杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第6回: 変な男

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.28

 のちにこの経験を他人に理解してもらおうと試みたとき、明日香は何をどう説明しても本質から遠くかけ離れるのを感じた。実際に起きた出来事だけを述べるならそれは電車内での痴漢から、ある男に救われた話になるのだが語りたいのはそんなことではない。さらにはその出逢いがいずれ彼女の人生において好むと好まざるとにかかわらず大きな意味をもつに至るのだが、それをそのまま語れば颯爽と現れた白馬の王子様に囚われの姫君が人喰い鬼から救出された話になってしまう。実感としてはまるで違う。
 その男は王子様よりもむしろ人喰い鬼に近かったし、明日香にしても王子様の助けがなければ生きられないようなか弱き可憐な乙女などではなかった。弱くはあっても可憐ではないしましてや三十路間近は乙女と呼べまい。実際のところ本当に救われたかどうかさえ怪しかった。人喰い鬼に襲われていたら別の化け物が横から現れ、その兇悪な本性に従って、獲物であるところの人喰い鬼に対して捕食に及んだというのが正しい。化け物同士の争いに明日香は巻き込まれたにすぎなかった。
 事実、この男は血も涙もない化け物の息子として悪名を馳せることになるのである。
 平和なこの国では電車内での性暴力は冤罪の枕詞と相場が決まっている。ウィキペディアによれば男女雇用機会均等法が施行された年に作詞家でアイドル・プロデューサーの某は十代の少女グループに「満員電車の中で痴漢冤罪を捏造し、自分のストレスを解消しようという歌詞」を唄わせ、全裸の男児十数名を乱入させる演出を行ったという。そのようなコンテンツが娯楽として喜ばれ、当の少女たち自身がそのような消費を望むような文化であるからこそ、行政や司法の人権侵害を描くはずの映画はその題材に痴漢を選び、声をあげた少女を加害者として描き、その物語がさながらプロパガンダのごとく広く熱狂的に受容され、だれかが線路上を逃亡して撥ねられるたびに、確かにあったはずの被害経験はなおざりにされ、死者への同情ばかりが枕詞のごとく語られるに至ったのだろう。
 そんな世の中に対して明日香には何の含みもない。実際に濡れ衣が多いのかもしれないしそうではないのかもしれない。家政短大のデザイン科を出てあらゆる半端仕事を転々としてきた三十路間近の無職女にすぎない明日香にはわからない。偉い先生方がソーシャルメディアで高尚な議論を交わす概念上の痴漢などどうでもいい。問題は彼女自身がいま痴漢に尻を撫でまわされている、少なくともそう感じているという事実である。
 男たちは思い過ごしを嗤うだろう。女たちもまた自意識過剰を誹るに違いない。生温かく湿ったこの掌など現実には存在しないのだ。あるいはこの恐怖や孤独やその他の名づけようもない絶望もまた。とどのつまりはそれらを感じた明日香自身が存在を否定されるのだ。しかしそれならなぜ周囲の男たちは蔑むような笑いでこちらを見たり、逆に不自然に視線をそらしたりするのか。なぜ女たちは居たたまれぬ顔つきで俯くのか。
 背後の男が何をしているのかわかる程度に車内は空いていて、かといって逃れられないほどには混んでいた。最初はたまたま触れたのかと考えて体をひねり空間を確保しようとした。追随するかのようにその隙間は埋められ腰まで密着された。恐怖に凍りつく自分の顔が窓に映った。その背後の男と視線が合った。スーツとコートを着た五十がらみのどこにでもいそうな会社員風の男だった。口の端を歪めて笑っている。眼鏡の奥の瞳孔は明日香の表情を興味深そうに覗き込んでいながら何も映していなかった。心に相当するものがそこには何もなかった。人のかたちをしたものを病が動かしていた。
