崖っぷちマロの冒険

連載第5回: 探偵は二度呼び鈴を鳴らす

アバター画像杜 昌彦, 2022年08月12日

ここにあったの」
 クロゼットのハンガーには、高価そうなお洒落着が並んでいた。算数セットの上に靴箱が積まれていた。さらにブーツが二足。画用紙の筒には、平仮名の名前が鉛筆で記されていた。
 級友らの脅迫が脳裏をかすめた。熱心に調べるふりをした。ほのかに香水の匂う服。多くは学校で見た憶えがなかった。箱の中も確かめた。真新しい靴。蓋をして戻した。
「いつ買ってもらったの」
「憶えてない」
「小さくなった服はどうした」
 仁美はきょとんとした。大きな眼をしばたたく。
「一着、一万はするだろ。親が置いてく金だけで?」
「いつも余るから……」
 父親と弟の血が化けたというわけか、と僕は思った。
 仁美は僕の手をとり、覗き込むように見つめてきた。「手がかりは見つかった?」
「なくしたときのことを教えてくれ。なるべく詳しく」
 僕はそっと手をほどいた。仁美はかすかに息を呑み、自分の手を見下ろした。睫毛を慄わせ、呟くように話した。
「もう全部話したと思う。一度も見てないの。奥にしまったきり」
「どうしてたの? 服を選ぶときとか」
「見ないようにしてた。掃除のときも。服ってすぐ着れなくなるでしょ。何度か思い切って片づけたの」
「そのとき間違って棄てたとか」
「それも考えたけど……」
「だよな」
「ずっと放ったらかし。あの子は何も悪くないのに。もっと気にかけてあげてれば……」仁美は顔を背け、指先で涙を拭った。こっちが泣きたかった。
 この家を訪れてから十分と経っていなかった。六人組に連行されてきたのだ。晴彦は遠くから僕の姿を認めたようだったが、寄りつかなかった。危険を察したのだろう。
 赤い西洋瓦の屋根。ベージュの壁。板チョコのような質感のドア。シャッターの下りた車庫。小じんまりとした二階建て家屋は、デンマーク製のブロックを思わせた。伸び放題の雑草や、蜘蛛の巣にさえ気づかなければの話だが。芝生や花壇は、明らかに手入れが必要だった。
「この家に住んでるのかあ……どの窓が仁美ちゃんの部屋かな」芋の長介が、切なげな溜息をついた。
「おお愛しい人。どうしてそんなに可愛いのぉ」とユーチャン。笑窪のある両手を、二階の窓へ差し伸べた。ハムレットは実際には肥っていたという。僕には信じられなかった。
「あたしたち何度も遊びに来たもんねっ」
「ねーっ」
 淑子と文江が頭を傾げあった。
 植田女史に肩を押された。僕は門柱の呼鈴を押した。遠くで涼しげな音が聞こえた。答えはなかった。みんなの顔色をうかがった。六人は険しい顔で頭を振った。再びボタンを押そうとした。
 インターフォンが「はい」といった。仁美だ。
「マロだよ。今朝はごめん。手始めにクロゼットを見せてほしい」
 接続が切られ、鍵が外された。ドアがわずかに開いた。仁美が隙間から窺っていた。中は暗く、表情まではわからなかった。
「何グズグズしてんだ」
「早く行きなさいよ」
 小声で口々に追い立てられた。学級委員が錬鉄の門扉をあけた。誰かに背中を突き飛ばされた。コンクリートの小径へよろめき出て、ドアの前で止まった。泣き腫らした眼と視線が合った。仁美は唇を噛んで足許を見つめた。
「入って」
 抑揚に欠けた声が聞きとれた。仁美は階段へ消えた。僕はみんなの顔色をうかがった。
「明日報告しろ」
 タカケンはそういい棄て、踵を返した。長介と文江が、不信の眼で振り返りつつ続いた。学級委員は去り際、几帳面に門を締めた。植田次子は脅しの言葉を残した。
