を掃除するつもりなのか」
 急な話題の転換には戸惑わされたが、美樹のほうから切り出してくれたのは助かった。あなたの部屋にも入らせてと喉の奥まで出かかった。できればあなたの不在時に。
「陸の『全自動締めつけ機』は操作が難しい。危険だから触るな」
 心配してもらえたのかと思ったが逆だった。不具合が生じれば使用者に害が及ぶと美樹は語った。
「全自動……?」
「あいつの発明品だ。あれで全身を締めつけられるとストレスが軽減するらしい」
「意味がわからない」
「わかる必要はない。そういう人間もいるというだけの話だ」
 コールセンター時代の明日香なら即座に「キモい」と断罪していたろう。何をしでかすかわからぬ人物と見なして畏れさえしたかもしれない。このアパートに来てからは奇人変人ばかりに慣らされ、感覚が麻痺していた。ふうん、めんどくさいなと特に関心もなく思っただけだった。
 割烹着のポケットで通知が鳴った。携帯を眺めて返事を思案していると美樹に「何かいいことがあったのか」と問われた。うん、まぁねと明日香は答えた。恋する乙女心などこの男には理解できまい。
 少し前からキヨタカ先輩に遊園地や水族館へたびたび誘われていた。その頃には既読無視などと誹られずに返答する術を身につけていたし、業務に慣れて余暇の時間をとれるようにもなっていた。週末ごとに順調にデートを重ねた。アパートとは異なる世界に生きている事実に優越感をおぼえた。
 タマミと訪れたカフェは流行のデートスポットであるらしかった。値段ほどの価値があるとは思えない一杯六百八十円のコーヒーを啜りながら、明日香は前回訪れてからこれまでのあいだに、いかに多くの偉業を成し遂げたかを思い出してほくそ笑んだ。あの偏屈な田辺美樹でさえ攻略した。あの美しい柳沢美彌子の料理よりも自分のを選んでくれたのだ。にぎやかな食卓で美樹がコーヒーを飲む情景を、明日香は思い浮かべた。
 明日香はクスクスと笑った。その幸せそうな笑顔を先輩は都合よく勘違いし、楽しんでくれてよかった、と安堵したようにいった。明日香もあえて誤解を正さなかった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
ぼっちの帝国