崖っぷちマロの冒険

第9話: さらば苦き口づけ

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.12

後任者が来るまで、教頭が担任を務めたのは憶えている。同級生が訃報にどう反応したか。生活の変化にクラスがどう適応したか。そうしたことがまるで思い出せない。教団での暮らしも同じだ。身内と部外者とでは、死の意味が異なるはずなのに。破局へと繋がる綻びの始まりだったかもしれないのに。
 後藤杏とはやがて、つるんで遊ぶ仲になる。よく憶えていないが、あの数日間にも一度くらい顔を合わせていたはずだ。晴彦の姿はその前からあまり見なかった。警部とその部下の印象は、さらに薄い。ちょくちょく学校を訪れ、僕に愚痴をこぼした気もする。再会したのはずっと後、別の事件でのようにも思える。
 鮮明なのは奇妙にも、取るに足らない細部ばかりだ。曇り空から射す、弱い陽光。枯葉が舞う乾いた音。埃っぽい排気ガス、銀杏の臭い。十一歳の秋がいつまでも続くかのような錯覚……。
「マロ君」
 冬も近づいた放課後だった。風は冷たく頬を刺した。聞き憶えのある声に、校門で呼び止められた。足をとめて振り向いた。
 黒沼さんだった。ジーンズに黒セーター、踵の高いショートブーツ。フードの縁に灰色の毛皮のついた、深緑の軍用コート。黒いリュックを背負っていた。やはり黒のヘルメットを抱え、片手をポケットに突っ込んでいた。
「休館日でしたっけ」
「元気そうで良かった」
 黒沼さんは話をそらした。僕の脂っぽい頭に手を置き、髪をクシャクシャにした。美しい手が汚れるのが気になった。
「ごめんなさい。あの本——
「返さなくていいわ。古い本だし。最初からあげればよかった」
 僕は視線を気にした。下校する生徒らが、物珍しげに見ていた。
「乗って。立ち話もなんだから」
 大型バイクが路肩に停めてあった。黒沼さんはヘルメットを被り、ハンドルを握った。僕はその後ろに跨り、彼女の細い腰にしがみついた。甘い香り。集団暴行を受けた午後の記憶がよみがえった。
「鞄、邪魔? しっかり掴まってて」
 振動が腰を突き上げ、エンジンが低く吠えた。バイクは巧みに車列を縫った。
 公園の樹々は、色づいた葉をすっかり落としていた。黒沼さんは表通りに面さない側にバイクを停めた。エンジンの回転がやむと、往来の騒音が聞こえた。ブランコがわずかに揺れていた。風のせいか、それとも誰かが遊んでいたのか。いつもの仁美の側に、黒沼さんが座った。枯葉が乾いた音で転がった。
 黒沼さんはリュックから厚い茶封筒を出した。手渡された封筒と、彼女の顔とを見較べた。彼女は前方を見つめ、漕ぎはじめた。長い髪が風になびいた。
「預かってたの。あなたにって」
 ダブルクリップで綴じた原稿。見憶えがあった。膝に乗せて読みはじめた。手記は小説のような体裁がとられていた。そのことに僕は驚かなかった。こんな話だった。
 定時制高校の若い国語教師が、ある女子生徒と関わる。生徒は薬物依存で、自殺未遂を何度も繰り返していた。会社重役の父親は愛人のマンションに入り浸っていた。気まぐれに帰宅しては、妻子に暴力をふるう。母親はカルトにはまり、娘に信仰を強要した。娘は援助交際で得た金を、売人が流す薬につぎ込んでいた。
 教師は教え子を救おうと奔走する。依存治療の専門医や、心理療法師に協力を仰ぐ。売人や薬との関係を断ち切らせた。彼女は高校を中退し、家を出て風俗で働きだした。
 元生徒は教師を振り回した。携帯やメールで自殺をほのめかし、深夜や仕事中に呼び出す。経営者やヤクザ、不倫相手との揉め事を仲裁させる。