「二人きりだからって妙な真似すんなよ」
 玄関は空気が澱んでいた。つくり自体は、採光も風通しも悪くないように思える。薄暗いのは天気のせいだろう。敷物とスリッパはいかにも雑貨屋で扱ってそうだ。靴棚の上にはレース編みと花瓶。ドライフラワーはうっすら埃が積もっていた。スリッパを借りた。
 フローリングの廊下は、隅に埃が転がっていた。階段や二階も同じだった。子供ひとりでは掃除が行き届かないのだろう。わずかに開いた扉の前にスリッパがあった。室内は見えない。
 女子の部屋に入るのは初めてだ。落ちつかぬ理由がもうひとつあった。なぜか記憶がよぎったのだ。埃の踊る高窓からの光。静かに揺れる裸足の爪先……。
 教団の敷地には蔵があった。挺身員のひとりが入っていく。何かが気になって後をつけた。重い扉を開けると彼女は、梁にかけた縄で頸を吊っていた。軋む縄、揺れる脚。弛緩した身体から汚物がしたたり、顔は醜く膨らんでいた。
 母の死と同じ頃の話だ。それ以来、誰かの後ろ姿を見るたびに不安に駆られるようになった。
 ノブに手をかけ、踏み込んだ。仁美はまるでそこが自分の部屋でないかのように不安げに佇んでいた。高さが調節できる学習机と椅子。その脇のラックにはプリンター、CRT一体型の赤いコンピューター。紅茶色の羽根布団のかかったベッド。マニキュアや乳液の並ぶ鏡台。襞とフリルのカーテン。
 少年アイドルのポスターも縫いぐるみもなかった。つくりつけの書棚は空白が目立った。教科書や参考書。外国の絵本。少女漫画とハリー・ポッターが数冊。浜崎あゆみのベスト盤が一枚。あとは子供向けファッション誌だった。
「今朝はごめん。自信がなかった。傷つけるつもりじゃ……」
「いいのよ」仁美はぎこちなく微笑し、フローリングの床を見つめた。スカートの前でより合わされる指。裾丈の短さに気づかされた。膝は一度も擦りむいたことがないように見えた。
「あの」
 ふたり同時に声を発した。
「お先にどうぞ」
「マロ君から」
「ジェレミー君を最後に見たのは?」
 仁美は顔を輝かせた。頬を染めてクロゼットをひらき、服をかき分けた。「ここにあったの」
 ……というわけだ。インチキ探偵が依頼人を泣かせたのはそういう経緯だった。回想終わり。
「で、さっき何いおうとしたの」本当は興味などない。座って休みたかった。
 仁美はまた涙を拭った。「仁美のことどう思う?」
「どうって」
「すかしてて厭な女とか……」
 似つかわしくない言葉に戸惑った。昔の不良みたいだ。「何いってんだよ。全校生徒のアイドルが」
 仁美は頭を振った。うつむいて指先で唇をいじる。「確かにみんな親切よ。でも……」
「不満はないだろ」
「本当の友達がいないの」かろうじて聞き取れた。
「植田は? 親友だろ」
「すごくいい子よ。色々心配してくれて」仁美はそこだけ顔を上げ、はっきりいった。それから語調が尻すぼみになった。「でもほんとの悩みはいえない。ひかれちゃう」
「まさか」
「女の友情は表面だけよ」
 そんなに簡単に切り棄てるのか。「ないよりマシ。羨ましいよ」
「いつも一緒の子は? 眼鏡の」
「晴彦ね。勝手に親友と思い込まれた」
「慕われてるのね」
「君ほどじゃない」
 愛らしい顔に、笑みが浮かんで消えた。仁美はまた視線を逸らした。「寺井さんは」
「気の毒だと思ったよ。なんで」
「綺麗なひとだった」
「ああ」思わず声に苛立ちが滲んだ。小熊のジェレミー君はどうなった?
