既存のわかりやすいニーズに応えるばかりが出版なのか、と疑問を投げかける記事にうっかり賛同したら、マーケティングの専門教育を受けたジャーナリストの方からお叱りを受けました。笑いものにされ淘汰されると指を突きつけられ、そうでない価値が世にあるのなら見せてほしいといわれました。目に見えるものばかりではないという記事でしたし、まさにそのことに共感したので、見せろといわれたら窮します。
ひとにはそれぞれのわかりにくい事情があり、それを書くのが小説だと信じていました。しかし現代では小説を書く人間そのものが、他人がそれぞれ事情をもつことを許さないような、単純で「わかりやすい」ものの見方をしなければならないようです。正しさが逸脱を裁く。出版が、小説がそのようなものに成り果てたことを知り、とても哀しく、がっかりしました。
ピーター・ケアリー『イリワッカー』をようやく読み終えました。自分にとっていちばん大切な本なのにまだ三度しか読んでいません。『長いお別れ』は清水訳だけで二十回は読み返したんですけれどね。三十年前に書かれ、二十年前に翻訳出版された本ですけれど、複雑なそれぞれの事情が、「それが人間である」というように、そのまま書かれていました。もっといろんなことが書かれていたのですが(オーストラリアの歴史とか風刺とか、それもとびきり滑稽めかして)、とにかく単純ではなかった。いろんなものを抱えたいろんな人間がいることが書かれていました。
いろんな人間がいてはいけない世の中は、しんどい。そりゃまぁ正しいとされる人間になれたら、みんなおんなじ人間になれたらだれだって楽でしょうけれど、でもそのような人生ばかりではない。やむにやまれず、どうしようもなく逸脱してしまうものです。それがあってはならないと断罪されたら。ひとそれぞれの事情なんて世に存在しないかのように裁かれたら。それはつらいな、と思います。だからこそ心の拠り所がほしい。だれもが口にするような言葉で難じてくる権威者ではなく、そっと寄り添ってくれる弱いもの、信じられるものが。
「正しさ」に弱みを笑いものにされ、「淘汰」されてだれが抗えるでしょう。わかりやすいから、売れるから正しいのだ。そうでないものは笑いものにされ淘汰されることで、価値のないもの、許されないものだと社会的に証明されたのだ。立派な職業の、学のある方からそう難じられたら、まぁそうでしょうね、とお愛想笑いをするよりほかありません。わかりやすい「正しさ」は力です。だれにも否定できません。
本が、言葉が、あらかじめ祝福された人生のためだけにあるとは思いたくありません。たしかに既存のわかりやすい「ニーズ」に応える小説があってもいいでしょう。それが多数派として力をふるうのは当然です。けれども一部にはわかりにくい事情や、やむにやまれぬ逸脱、笑いものにされ淘汰される人生に寄り添う小説があってもいい。どんなに笑われ淘汰されてもそう信じたいです。
それぞれの事情、それぞれの人生があるものだとピーター・ケアリーやジョン・アーヴィングは教えてくれました。ピンチョンはさらに、それぞれのありようを社会は許さないけれど、小説は何を書いてもいい、言葉でだけはどんなにめちゃくちゃな逸脱だってなんでもありなんだ、という姿を見せてくれました。人生が既存のニーズに応えてくれるのなら、逸脱を断罪するのもいいでしょう。残念ながらそうではない。ヴォネガットならいうでしょう、”So it goes.”⋯⋯と。