「ルージン・ディフェンス」はすごい小説だった。さながらどの駒のどんなふるまいにも盤上の意味があるように、登場人物はほんの端役さえ活き活きと描写される。令嬢の母親だけが物事を的確に見定めてふたりの行く末を案じるが、その夫はといえば娘の身勝手に呑気に流されるだけ。主人公の病的な不器用(発達性協調運動障害)や強迫傾向、社会的な無頓着、妻に対してさえ杓子定規に敬語を用いる異様さ、それに何もかもがチェス盤に見えてくる過集中の描写は臨床的に正確だ(余談だが、満州から引き上げて家族を筆一本で養っていたちばてつやは母親の言葉に救われるまで何もかもが漫画のコマに見えたそうで、まったく関係のないその逸話を連想した)。しかし彼は小説的に理想化された存在であって傲慢さや虫のいい自己愛はもたない。ただ純粋な子どものように不器用で、都合のいいことにサヴァンによって得られた金(それほど多くはないようだが)と社会的地位まで備えている。金持の令嬢が風変わりな玩具を気まぐれで手に入れるようにして結婚したのはその「流儀」を支配可能なものと見なしたからだ。それでいながら、あるいはだからこそ彼女は彼が彼であるゆえんを見ずに一過性の病のように軽んじ、健常者としての体裁を彼に要求した。方や人間に満たないものとして利用しつつまた一方では人並みの社会性を要求した。トーナメントが終われば夫がまともになるだろうと高をくくる彼女は、いずれは飽きた玩具を放り出していたろうが、しかしあるいは逆に、それ見たことかと指をさされ陰口をきかれるのが我慢ならず、虚勢を張って失敗を認められずにいるうちに夫婦共々もっとひどい地獄へ至っていたかもしれない。そう考えると利用されるばかりでだれにも愛されなかった主人公は、独自の「流儀」で妻を愛していたのだろう。詰んだゲームを自らの意思で降りることで、幸福の幻影が醜く歪むのを見ずに済んだのだ。あたたかい作品と著者自らが呼んだのが理解できるような気がした。人生の伏線や構成をチェスに喩えるやり方は、わざわざ解説されなくてもと思ったけれど、自分の性質を主人公に投影していると著者が認めたのは驚きだった。普通はそこをいちばんに否定するだろうに。
一方「密偵」にはそれほど感心させられなかった。うまい小説だとは思ったし鏡像がひとつに溶け合う描写は『淡い焰』の原型のようで感慨深かったし、乖離性障害が知られていないはずの時代にこのような小説が書かれた事実は、著者がルージンに気質を投影したと認めたことを思い起こさせたし、ハメットが同じく1930年に『マルタの鷹』でまさしく乖離性遁走を扱っていて(オースターや佐藤正午がよくネタにするフリッツクラフトの挿話)、興味深い一致を感じたりもした。しかしおそらくこの作品を踏まえて書かれたであろうディック『スキャナー・ダークリー』や『ヴァリス』のほうがこのアイディアを、魂をえぐるような必然性をもって執拗に突き詰めて描いており、あれだけエモーショナルな傑作を先に読んでしまうと物足りないというか、だからなんだという気がしてしまうのは否めない。ナボコフ自身が述懐するように当時の亡命ロシア人社会を知らなければ空気や皮膚感覚のようなものまでは理解できず、それが読みとれなければわからない話なのかもしれない。