「特別な関係だったのよね。ずっと見てればわかる」
「ただの友達だ。いや、だった」
 僕は相手の顔を見つめた。彼女は伏眼がちに顔を赤らめた。眼を剥いて舌を垂らし、シンバルを打ち合わせて小躍りすべきだったろうか。井上長介やユーチャンならそうしたろう。母があんな女でなければ、僕もそうしていたはずだ。
 仁美はベッドに腰を下ろした。窓の外を見つめて呟いた。「マロ君と仁美、どこか似てると思う」
「みんなが聞いたら驚く」
 仁美はこっちを見上げた。今度は屈託のない笑顔に見えた。「ね。友達いない同士、友達にならない?」
「もう友達だよ」
 いい終えぬうちに表で車の音がした。電動シャッターが唸り、エンジン音がやむ。玄関で物音。仁美の顔から笑みが消えた。声も平板になった。「ママよ」
 仁美の母親は慌ただしく出ていった。窓に近づいて見下ろした。赤いコンヴァーティブル。三十代前半の美人が、運転席に見えた。芸能人風のサングラス。胸元のあいた真紅のボディコン風スーツ。派手なアクセサリー。口許のホクロまでは見えなかった。
 確かに写真とは激変していた。実際にどこかで逢った気がした。赤ビキニの印象が強烈だったせいか。

 調査カウンターで黒沼さんに相談した。縫いぐるみの熊について知りたいが、何を読めばいいか。タッチパネルの蔵書検索より、彼女に訊くのが早くて確実だった。
 黒沼さんは端末の画面を見せてくれた。一覧が表示されていた。
『テディベアのすべて 縫いぐるみ図鑑』
『大好き! テディベア』
『くまのパディントン』
『親子でつくるテディベア(型紙つき)』……などなど。
 絵本と手芸本は除外。開架や書庫から、あとの数冊を捜してきてもらった。ざっと流し読みした。
『大好き!』は愛好家の随筆だった。『図鑑』の背には館内閲覧用のシールが貼られていた。奥付を確かめた。バブル時代の発行。内容は骨董的価値のあるものが中心。三年前の製品は載っていない。
「他館にはもう少しあるけど。取り寄せる?」
「結構です。ありがとう」
「ウェブのほうが詳しいかも。世界中に熱心なファンがいるから」
 世紀の変わり目。携帯電話やインターネットの普及から数年たっていた。教団には現代社会に適応できない人々が吸い寄せられた。そこでは外界との接触につながるようなものは忌避されていた。
「文明の利器とは縁遠い生活なんで」
「今時の小学生には珍しいわね」
 黒沼さんのセーターは、体の線を際立たせた。仁美が着てたのとよく似ていた。筆ペンで描いたような眉を、彼女は吊り上げた。前かけの左胸の名札をいじった。「傾いてる?」
「いつも黒い服すね。名字に愛着でも?」
「派手な色だと、利用者の迷惑でしょ。好きなの? 縫いぐるみ」
「捜しものを頼まれたんです。実物を知らないんで、写真だけでもと」
 黒沼さんはカウンターに両肘をついて身を乗り出した。はかりごとの相談のように声を低め、悪戯っぽい目つきでいった。「シュタイプの縫いぐるみなら、うちにもあるけど」
「最近のモデルなんです」
「見せたげてもいいわよ。遊びに来る?」
 僕は住所と指定された日を暗記した。メモをとる習慣はなかった。父にいつ持物検査されぬとも限らない。本でさえ鞄の底板に隠して持ち歩いていた。
 翌日から熊捜しに奔走した。
 校内も隈なく捜した。「教室にこっそり連れてったことがある」と仁美が主張したからだ。休み時間のたびに視線を集め、嘲笑された。「行ったかもしれない場所」は無数にあった。女子トイレ。屋上の入口。使われなくなった焼却炉。体育倉庫の裏。ごみバケツの中まで捜させられた。