 教師との関係に支えられ、元生徒は一時、精神の均衡を取り戻すかに見えた。だが母親との関係を修復しようとしたのがあだとなる。人格改造セミナーに参加させられ、薬物を盛られる。
 何も告げぬまま失踪した教え子。教師は教団の関与を疑う。警察に訴えるが相手にされない。人権救済の市民組織も、被害者が風俗嬢とあって腰が重い。彼は入信希望者を装い、教団へ単身乗り込んだ。足腰も立たぬほど暴行され、放り出される。教え子の姿は見つけられなかった。
 自発的に入信したのだという母親の言葉を、彼は信じようとする。気持を断ち切ろうと、小学校教諭の採用試験をめざした。新しい職場にも慣れたある日、教え子の元同僚を名乗る女が現れる。当時教団に出入りしていたといい、真相を語る。
 教え子は薬漬けにされていたが、あるとき急に正気に返り、儀式を拒んで制裁を受けた。敷地内で頸を吊り、遺体は内密に処理されたという。教祖の妻も巻き添えになった。制裁を妨害したとのいいがかりをつけられたのだ。
 教師は衝撃から長いあいだ立ち直れなかった。担任した生徒の悩みを知ったのはそんなときだ。生徒の母親は教祖の愛人らしかった。因縁を感じた彼は、教団の調査を再開する。食品会社社長との関係が浮かび上がった。
 教祖と社長は高校の同級生だった。その会社には黒い噂があった。賞味期限を過ぎた商品や、ラベルの貼り替えが行われているという。内部告発文書とされるものが、ウェブで流布していた。
 生徒の父親は会社の買付人で、行方不明となっていた。真面目で責任感がある人物だが、何かの事情で紛争地へ飛ばされたとの噂があった。教祖はその妻に眼をつけていた。会社主催のパーティーで紹介されたのだ。社長は親友のためならどんな便宜でも図った。自身の利益にもなるなら、なおさらだ。
 教団の被害に遇った生徒は、他にも複数いるようだった。ある六年生がそうだった。イジメの現場を目撃し、相談を受けたのがきっかけで、教師はその事実を知る。
 その子の話はこうだ。玩具店の店長にバッグを確かめられた。なぜか身に憶えのないキーホルダーが出てくる。口止め料として裸の写真を撮られた。連鎖反応みたいに何もかもうまくいかなくなる。母親が教団に入信し、自分も抜けられなくなった……という。
 この店長は社長の中学の後輩だった。
 社長の娘が何者かに刺殺されたとき、教師はこの生徒の相談に乗っていた。他人に明かすわけにはいかず、疑いを招く要因となった。
 長い原稿を読み終え、僕は大きく息をついた。出来は今ひとつだった。未解決で放り出された問題が多すぎた。その謎が解けないまま、作者は死んでしまった。いいたいことが頭の中で渦巻いていた。呟いたのは別の言葉だった。
「知り合いって黒沼さんだったのか」
「そんな風にいってたの」彼女は寂しげに笑った。
 互いに口をきかずブランコを漕いだ。いつしか競争になっていた。黒沼さんは子供相手にムキになった。遊具は大人向けにできていなかった。僕の方が高く漕げた。鎖の軋み、往来の騒音、枯葉のざわめき。曇り空を見上げ、思いきり反動をつけた。
 写真の束を想い浮かべた。他の子の写真は惨めさが滲み出ていた。子供の絶望に昂奮できる男がこの世界には存在する。弱者の人生を台なしにする悦び。それが父上とその同類の栄養源だった。
 奪われた者に共通するそんな何かが、彼女の写真には欠落していた。
 一枚ずつ確かめる僕を、寄り添って見守る仁美。その体は写真と同じだった。撮られた時期の違いは見分けられなかった。
 成長期の子供が、長い時間を挟んだというのに。

 翌日の放課後。無意識にあの場所へ向かっていた。封鎖された焼却炉を過ぎた。フェンス沿いに体育館の裏へ回った。
 ひと月が経っていた。裸になった銀杏の前で、あの午後のお嬢を想った。話があるといい残し、血まみれで縛られていた彼女を。
