杜 昌彦

GONZO

第3話: 波乗り男

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2020.07.02

 数十年後のいまになって考えてみれば、降りるべき駅ではなかったのだし、恐怖に身をすくませるわたしが、大声で口論しながら車外へ連れ出される鏑木を追いかけたとは思えない。あの気の毒な記者が突き飛ばされる瞬間や、皮肉にもまったく同一の手口で鏑木自身が殺害される現場を目撃できたはずがないのだ。
 であれば教室でいつもの顔ぶれと挨拶を交わし、たわいのない会話をしながら教科書やノートを出していたとき、怪訝そうに友人が指さしたのはなんだったのか。鞄に付着していた髪の毛まじりの赤い肉片は、何か別のもの、たとえばのちにも混みあった車内で経験したような、もっと汚いものだったかもしれない。公共の場でそのような行為をする大人は常識で考えるよりありふれている。それを十代のわたしが潜在意識において隠蔽した可能性は否めない。友人との会話そのものが捏造かもしれない。
 ひとは数十年前の朝をどれだけ正確に記憶していられるものだろうか。父親と共に行方を眩まさねばならなくなった高校生はわたしではないのだ。これから語るのは彼女の身に起きたこと、あるいはわたしがそう信じていることであり、わたし自身の過去ではない。暗殺者が別の暗殺者によって返り討ちに遭おうが、その現場を目撃しようが、それがただの夢であろうが日常は何ひとつ変わらなかった。
 鮮やかなその記憶において、鏑木に馬乗りになった肥満漢は、土手の斜面を段ボールのそりで滑り降りる子どもさながらに愉快そうに見えた。あまりにも非現実的な光景だし、マスクとサングラスで隠された表情が感じとれたのもおかしな話だ。あれが幻ならば、目を丸くして見つめていた少女もまた妄想にすぎないのか。他校のその生徒は対岸に立ち尽くしていた。その位置から階段は見えないし、車内にいたはずのわたしからはなおさらだ。それにその頃には緊急事態宣言は解除されて数ヶ月後もたち、乗降場は通勤通学客で混み合っていたはずだ。
 わたしの語りはかくも信用がならない。すでに警告した通りだ。これからも眉に唾をつけて読んでいただくがよかろう。この物語は世に問うべき真実など微塵も含まない。だれに向けて書くのかさえも定かではない。しいていえば十代の過去へ流す瓶詰めの手紙めいたもの。壮大なまでにまわりくどい独り言にすぎない。けだし物語とは本来そのようなものではなかろうか。
 口論して降車するふたりを古書店主の娘は見つめている。正義感に突き動かされた青年は大柄な父親世代の腕をしっかり掴んでいる。年かさのほうは失敬な、わたしをだれだと思っている、きみの立場がどうなってもいいのかと、威圧的に怒鳴っている。しかしその割には暴れて振り切ろうなどとはしない。あたかも経験も地位もある年長者が、若者の愚行を叱責するかのよう。あべこべに彼が連行する側にさえ見えた。
 ひとびとは若いほうが何かやらかしたかのように眉をひそめて眺めている。古書店主の娘はただぼんやり見つめている。考えているのは昨夜遅くのアイドル番組や不充分な予習についてだ。爽やかな初秋の朝にふさわしからざる騒ぎには、反射的に注意を向けたのみでさしたる関心はない。人生に影響するとは夢にも思わない。まして己の父親が間接に関わっているなどとは。
 マスクをしワイヤレスの耳栓を詰め携帯を眺める群衆のなか、彼女は毎朝そうであるように眠たげに立ち尽くす。背後から軽く突かれたら線路に転落しそうだ。そうならなかったのを書物やインターネット上の情報を通じてわたしたちは知っている。いずれ彼女の身にも迫るであろう危険さながらに青年が転げ落ち、そのあとを追うように鏑木の顔面がすり下ろされるまで、その表情は変わらない。
 わたしたちの日常はいつだって紙一重で悪意とすれ違っている。足許に深淵が口を広げないのは単なる幸運にすぎない。だからこそわたしたちは幻想にすがりたがる。転落した者を貶めてさえいれば安全でいられるかのような幻想に。自分たちは違う、そちら側ではないと信じ込もうとする。
 義憤に駆られた記者は鏑木を、鉄道警察隊の派遣所へ連行するつもりだったのだろう。そのためには階段を昇って長い通路を歩かねばならない。インターネット上には加害者のためのノウハウが蓄積されている。人気映画が広めた「冤罪」なる概念も共有されている。その場さえ逃げおおせれば罪に問われないという。おかげで線路上を逃走し列車にねられる輩が絶えない。鏑木もその知識の信奉者だったのか。それとも警官なら「たかが痴漢」の罪に問われぬと知っていたのか。