 意味があるとは思えなかった。仁美の話は辻褄が合わず、しばしば二転三転した。新手のイジメのように感じた。
 放課後は自宅から教室までの道筋を、舐めるようにたどった。車や自転車に撥ねられそうになり、通行人にぶつかって罵声を浴びた。猫の往来する塀から、枯葉の詰まった側溝まで捜した。
 彼女の言葉を心から信用してはいなかった。にも関わらず、いわれるままに翻弄された。母の死を、お嬢の孤独に添えなかった後悔を埋め合わせたかった。
 中山家の書棚に隠し扉はなかった。学習机の抽斗を抜き出した。色とりどりの下着と格闘し、子供用ブラの存在を知った。借りたペンライトで、家具と壁のあいだの埃を照らした。枕を持ち上げ、羽毛布団をめくった。階段と廊下を這い進み、居間も捜した。
 台所は惨憺たる状況だった。流しの残骸に熊が潜んでいたとしても、僕は驚かなかったろう。調味料入れの中身がこぼれて散らばっていた。腐臭がした。
 捜すためには片づける必要があった。気づくと大掃除になっていた。捜索の失敗が明らかとなるにつれ、家は輝きをとり戻した。中山家の主婦は、堕落する前は凝り性だったようだ。清掃道具は充実していた。外国製の洗剤はよく落ちた。
 不要物を片端からゴミ袋に入れた。読まれなかった新聞の束を、ビニール紐で縛った。食器を洗って片づけた。期限切れや痛んだものを棄てた。床を掃いて拭いた。換気扇やコンロの五徳を湯煎した。レンジフードや流しを、顔が映るまでにした。薬剤を補充し、便器や浴槽を磨いた。空容器や錆びた剃刀を棄てた。タオルを交換した。目地や排水口と格闘した。臭う洗濯物に顔をしかめた。洗濯乾燥機を大活用した。
「マロ君すごーい」
 仁美に賞賛され、我に返った。僕はブラウスにアイロンをかけていた。当初の目的は忘れられていた。
 僕の探索は日常風景となり、誰も気に留めなくなった。昼休みに一階の便所前を捜していると、電柱みたいな影が近づいてきた。ブラジルは膨れあがった書類ばさみを抱えていた。こっちには便所と保健室しかない。何しに来たのだろうと不審に思った。
 一年生が追いかけっこしていた。担任の脚にぶつかった。紙束が宙を舞い、あたり一面にぶちまけられた。当て逃げ犯たちは書類を踏みつけて走り去った。
 小岩井先生が保健室から出てきて、拾い集めるのを手伝った。膝を擦りむいた女子が、心細げに作業を見つめた。医療的な処置は手伝いかねるので、回収作業のほうに加わった。
 文章がぎっしり印字されていた。一枚が眼に留まった。題名らしい。『詩人は歌うか死ぬしかない』
 ブラジルは這いつくばって原稿をかき集めていた。財布を落としたときでさえ、こんなうろたえぶりは見せなかった。日頃の威圧感は微塵もなかった。ほかの生徒には見せたくないと思った。

 信者の道着を洗うのも、同級生の下着を洗うのも僕には大差なかった。感覚が麻痺していたのだ。仁美にはどこかズボラな面があったようだ。あるいは何らかの計算もあったかもしれない。
 休み時間のたび、大勢が彼女を囲んだ。親身な忠告や、気遣いの言葉が口々に発せられた。
「大丈夫? 家でふたりきりなんて」
「危ないよ。何されるか」
「殺人犯かもしんないよ」
「いいの。ジェレミーを見つけるためだから!」仁美は健気にいいきり、僕の方を見た。みんなの視線を誘導するかのように。日増しに膨れ上がる憎しみを肌で感じた。