 投げ込まれるグリーティングカードを保管していれば記載された携帯番号に職を求めたかもしれない明日香ではあったが、相互の取り決めの範囲内で行われる行為と、暴力によって一方的に侵入されるのとでは当然ながらまるで意味あいが異なる。安全とは自らの意思で状況をコントロールできること、できていると感じることであってリスクもまた自ら選び取るものだ。しかるにこれは望んだ恐怖ではない。
 人のかたちをした病には明らかに狡猾な知能があった。弱りきって抗えず声も上げられない女をそうと見抜いて標的に選んだ。明日香は胸元も足も露出していない。キャバ嬢SVに破られた衣服を隠すためにコートのボタンを襟までぴっちりと留めている。そのコートだってロング丈だしその下に穿いているのも膝をついて挙手対応するに適した安物ジーンズだ。踵の高い靴を履いてコールセンターでは働けない。いま考えれば売り飛ばす前に家財道具から服ぐらい救出してもよかったのだが、あのときは思いつきもしなかった。なんなら髪だって引きむしられたまま整えていない。落ち度があった? どこに。どうしろというのか。
 気を張り詰めていた都会から田舎に帰ってもうそんな危険はなかろうと油断したのは確かだ。身構えた夜行バスが女性専用車で拍子抜けしたのも影響した。しかしだからといって何をどう気をつければよかったのか。やれることに変わりはなかったではないか。押しつけられる股間の異物を無視しろとでも? よかろう、それは存在しない。冤罪だ。気の迷いにすぎない。
 自らの尊厳を優先すれば加害者に線路上を逃走され、明日香は立派な父親であり社会の一員である男を陥れた人殺しとして、コメンテーターのワイプで抜かれた嘆かわしげな顔とともに報じられ、個人情報を特定されて世間から後ろ指をさされる。冤罪から身を守る方法の解説にお茶の間は熱心に聞き入るだろう。どうせ社会的に存在しない被害ならひとりで耐えれば済むことだ。携帯を眺めて気をそらそうとした。電車内でだれもが携帯を見るのはそれが息抜きの窓であるからだ。
 ファイル共有通知とともに公の場で閲覧するに適さない身体部位の画像が表示された。
 背後に密着する男が低く含み笑いを洩らすのが聞こえた。何やらもぞもぞと動いていたのは携帯を操作していたのだと明日香は気づいた。共有機能は切ってあるはずなのにと思った。数日前のOS更新において勝手に設定が変わる不具合があり、ネット上で話題になっていたのを明日香は知らない。しかし知らなかったこと自体がソーシャルメディアで落ち度として誹られるのは知っていた。共有を許可する前に画像が表示される仕組みもどうかと思うが、何をどう抗弁したところで無知を嗤われ非難されるだけだ。
 周囲の男に見つめられながら明日香は拒否をタップした。きっと何かもっとおもしろい反応を見せるべきだったのだろう。あいにく娯楽コンテンツを提供する才能に欠けていた。
 おい、と男がいった。
 痴漢の声ではなかった。乗客の頭越しに聞こえてくる。痴漢の含み笑いが生理的嫌悪を招くとすればその声は本能的な恐怖を引き起こした。聞こえる場所に留まっては危険だと感じさせる声だ。乗客が急に押しのけられたように動き、痴漢が悲鳴を上げて離れた。
 明日香は勇気を出して振り向いた。背の高い男が痴漢の腕をねじり上げていた。鈴木春子を見慣れていなければその体格だけでも威圧感を憶えていたろう。自分で雑に刈り上げたような坊主頭、無精ひげ、色褪せたデニムのサックコート。海兵隊上がりの囚人のようだった。大丈夫か、顔が赤いぞとその男は無表情に痴漢を見下ろして静かにいった。風に当たらせてやろう。
 それから男は明日香を見つめ、来い、と有無をいわさぬ調子でいい放つなり痴漢の腕をつかんだまま乗客を押しのけた。聞き違いかと思ったが従わないと何をされるかわからない。明日香は視線を浴びながらついていった。
