杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第39回: Tea for One

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.19

 引き戸をひらいた明日香は背の高い美女を見上げることになった。タイトなスーツの柳沢美彌子が立っていた。凶器のように張り詰めた胸に危なくぶつかるところだった。ハイヒールの足音がしたはずなのに口論に夢中で気づかなかった。
 美彌子は明日香を睨みつけた。見下ろされるのは不快だったが明日香には相手をしている余裕がなかった。無視して脇を通り過ぎようとした。美彌子が明日香の腕をつかんで決然と歩き出した。なかば引きずられるように廊下を連行された。
 清高誠一郎が後からついてきた。なんなんですかあなた、などと叫んでいる。看護師や患者が振り向いた。明日香は顔をしかめた。何事にも自分が一枚噛んでいないと気が済まぬ男が世の中にはいるものだ。あたかも関わりがあるかのようにふるまわれるのが恥ずかしかった。
 美彌子も同じ表情をしているのにふと気づいた。彼女と視線が合い、互いに同じことを考えているのを知った。だからといって気持が通い合ったとは明日香は思わなかった。
 やかましい追っ手を締め出すように女子トイレに入った。病院のトイレにしては広くて明るく清潔だった。田辺家の資本のおかげかもしれない。鏡の前で美彌子は明日香と向き合った。四人の女が対峙した。自信に満ちた二組の鋭い目がふたりの明日香を射貫いた。
 改めて間近で向き合うと美彌子はやはり美しかった。なぜこんな綺麗なひとがこんなところにあたしといるんだろうと明日香は思った。互いにしばらく無言だった。
「化粧をしないのね」唐突に美彌子がいった。
 明日香は少し前から清高誠一郎の前でも化粧をさぼりがちになっていた。それでとやかくいわれたことはない。女ほどには男は体裁を気にせぬものなのかもしれない。普通は好きな男にすっぴんを見られるのを恥じるものだろうが明日香は逆だった。拙い化粧のほうが恥ずかしかった。
「膚が重くなって息苦しいから。不器用だし」
「知り合いの発達障害の女が同じことをいっていた」
 明日香はその言葉に腹を立てなかった。「診断は受けてないけど疑ってはいます」
「あなたはどこか世間からずれている。ひとが当たり前にこなすような生き方をしてきた女には見えない。田辺や神崎と同じかもしれない」
「一緒にしないでください」
 美彌子は肯いた。「ひとと違っても非凡とはかぎらない。あなたみたいな女はどこにでもいる。神崎はサヴァン症候群で知能が高いし、田辺にいわせればシステム設計やコーディングの才能もある。田辺は彼にしか書けないものを書く」
「母がそういわれてました。天才にしかできない仕事をしている、だから娘のあなたが支えなきゃと。才能や実力のあるひとは大勢います。あのひとは編集者や評論家に気に入られるのが巧かっただけ。あんな人間にだけはなりたくない。どこにでもいるだれでもない人間になりたいんです。まともな人間に」
「その手段があの男?」
 どちらの男のことをいっているのだろうと明日香は思った。「人間として当前の幸せを手に入れたいだけ。あなたの元夫とは関係ありません」
「作家の原動力は怒りよ。あなたみたいな凡庸な女といるとだめになる。すっかり腑抜けになっていた。取り戻させるのに苦労したわ」
「あなたならさぞを掻き立てるんでしょうね」
「その浅薄さが理解していない証拠よ。わたしは田辺の怒りを尊重する。哀しみも孤独も。彼が神崎の面倒を見ている理由を知らないんでしょう」
 明日香は動揺を気取られまいとした。美彌子は勝ち誇るように笑った。
「話してもらってないのね。あなたは田辺にとってその程度なのよ。信用されてない」
 そうかもしれないと明日香は思った。自分はボッチーズにとって余計な邪魔者なのだ。あのアパートを出たのは正しかった。求婚を受け入れて新しい生活に入り、早く忘れるべきだ。
「何を勘違いしてるか知らないけど、田辺さんにはあなたが思うほど魅力を感じません。だれが好き好んであんな連中と暮らすのよ。住み込みの管理人として働いてただけ。あんな不愉快な男とは二度と関わりたくありません。きっとろくな死に方をしない」
 明日香はそういってしまってから後悔した。美彌子の鋭い目が怯えたように一瞬たじろいだ。
「わたしが死なせない」それまで以上に険しい声だった。
「あなたと再会してからおかしくなったように見えるけど」
「わたしは田辺を二十年前から知ってる。あなたに何がわかるの」
「関係ないっていったでしょう。もうほっといてください」
「あなたみたいな女を見てると苛つく」