 ブラジルが原稿をぶちまけた日の放課後だった。廊下掃除に取りかかろうとすると、佐藤美佳が、はにかむような笑みで近づいてきた。ショートカット、淡い色のワンピースにカーディガン。踝丈の靴下。仁美よりずっと子供らしく、それがかえって残酷さを際立たせた。
「あとで体育館の裏に来て。大事な話があるの……」それだけいうと、鞄を弾ませて階段へ消えた。
 吐き気がした。周囲の囁きや、からかいの声が遠く渦巻いた。ただの偶然だ。悪意で似せたのではない。そもそもあの台詞は、ほかの誰にも聞かれなかったはずだ。そう自分にいい聞かせた。罠だとはわかったが、従わなければ制裁にあうのも見えていた。
 それから起きたことは、やはり繰り返しに過ぎなかった。お嬢のときと違うのは、標的が僕自身だったことだ。
 恋の告白にしては人数が多すぎた。彼らは武器を手に、銀杏の前で待ち受けていた。植田の姿はなかった。穏健派のユーチャンや長介もいない。踵を返して逃げようとしたが、阻まれた。
 遠藤茂太は、竹定規を撫でて笑った。眉は八の字で、口元は歪んでいた。多くの学級を崩壊へと導いた、喧嘩や万引きの常習犯だ。ブラジルが担任になってから、鳴りを潜めていた。鬱憤が溜まってるように見えた。
 格闘ゲームマニアの友部康之。風切り音を口から発し、拳を繰り出していた。通販で買ったナックルをはめ、カンフーの達人になりきっていた。顎が長かった。
 バットを支えに屈伸運動するのは須藤純一。カズシゲという綽名があった。
 牛島則夫は、妖怪「塗り壁」を思わせた。いわば植田の男版。手ぶらで充分だった。
 女性陣も侮れない。噂話に眼のない吉本塔子。興奮も露わに、箒を構えていた。屁っぴり腰だ。
 小島文江は跳縄を手にしていた。教団でしばしば眼にする種類の、残忍な笑みを浮かべていた。牛島と同じ量販店のスエットだ。本人は気づいていないらしい。黙っててやることにした。
 佐藤美佳は頬を赤らめ、モジモジした。テニスラケットを握っていた。照れてるのではない。笑いをこらえてるのだ。
「捜査はどうなってる。経過を報告してもらおうか」ぱしっ。ぱしっ。タカケンはバットで軽く掌を叩いていた。案外、指導力があるようだ。ただのお調子者ではなかった。見なおした。
「手は尽くしてる。もう少し待ってくれ」
「いつまで待たせるつもりだ。警告したろ」
「仁美ちゃんの気持、考えてみたことあんのか?」友部が叫んだ。いいがかりとはいえ胸を打たれた。人間的な思いやりからの行動なのだ。「ずっと待ってんだぞ。疑いもしないで。可哀相に……」
「ただなくしたとは思えない。盗まれたとしか……」
「碌に捜すつもりもないくせに。探偵ぶってんじゃないわよ!」吉本は勝ち誇るように叫んだ。
「中山さんと対等に口きくのが間違ってんのよ」小島の声は陰険だった。愉しんでるのがわかった。あるいはこの女が扇動したのかもしれない。
「デレデレしやがって。俺なんかなっ。眼が合ったことさえないんだぞ!」茂太は涙ぐんでいた。僕は顔にかかった唾を袖で拭った。
「俺こないだ『おはよう』っていわれたぜ」
 友部が得意げに胸を張った。カズシゲは負けじと宣言した。
「仁美ちゃんは僕と結婚するんだ」
 僕は早口に抗弁した。「犯人は仁美の偏執的なファンだと思う。犯行が可能だった人物を特定して——
「四の五の抜かすな。俺たちゃ結果が欲しいんだよ!」茂太は悲鳴みたいに叫び、僕の胸を突き飛ばした。
 文江は僕の背中から鞄を剥ぎとり、銀杏の向こうに放り投げた。中身がぶちまけられた。またも既視感に襲われた。