 背の高い男は三十代に見える会社員風の男を座席から払い除けた。窓を開けろ、と振り向きもせずにいった。明日香は命じられたのが本当に自分なのか、そもそも何をいわれたのか、開閉できる窓のついた車両に乗るのが久しぶりですぐには判断できずに戸惑った。早くしろと脅すような調子で命じられた。わけがわからぬまま慌てて両手を伸ばし下半分を引き上げようとした。左右の留め金が硬くて開かない。
 手が慄えていた。爪が割れそうだった。
 男は怯えた顔の会社員に、おいおまえ、見ていたなと事実を告げる調子でいった。会社員の返事はなかった。彼もまた自分が話しかけられているとは信じたくなかったのだろう。この女がされていることを何もせずにずっと見ていたなと男は少しだけ明瞭な口調でまたいった。手伝え、とつづけざまに要求した。会社員は青ざめた顔で明日香に力を貸した。
 窓が開くなり男は痴漢の襟首をつかんで窓から突き飛ばした。あっと周囲の乗客が叫んだ。落ちる寸前で男は痴漢をわずかに引き上げた。痴漢の上半身が窓から突き出され眼鏡がずり落ちた。乗客は息を呑んだり潜めたりした。ざわめきが車内に伝播した。
 痴漢は両手をばたつかせて悲鳴を上げた。少しでも均衡を崩せば落下しそうなのに暴れる神経が明日香には理解できなかった。男は彼を押さえつけたまま腰をかがめ、窓に首を寄せて低い声で語りはじめた。周囲の乗客には風と列車の音に掻き消されて何をいっているか聞こえなかったろう。
 あいにく明日香には聞こえた。
 釜元駅何時何分発の快速とトンネルのカーブ箇所で二分後にすれ違う、と男は冷静に時刻表を引用した。岩盤の掘削が困難で線路の間隔が狭まっている。線路際には塚がある。八十年代、暴走族に箱乗りという遊びが流行した。上半身を乗り出していた女子学生がそこで対向列車に頭を強打され死亡した。遺族や国鉄職員が遺体をかき集めたが頭部は戻せなかった。
 そのようなことを男は表情を少しも変えずに独り言のように語った。
 襟首を押さえつけられた痴漢は風に向かって意味の通らぬことをわめいていた。言葉の大半は支離滅裂だったが、冤罪だ、おれを強請るつもりなんだとも聞こえた。万が一にも捕まり逃走に失敗したときのために事前に用意した台詞だったのかもしれない。まさかこのような状況で使うとは予想だにしなかったろう。だれも彼を助けようとしなかった。開けた窓や床下からの騒音を別にすれば車内は異様に静かだった。吊革のきしむ音が気になるほどだった。
 背の高い男はあたかも自分のやっていることに興味がないかのような表情だった。出勤ついでに収集所にゴミを棄てる人がこんな顔をしていると明日香は思った。この男にとっては同程度の日常なのだろう。
 トンネルに入った。暗闇の中で男の言葉通りカーブと対向列車が近づいた。痴漢は絶叫した。乗客も悲鳴を上げた。見たくないと思いながらも明日香は目をつぶることができなかった。
 風圧で痴漢の眼鏡が飛んだ。対向列車は長い時間をかけて通過し、騒音が遠ざかった。トンネルを抜けて車内はぱっと明るくなった。民家の点在する田園風景が窓外を流れた。
 男は痴漢を引き上げて襟首から手を離し、法律で車間距離が決まってるんだよと低い声でいった。
 痴漢は座席にうつ伏せにぐったりと倒れ、目を剝いたまま気を失うとともに失禁した。明日香と会社員が狼狽して後ずさり、まわりの乗客も恐慌をきたしたように離れた。罵声や悲鳴が飛び交った。だれかが緊急停止ボタンを押した。電車は激しくきしんで急停車した。人々はよろめいて怒りだし商談に遅れるだろなどと口々に叫んだ。それからあたかも犯人であるかのように明日香を睨んだ。
 空圧装置の溜息が聞こえて扉がひらいた。明日香はどう見られようと気に留めなかったし車内アナウンスも聞こえなかった。乗客を掻き分けて背の高い男を捜した。
 男は車内から消えていた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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