 知っていたのだ。IT関連を専門とする記者が何を取材していたかも。幼い頃から人並みはずれて正義感が強かったその青年が、かつて何度か性犯罪者の逮捕に貢献していることまでも。だからこそ鏑木はその間近で痴漢を働いた。あたかも見せつけるかのように。これ見よがしに。
 鏑木紀一郎が県警特殊犯罪テロ対策課、の課長なる肩書きに隠れていかなる副業をしていたのかはわからない。それまでにも数度にわたって列車内で性犯罪をくり返し、通報せんとした人間を突き飛ばして怪我を負わせ、逮捕を免れてきた経歴がいまでは判明している。成功に味をしめ油断したのだろう。状況を操る側だと信じ込んでいたのだ。己もまた暴力に弄ばれる側だとは思いもしなかった。ましてや生命を狙われているとも、世界が数十秒後に終わるとも知らなかった。
 長い階段を昇りきって記者が振り向くや、鏑木は掴まれていた腕を強く引いた。行き交う他人がすれ違うだけのように自然な動作だった。均衡を崩した青年はあっと叫んで目を剝き、天を仰いで落下した。ふたりのあいだに何が起きたか気づく者はなかった。気づいたときには青年が転げ落ちてきて、モーゼを通す紅海さながらに群衆が割れた。
 上々の首尾といえた。ダークスーツの肥った男が横から急に現れるまでは。鏑木は過去にそうしてきたように、今回もまた犠牲者を顧みもしなかった。群衆に紛れて立ち去ろうとした。振り向いていればもっとましな死に方ができたろう。
 闖入者もまた、あたかもたまたま居合わせただけのように自然な態度だった。太鼓腹は極上のクッションとして作用した。地上まで真っ逆さまだったはずの青年は跳ね返り、数段で停止。手脚がもつれて折れたに留まった。西瓜すいかのごとく打ち割られるはずだった後頭部は守られ、多少の汚れは付着したものの、マスクは白さを保った。さりとて重傷ではあり記者は数日間、生死をさまようことになる。
 暗殺の失敗を鏑木は知り得たろうか。否。自身に起きた事態を悟る余裕すらなかったろう。彼にはもう数秒も残されていなかった。記者の袖を引いた腕が、唐突に現れた第三者によってさらに引かれ、鏑木もまた体勢を崩した。天地がひっくり返る瞬間、視界に映ったのは肥った死神だった。三つボタンのダークスーツに帽子、細いネクタイ。極めつけに、小さな長方形レンズのサングラス。映画『ブルース・ブラザース』さながらの滑稽な扮装だった。
 自分が突き落とした青年のように悲鳴を発する自由は鏑木にはなかった。マスクの運命もまた異なり鮮血に染まった。階段に叩きつけられ折れた歯が、じゃらじゃらと口中に溢れたからだ。それだけでも窒息しておかしくないが、あまつさえ背骨に勢いよく重石がかかる。肥満漢が背中に飛び乗ったのだ。肥った暗殺者はさながら手綱のように鏑木の襟首を掴んだ。段に顔がぶち当たるたびに鏑木のからだは荒馬のごとく弾んだ。
 かくして爽やかな初秋の朝、十代のわたしと見知らぬ女子高生とは、乗降場のそれぞれの側で、腑抜けのように口を開けて見つめる次第と相なった。顔面を削られつつ階段を転落する鏑木と、その背中に跨がって乗りこなす、肥った暗殺者とを。地上に到達した頃には、鏑木はすぐには人間と窺い知れぬ残骸と化していた。投げ出された手脚は幾重にも折れ曲がり、元は顔であったはずの箇所は、巨大なおろし金を当てられたかのように赤いぐちゃぐちゃの塊になっていた。
 わたしには構内放送や群衆の立てる物音が静止したかに感じられた。群衆は何も気づかぬようだった。ひと仕事終えた暗殺者はやれやれ、とでもいったように腰を伸ばして立ち上がり、階段を行き交う人混みに消えた。一点の返り血も浴びていないようにわたしには見えた。屍体は通行の邪魔になっていた。だれもが迷惑そうに顔をしかめて跨いだり迂回したりした。鮮血や尿がじわじわと広がるに至って避けきれなくなり、ようやく悲鳴や嘔吐の声があがるまで、不自然なほど長い時間がかかったのを憶えている……というかそのように思う。
 マスクなり耳栓なりをして携帯に注意を奪われているからといって、公共の場にこれだけ多くの人間が密集していながら、あからさまな殺人にだれも騒がぬのは奇妙に思える。しかし捏造と妄想まみれのこの物語で、それだけは誓ってわたしの創作ではない。ゴンゾこと梶元かじもと権蔵ごんぞうはこのときにはだれにも通報されなかった。警察がどれだけ捜査してもまともな証言は得られなかったし、信憑性に欠けるわずかな目撃例でさえ、ずっとのちに一連の事件に伴って判明したにすぎない。
 わたしの知るかぎり、少なくとも目撃者はもうひとりいたのだが、彼についてはまたいずれ語ろう。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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