 タカケンをはじめ、男子たちの動機は明白だ。だがこの女はどうして僕に執着するのか。本当に仁美を慕ってるのかさえ怪しく思えた。遺体の冒涜に詳しかったのを、急に想い出した。
 まさかこいつが? 愉しみを得るためだけにやった。快感が忘れられず、僕を標的にして再現しようとした。特定されないように他人を巻き込んだ……。その考えがよぎったのは一瞬だった。タカケンの叫びが合図だった。輪は一気に狭まり、獲物を呑み込んだ。
「この殺人者め!」
 四方八方から飛んでくる手足。頭がラケットの網を突き破った。転がされ、足蹴にされた。跳縄で鞭打たれた。頭を抱えて背中を丸めた。バット二本はこたえた。竹定規は刀みたいに食い込んだ。
 まともな人間なら、骨が砕け内臓が破裂していた。教団での経験が役立ったのはこのとき限りだった。被害を最小限に留めるコツを、知らず知らず体得していたのだ。
 箒だけはまったく害がなかった。おそらく塔子は遊びの延長と捉えていたのだろう。怖くなったのか、最後には遠巻きに傍観していた。対照的に美佳は喜悦の表情だった。眼が潤み、頬が上気していた。
 襟首を掴まれ、引きずられた。放課後のクラブ活動のため、体育倉庫は錠前が外されていた。鉄の引き戸は立てつけが悪かった。黴臭い小屋に、僕は弾みをつけて放りこまれた。打ち放しの床へ体が叩きつけられた。石灰混じりの砂埃が舞い上がり、弱々しく噎せた。起き上がる力はなかった。無理に立たされた。
 跳箱にマットが立てかけられていた。それが広げられ、僕の視界を覆った。簀巻きにされたのだ。反射的に上を向き、窒息を免れた。マットごと突き飛ばされた。何かに受け止められた。引き戸が閉ざされ、錠前のかかる音がした。嘲り笑いと足音が遠ざかった。
 戻ってくる気配はなかった。黴臭いマットからもがき出た。眼が慣れてきた。戸の隙間から光が漏れていた。野球道具を突っ込んだ木箱。白線引き。運動場をならす鋤に似た道具……。運動会で転がす大玉に、マットは乗り上げていた。
 扉を試した。ビクともしない。体当たりをする元気はなかった。マットに腰をおろし、体力の恢復を待った。全身が痛んだ。痣はしばらく残るだろう。換気口に蜘蛛の巣がかかっていた。あの高さの覆いを外せたとしても、抜けられるのは痩せた鼠くらいだ。
 暗がりを物色した。ガラクタを詰めた段ボール箱があった。湯川みたいな奴が他にもいたのだ。空気の抜けたボールの下から、曲尺と石を発見した。戸の隙間に曲尺を挿し入れた。金具にひっかけ、石を叩きつけた。金具は数回で外れ、錠前が地面に落ちた。戸を開ける方がむしろ骨だった。
 石には絵の具で顔が描いてあった。低学年の子からのプレゼントだろう。教師が処分に困り、それきりになったのだ。誰とも知らぬそいつに感謝した。
 鞄の中身は、腐った実の上にぶちまけられていた。一部は側溝の泥に浸かっていた。かき集めるうち約束を想い出した。普段とは逆方向を目指した。
 すれちがう大人たちの反応は様々だった。ギョッとする。表情を変えずに遠ざかる。無遠慮に見つめる。体をすくめて避ける。信号待ちの車からも、視線が突き刺さった。気遣いの声をかける者はなかった。
 歩道橋を渡り、交差する道路で三角州になった公園を横ぎった。鳩の群れが誰かの撒いたスナック菓子をついばんでいた。僕の姿に驚いていっせいに飛び立った。かつて家具の専門店街だったという、予備校や専門学校の密集地を抜けた。煉瓦を模した外装のワンルームマンション。個人経営のカフェと自然食品店に挟まれていた。