 でしょうねと明日香は思った。あたしも母にそのような気分にさせられる。きっと美彌子の頭は二百倍くらいの速度で回転しているのだ。世間のほとんどの人間はうすのろに見えるに違いない。
 だがそれにしては編集者としても元妻としても常軌を逸している。いかに天才作家であろうと一流企業の社員にとっては下請ではないか。ましてや別れた夫はただの他人だ。
 彼氏にちょっかいを出したと決めつけた相手をトイレや校舎裏へ呼び出す女子が、高校時代に何人かいたのを思い出す。いずれも大手出版社に就職して文芸編集部に配属されるような器ではなかった。
 美彌子は元夫に一方的な投影をして重荷を負わせているかに見えた。だとしても明日香には関わりがなかった。それが愛だというのならお好きにどうぞ。互いに傷つけ合って自滅するがよい。
「もう彼に近づかないで」と柳沢美彌子は宣告するようにいった。明白な脅迫ではあったが強がりのようにも懇願のようにも響いた。金も地位も知能も容姿も、かつて結婚していた相手との想い出も、明日香にないものをすべて持つ女が哀れに見えた。
 いまのあたしにはなんにもないと明日香は思った。だから喪う恐怖もない。
「ご心配なく。いまだに未練がましく付きまとうあなたが気の毒です。話はそれだけ?」
「用は済んだわ」美彌子は高い踵を鳴らして足早に出て行った。いつものだれも寄せつけない歩き方で。表情を見られまいとするかのように。
 水を流す音がして個室から腰の曲がった小柄な老婆が出てきた。商店街がシャッター通りになる遙か昔の洋品店で買ったような服装をしていた。防虫剤と線香の臭いがした。杖はついていないが歩幅が極めて狭い。ぜんまい仕掛けの玩具のように近づいてきて明日香を見上げ、強い訛りで何かいった。
 明日香には話しかけられたことしかわからなかった。
 老婆は同じ台詞をくり返した。何か問いかけているようだった。明日香が戸惑っていると老婆は失望したように顔を背けた。短く呻いて手も洗わずに出て行った。最後のひと声が悪態であるのはわかった。
 間の抜けた出来事のおかげで急にすべてがばからしく思えた。神崎陸の容態もボッチーズの態度も、美彌子の脅迫も何もかもが白々しく滑稽に感じた。何を深刻ぶっているのだろうと思った。田辺美樹に感じた怒りや頬を濡らした涙も。
 清高誠一郎はトイレの前で待っていた。明らかに機嫌が悪かった。予定を変えさせられたことにも、明日香が反抗したことにも、運転手をさせられたことにも、わけのわからない連中にも、彼らに無視されたことにも、病院の消毒薬の臭いにまで苛立っていた。何もかもがおもしろくないのだ。
 明日香はボッチーズが自分の手から離れたように感じた。途端に現実が戻ってきた。さながら麻薬が切れたかのようだった。目の前の男を宥めねばならない。持ち上げて機嫌を恢復せねばならない。今夜はいいなりにならねばならない。疲れていようと痛みがあろうと。
 もう二度と、本当に二度と田辺美樹と逢うことはないのだと悟ったとき、明日香は苦痛を紛らす妄想に彼を用いることを決めた。想い出が痛みを軽減し、結果的に相手を悦ばすのであれば悪くないと思えた。
 目の前の男を身代わりに選ぶことで彼を永遠に喪うとしても。
 美彌子はもう角を折れて見えなくなっていたが、明日香は後ろ姿を思い描いた。家族控室で元夫とその仲間たちに迎えられる彼女を。田辺美樹は歩み寄って彼女の肩を抱く。美彌子は美樹の背中に手をまわす。
 明日香をだれも一顧だにしない。
 このとき明日香はボッチーズの全員が病院にいたことに疑問を抱かなかった。おそらく美樹をはじめマシュー、ヤンパチもそうだったのではないか。
 いかに神崎陸が天才で、システムのすべてを周到に自動化していたとはいえ、一般運用をはじめたばかりのウェブサービスを彼らは丸一日もほったらかしにしたのだ。まして『ぼっちの帝国』には開始早々トラブルがつづき、幾度となくサーバが落ちたり繋がりにくくなったりした前科がある。
 今後いつまでも客が忍耐強く赦してくれるとでも思ったのだろうか。客足が恢復したのはいわばご祝儀のようなものだった。なのにその経験に甘え、どうにかなるものだと錯覚しなかったか。
 油断だったのではないか。
 ……と、のちに明日香は思うようになる。ひとたび幕が上がれば芝居は続けねばならぬ。役者が舞台から転落して大怪我をしようが、どんなに野次られようが、石を投げられようが止めてはならぬ。
 世渡り下手な彼女でさえ、商売とはそのようなものだと見当がついた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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