妄想中年日記

連載第126回: ザ・サークル

書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2018.
04.06Fri

ザ・サークル

『ザ・サークル』を観た。予告編だけで観たつもりになっていた。実際に想像通りの内容だった。つまらない内容をつまらないなりに、裏切らずきっちり見せるのも技術なのだと感じた。役者のおかげかもしれないけれど、どれだけ一流の役者を揃えたところでだめな映画もある。先週観た『アトミック・ブロンド』など「スタイリッシュ」という言葉を履き違えた退屈な映画で、シャーリーズ・セロンの健闘も虚しく三十分で挫折した。あれよりいい。最後まで観られた。

最後まで観られた、というだけで褒めねばならないのは考察が中途半端だからだ。SNS企業の「悪巧み」が暴かれて「ハッピーエンド」となる。そんなことで問題は解決するのか、問題はそんなことではないのではないか。あのふたりはいうほど悪党なのか、別に何も隠してはおらず、政府に技術やインフラを提供しようとしただけではないか。組織の信条「秘密は罪だ」の論理的帰結を彼らが予期しなかったはずはない。ウォズニアック的な開発者の握る「秘密」もよくわからない。使われなかった地下鉄施設を転用したデータセンターがどうだというのか。

そもそも全体主義、監視社会、プライバシーの侵害、といったことだけがほんとうにSNSの怖ろしさなのか。たしかにそうした側面もある。ただ、あの映画の状況がそのまま進行すれば、窃視行為そのものも暴かれ晒されるので抑止が生じるだろうし、たがいに窃視し合うのが当たり前の日常になれば、プライバシーという概念がなくなり、それまでプライバシーとされてきたこと自体に価値がなくなって、窃視への関心は薄れるだろう。最初のひとりだからこその悲劇とも考えられる。

プライバシーの侵害と全体主義は、結びつきやすいものではあっても単純にイコールではない。両親の性生活を暴いて晒し者にしたのも、趣味を落ち度であるかのように騒ぎ立て、携帯のカメラやドローンで友人を追い詰めて殺害したのも、政府ではなく一般市民である。それと国家が個人の信条を管理すること、その手段を企業が政府に売り込むことは、それぞれがひとまず別問題ではないか。国家が弱者を排斥することは現実に珍しくないし、弱者を排斥する人々が全体主義国家を成り立たせるのも事実だけれども、その過程なり文脈なりが、この映画では充分に提示されていない。

そう考えるとこの映画が描こうとした恐怖がなんなのか、よくわからない。世の中の仕組みが劇的に変わるときの悲喜劇を描いただけのように思えてしまう。技術革新による社会変化にこれまでのところ人類はそれなりに適応してきた。サークル社の提供する変化もその程度でしかないようにすら見える。たしかにサークル社も「信者」たちもおかしいのだが、何がどうおかしいのか、危険の正体を充分に見定めることなく物語に仕立ててしまった感を拭えない。

物語が不穏な雰囲気を深める過程で、白地に赤丸の社旗がはためく描写が唐突に挟まれる。あからさまに日章旗に似ている。全体主義の印象を強調する意図のほかに必然性がない。日本はいまだそのような国として捉えられているのだろう。事実この国の社会にあのカルト企業を思わせる側面があることは否めない。その不安の正体がなんであれ、見定めないままにわれわれは次の時代へ進もうとしている。


杜 昌彦

(Masahiko Mori, 1975年6月18日 -)著者、出版者。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。