 部屋番号を見つけて呼鈴を押した。インターフォンから返事があった。玄関ドアの自動錠があいた。エレヴェーターを降り、部屋の呼鈴を鳴らした。
 黒沼さんは文庫本を片手に出てきた。指をしおり代わりにしていた。黒いセル縁の眼鏡をかけていた。上は黒いスウェット、下はジャージ。カウンターで見る印象より背が高かった。裾から銀のペディキュアが覗いていた。マニキュアをしないのは職業上の理由だろう。リストバンドをしていない腕にはいくつもの疵痕があった。彼女は眼を丸くした。
「同級生たちに恨みを買いまして。熊の件で」
「まずお風呂ね」
 脱衣所へ強引に案内された。抵抗する間もなく上衣を奪われ、シャツも剥ぎ取られた。ジッパーが下ろされるに至り、彼女の手を押さえた。教団では何が起きても驚かないが、外でこんな目にあうとは思わなかった。暴行にあってから初めて、恐怖のようなものを感じた。
「何恥ずかしがってるの。子供の癖に」
 黒沼さんの手が躊躇なく下ろされた。下着を引き抜くついでに彼女は靴下まで奪った。それらはまとめて洗濯乾燥機へ放り込まれた。彼女は眼鏡を外し、裾をまくり上げて、僕を浴室へ追い立てた。自分でやれるとの主張は無視された。全身を泡だらけにされた。傷口に染みた。
 尻や背中の古い疵痕について、彼女は何もいわなかった。
「折角のお休みを邪魔してすいません。いつもはコンタクトですか」
 黒沼さんは僕の前に屈み込んでいた。手が止まっていた。僕は彼女の名を呼んだ。彼女は我に返ったように、シャワーで泡を流しはじめた。手つきがぎこちなかった。
「大丈夫ですか。熱でもあるんじゃ……」
「気のせいよ」
 清潔なタオルで体を拭いてもらった。洗面所の鏡にギョッとした。唇が切れ、片方の瞼が腫れあがっていた。痣と擦り傷だらけだった。眉の薄さと相まって、恐怖映画の怪物を思わせた。教団では外からわかる傷を負うことは滅多になかった。
 黒沼さんは眼鏡をかけ直し、書棚から薬箱を取り上げた。ベッドに座り、隣をぽんと叩いてみせた。おとなしく従った。木製の薬箱は、幾何学的に整理されていた。何かを取り出すごとに組み直す必要がありそうだった。彼女は脱脂綿をピンセットで挟み、消毒薬を含ませた。「染みるかも」
「平気ですよ」
 脱脂綿が触れるたび、痛みが走った。僕は話題になるものを捜した。無駄なもののない部屋だった。書棚は文字通り、本が隙間なく詰め込まれていた。液晶テレビを中心とした、簡素なAVシステム。映画や音楽のソフト。ベランダ側の窓には、灰色のカーテン。机には白熱球のスタンド、林檎のついた銀色の薄いノート型コンピュータと、同じ色のプリンター。
 出窓にはサボテンの鉢植とTレックス。尻尾にタグがあった。
「ごめんねー。熊じゃなくて」
 黒沼さんは治療に専念していた。僕は縫いぐるみを手にとった。タグは金色の鋲で尻尾に留めてあった。注意書きは独語のようだった。尻に穴があいていた。
 手にはめてみた。口を動かし、作り声で挨拶した。「やあ、美人のお姉さん」
「限定商品なの。一昨年のクリスマスの」
「熊もこうなってんですか」
「それは特別。シュタイプのマペットは珍しいの。恐竜映画のタイアップ」
 黒沼さんは脱脂綿をメッシュのごみ箱に棄てた。道具を片づけるついでにカーテンをひいた。体を寄せて座り直し、僕を握り締めた。何をされているのかわからなかった。
「鬱血してるわ。熱っぽい」
「そこは何ともないと……」
「いい方法知ってるけど、試してみる?」
「痛みにも効きますか」
「努力次第ね」
