400 枚弱を書いた。あと 22 話、枚数にして 230 〜 250 枚ほどで書き上がる。 7 月は夏期休暇をもらえたのでそこそこ先に進めると思う。予定通り 9 月中に脱稿できそうだ。 10 月から年末までは出版と読書と次回作の準備にあてるつもりでいる。 ISBN が使い切れないほど残っているので可能であれば他人の本も出版したい。利用している POD サービスが、宣伝文句を信じるなら、複数著者への印税支払いに対応したからだ。ただしウェブサービスにかぎらず他人に期待すると裏切られる。必ず実現するというのではなく可能性を視野に入れる程度に考えている。『ぼっちの帝国』は代表作になりそうだ。『Pの刺激』以来 14 年ぶりに調子が出ている。これだけのものがだれにも読まれないのは残念だ。どうにか方法はないものかと考えた。手っ取り早いのは企業に出版してもらうことだ。かけられるコストも流通手段も大きく変わる。受け付けてくれそうな新人賞はないものかと物色した。ない。多くの新人賞は 500 枚までだ。内容もそぐわない。注文通りに書ける人材を探すのが新人賞だ。求められる傾向に適合したものを書けるかどうかがはかられる。そんな社会的な能力があれば 15 年前にプロになっているし、そもそも小説など書いてはいない。投稿サイトはどうか。人気のサービスをいくつか覗いた。題名や内容紹介などを見るかぎりどう考えても場違いだ。あれはフィーチャーフォン時代のケータイ小説に近い何かだと思う。おれが読んだり書いたりしている小説とは異なる。結局いつものようにアルファベット最初の文字からはじまる偉大なるモール様のお慈悲にすがってペイパーバック版と電子版を出すことになる。これまでこの日記で何度も書いてきたようにおれの本はモールが売りたい商品ではない。彼らが売りたいのは投稿サイトほどではないが感性としてはやはりケータイ小説の側に近い何かであるような気がする。それが具体的に何であるかはどうでもいい。平台や陳列棚を一望すればわかる。価値の上下ではない。単に違うのだ。共通点がほとんどない。たとえば、行ったことがないので想像だけれど、「とらのあな」や「アニメイト」でジョン・アーヴィングの新刊を買おうとするようなものだと思う。ポール・オースターもブコウスキーも買えない。ただそういう店なのだ。まちがって入った客が悪い。ではその客はどこでほしい本を買えばいいのか。そんな店はない、ということになりつつある気がしている。書いているのは読まれるためでも評価されるためでもない。それほど愉しくないしどちらかといえば苦行に近いので趣味ともいえない。趣味にしては生活を犠牲にしすぎている。では何のために書いているのか。何のためでもない。単にこういう病気なのだ。脳に欠陥があってこのように生きるしかない。健常者ならこんな無駄な真似はしない。とはいえ書けばどうしたって他者との比較が生じ、社会的な指標に基づいて無能を意識させられる。そんなことを気にせずに幸福になりたい。まぁ不幸だろうと何だろうと最後まで書くし、次の本も書くけれど。そういう病気なのだ。
2019.
06.30Sun
『D.I.Y.出版日誌』の次にはこれを読め!