 黄金色の堆積物は、用務員の長崎さんが掃き集め、ゴミ袋に詰めて収集に出していた。そこでひとりの人生が断ち切られたことなど、乾いた地面からは読み取れなかった。ごつごつした樹皮の黒っぽい染み。それだけが事件の痕跡を留めていた。
 手を伸ばし、そっと木肌を撫でた。お嬢の記憶は過去に埋もれつつあった。このまま忘れ去ってしまうのだろうか。大人になって社会に揉まれるうちに。かつてこの世に存在した気高い魂を……。
 背後に気配を感じ、振り返った。お嬢ではなかった。
「ここに居たのね」ダッフルコートを着た仁美が近づいてきた。表情は逆光で見えなかった。「捜したわ。坂崎さんに訊いたらもう帰ったって。お別れをいいに来たの」
「転校するの?」
 仁美は頷いた。濡れた眼が光った。乾いた風が甘く香った。「施設へ行くことになったの。市の外れの方。もう逢えないと思う」
「バスで遊びに来なよ。みんな歓迎する」
「他の人なんてどうだっていい。仁美はマロ君のことが……」
 彼女は僕に抱きついた。泣きじゃくる声が僕の肩でくぐもった。頬が冷たかった。僕は抱き返さなかった。体育倉庫の方を眺め、その声を聞いていた。河原の土手で短い会話を交わしたあの夕暮れから、こんなにも遠ざかってしまうなんて。
「君は洗脳されていた。おそらく三年前から」
 むせび泣きがやんだ。華奢な体がこわばった。
「教祖におもねるためなら何でもした。僕を監視し、周囲から憎まれるように仕向けた。図書館通いや、本の隠し場所を密告した。見抜かれる危険を冒し、店長に引き合わせまでした。被害者を装い、同情心につけ込もうとね。小道具の写真まで用意した」
「何をいってるの」仁美は身を引き離し、後ずさった。怯えた眼で僕を見つめた。急に理解できない存在になったかのように。「仁美、そういう冗談嫌い。怖いこといわないで……」語尾が慄えていた。
「信者は孤立するほど依存心が強まる。だから親父は愛子さんをそそのかした。一杯やって車を飛ばすのが、憂さ晴らしには一番だとね。風邪をひいて休んだといったね。周到ないいわけだよ。彼女は君が学校へ行ってるものと思い、化粧品や着替えを探した。その隙に君は、チャイルドシートに細工した。偶然に頼りすぎだが、事故が起きなくても不都合はない。母親もそんな風に殺した」
 仁美はぎこちない笑みで、哀願するようにいった。「まさか本気じゃないでしょ……」
 誰かが僕の口を通じて勝手に喋っていた。熱に浮かされたようだった。「細かい部分は怪しい。証拠もない。真偽は君の方が詳しいはずだ。愛子さんはどこかで感づいたんだろう。邪魔な存在になった。君は彼女をロッカーの角へ突き飛ばした。罪を被ってもらえるのはわかってた。父親は死体の発見を遅らせ、君を逃がそうとした。わざとだなんて夢にも思わず」
 仁美は泣き腫らした眼で、信じられないように僕を凝視した。何かいおうとしてやめ、唇を噛んで視線をそらす。拳をきつく握り締めた。華奢な肩が慄えた。
「許せなかったの。優しかったママが、仁美とパパを棄てて……あんな汚い言葉で罵るなんて。思わず『やめて』って飛びついた。そしたら足を滑らして……あの鈍い音……パパはママの名前を呼んで抱き起こした。そしたらママの頭……ああ、まさかあんなことになるなんて!」
 呟く声は次第に悲鳴のようになった。溢れた涙が頬を伝い落ちた。
「『これはパパがやったんだ。お前は帰りなさい』って。でもママはもう……」
「そうさ。戻っちゃこない。お嬢もだ。それがわからなかったとでも?」
 仁美の嗚咽が凍った。その一瞬を僕は見逃さなかった。
「親父はあの店長から、女の子たちの個人情報を譲り受けてた。君を斡旋した見返りにね。それを信者獲得に利用してた。お嬢の父親が、同じ性癖の持ち主だった。三者は子供を喰い物にすることで繋がってた」