 指導はすぐに必要なくなった。やめてくれと懇願されるまで続けた。何が正しいか知らなかったからだ。
「普通はこうじゃないのよ」やっと口を利けるようになると、彼女はいった。
「体がまだできてないんですよ、きっと」
 小説で読むような充足感は得られなかった。手が届きそうで届かない。そんな焦燥感と疲労ばかりが残った。濡れたゴムを苦心して外した。いつかサイズの合うものを手に入れようと誓った。
 黒沼さんは猫が欠伸するようにいった。「喉が渇いたわ」
 台所の戸棚にはふたり分の食器があった。そういうものなんだろうか。封の切られた避妊具の箱を想い出した。冷蔵庫のスポーツ飲料を、グラスに注いで手渡した。「大量の水分を失いましたからね」
「ばか」彼女は気怠げに体を起こし、胸元に布団を引き寄せた。グラスをひと息に干す。
 痛みは確かに忘れた。書棚からディックの『戦争が終り、世界の終りが始まった』を抜き出した。黒沼さんの面白がるような視線に気づいた。下着に収まる大きさに戻っていた。顔が熱くなった。
「興味があるならそれ、貸したげる」
「すげえ。どうも」
「本を借りるほうが嬉しそうね」
 黒沼さんはカタログを印刷してくれていた。公式サイトに十年分があったという。ざっと眼を通した。説明に合致するモデルはなかった。仁美に訊き直すことにした。
 銀縁の丸い壁時計は、五時を過ぎていた。鞄と中身をティッシュで拭った。小さく畳んだ紙束と本は、底板に隠した。黒沼さんは服を繕ってくれた。温もりの残る服に袖を通すと、いい匂いがした。
 三十分の遅刻。それよりも負傷のほうが不安だった。どんな事態を招くか知れたものではない。
 父上は手かざしの儀を執り行っていた。一回四十九万円也。伏し拝みながら、僕は身を硬くした。拍子抜けしたことに、冷やかに一瞥されただけだった。後で起きたことを思えば、このときわが父上の心中には、暗い策略が芽生えていたに違いない。
 食事を済ませ、道場の末席に加わった。手かざしを待つ列には、あの親子の姿もあった。古い血みたいに不幸がこびりついていた。ブランド服が喪服みたいに見えた。似たような母娘が何組も見受けられた。母親らはすがるように教祖を伏し拝み、娘にも同じことを強要した。
 少女たちの顔は見ないようにしていた。いつか執務室へ呼び出されるのを僕は知っていた。母親たちには前世の祟りや気の滞りしか見えない。娘から事実を知されても態度は変わらなかったろう。邪悪な妄想と決めつけるか、逆に有り難がるか。父親たちがどこで何をしているのか、僕には知りようがなかった。
 父上は老婆の頭上に、節くれだった手をかざしていた。眉間に皺を寄せて即興の呪文を呟く。老婆は勿体なやと感涙し、板の間に額をすりつけた。溜め込まれた金はこうして社会へ還元される。巫女が教祖の額を拭うふりをして、濡れタオルを押しつけていた。しずくが信者には汗に見えるのだ。
 僕は彼女から視線が離せなかった。
 その頃の僕は、外と内とで気持ちを切り替えていた。教団での日常を社会生活から完全に切り離して考えていた。それですぐには思い当たらなかったのだ。白い肌に映える赤い袴と、同色の口紅。口許のホクロ。砂浜の印象が鮮明によみがえった。
 かつてはフリルや襞飾りやエプロンが似合ったこともある女。二階から見たときはサングラスをかけ、外国車のハンドルを握っていた女。
 仁美の母親、愛子だった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。