大傑作。 人間を描くのはささやかで地道な積み重ねだって思い知らされましたね。 男女の会話で主導権を握るほうが右側に位置するとか、 人物の服装が変わる場面には意味があるとか、 そういう映画特有の言語というか作法というか、 記号的なお約束があるじゃないですか。 その転換がいくつか重ねられて、 やがて大きな転換でそれまでの意味が変わる、 というのがどの傑作にも共通する作法ですけど、 そのツイストがものすごく際どい。 ひやっとさせられるんです。 そこの処理がなんとも大人。 こんなやり方があるのかと唸らされました。
ネタバレになっちゃうかもしれませんけど、 まぁ設定からだいたい推測できるはずなんで大丈夫でしょう、 書いちゃいます、 男女には厄介な問題があって、 人生だれだって子どものように泣きたいときってあるじゃないですか。 ホットミルクやクッキーを手に、 庇護してくれる年長者に慰められながら暖かいベッドで眠りたい夜が。 その意味合いを読み違えることって、 男の側にも女の側にもあると思うんです。 あるいは読み違えたいと願う弱気な瞬間が。 その弱みを適切に扱えるかどうかは、 理性よりも経験でしか得られないスキルのような気がします。
この映画ではアン・ハサウェイが二度失恋するんです。 強がりのように自明のいいわけをするのを聞かされて、 観客は、 あっ、 そういうことだったんだと気づかされます。 大人だから野暮なことはいわない。 ひやっとする瞬間がふたりのあいだに流れたことなど、 なかったことにする。 互いにわかっていながら⋯⋯。 世代も性別も異なるふたりの、 大切なひとを失うそれぞれの孤独が、 クラシックなミュージカル映画に重ねられます。
つまるところ観客に悟らせる決め手は、 ほんとにささやかな描写の積み重ねなんですね。 アクロバティックな演出を成立させるのは結局そういう地道なやり方なんです。 アン・ハサウェイとその娘がそっくりだという描写、 ロバート・デ・ニーロの、 友人にいい寄られて困惑する様、 子どもや若者たちへの接し方、 これまでの人生のエピソード、 そして意中の女性との接し方。 そういう積み重ねがあるから、 くどくどと説明されなくても観客にはわかる。 察して、 野暮なことはいわないよって気分になる。 これは擬似的な父と娘の映画です。 読み違えないことに成功した男女の物語なんです。