「生きてくためよ。口座にお金が残ってるなんて嘘。ママが置いてく生活費じゃ、全然足りなかった。教祖様は助けてくれた。あなたに何がわかるのよ!」
「君に治療が必要だってことさ。父親が君のパパを陥れたことで、お嬢は悩んでた。僕の親父との関わりも察してた。話ってそのことだったんだ。お嬢は勘が鋭かった。それとも偶然見ちゃったのかも。例の小道具を。彼女の眼つきから君は悟った。秘密を見抜かれたとね。僕の小刀を使ったのは、疑惑を煽るためだ」
「仁美のこと、ずっとそんな風に思ってたのね……」
 彼女は醜く顔を歪め、自嘲するようにいった。人を魅了する輝きは失せていた。それまでどうして美少女に見えていたのか、わからなかった。
「お嬢は最後の力を振り絞り、中指で瞳を指した。犯人を僕に教えようとしたんだ。中山仁美、君の仕業だとね。美人の優等生の、卑猥な身振り。傑作だと君は思った。敢えてその恰好で樹に縛りつけた。自分への侮辱をそのまま返すつもりで」
 ひと月も経ったそのときになって実感した。お嬢は本当に手の届かない世界へ行ってしまったのだ。何かが胸の奥から、強烈な痛みを伴ってこみ上げてきた。
「くそっ……莫迦にされてると思ってた。でも最後の最後には信じてくれたんだ。僕が暗号を読み解くって!」
 仁美の声は狂ったようにうわずった。「殺人犯だっていい触らすの? それとも——
「警察へ突き出すかって? まさか」僕の笑い声も乾いていた。涙は眼底を灼き、ひとりでに溢れた。「僕はあの父親をどうにもできない。虚栄の毒で倒れるのを待つくらいさ。まして他人なんか、どうしようもない」
「何それ。わけわかんない」
「君は親父とは違う。まだ矯正の見込みはある。自首するんだ」
 仁美は声もなく涙を流し、いやいやをして後ずさった。制裁に遇った僕を、ただひとり心配してくれた子。誰もが疑いの眼を向けるなか、信じるといってくれた子。その彼女があからさまに怯えていた。僕の魂に今度こそ、醜い闇を見いだしたかのように。
 すべてを撤回し、謝りたい衝動に駆られた。この子に罪はない。僕なのだ。善良な人々が喰い物にされるのを許したのは。善行もすれば過ちも犯す、慎ましい人々。父上は彼らの心の隙につけ込み、罪悪を地上へ広めた。それをただ眺めてたのは僕なのだ。
 奇声が秋の空気を裂いた。
 倉庫の陰から何かが飛び出してきた。父上が罰しに現れたかと錯覚した。仁美は驚き、身をひるがえした。その胸を晴彦は、腰だめに構えた小刀でひと突きした。慰み物にされるカナヘビ——あの場面の再現であるかのように感じた。
 仁美は濡れた眼を剥いた。喉の奥が詰まるような音を立てた。そして説明を求めるかのように僕を見た。
 晴彦が両手を離した。仁美は小刀を両手で押さえ、力が抜けたように膝をついた。そのまま前のめりに倒れた。乾いた土に血溜まりが広がった。晴彦は仁美に取りすがって泣いた。
 僕は夢遊病者みたいに裏門を出た。
 足はあのマンションへ向かっていた。黒沼さんはその日も休んでいて、何も訊かずに迎え入れてくれた。ゴミ袋やコンビニ弁当の空き容器で部屋は汚れていた。彼女は腕の傷が増えていた。今度はシャワーさえ浴びなかった。わずか数分で異変が起きた。シーツの間で身じろぎもせず、互いに見つめ合った。
「今度からちゃんと着けないとね」と彼女はいった。
 季節の終わりを意識した。
 今度があればね、と僕は思った。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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