父、文鮮明のこと──負の現人神

連載第2回: 僕たちもまた山上徹也のひとりにすぎないということ

アバター画像書いた人: mimei maudet
2022.
08.14Sun

僕たちもまた山上徹也のひとりにすぎないということ

安倍元首相銃撃事件を受けて 2022 年 7 月に文鮮明のこと——負の現人神という記事を書いただいたい次のような話だ終戦後天皇という家父長を失った朝鮮半島に再臨の現人神あらひとがみを名乗る教祖たちが雨後の竹の子のように生まれるはじめはどんぐりの背比べじみたところがあったけれどもそのうちの一つが猥褻なミームとしての頭角をあらわし感染爆発を引き起こすことになったそこでの僕の関心はそれを邪悪な淫行集団として切り捨てるのではなくその背景にあるものを掘り下げることにあったその一環として極東の近現代史のなかに事件を位置づけることで浮かびあがってくるものを探ったそこで言いたかったのはかつての日本には神のために自身や他人の生をも犠牲にすることのできる神の子たちがいたということそれゆえに安倍元首相銃撃事件によって噴きあがった血塗られた歴史の重みや信者や二世の苦しみを感知し痛み分けをすることもできるはずだということだったさらにいえば19 世紀の半ばに産まれた近代的国家家族 / 家庭」、 いまなお列島に蔓延するこれらの物語こそカルトにすぎないもともとnation/statefamilyの訳語でもあったこれらの単語にの一字が紛れこんでいることそのようなスキャンダルが 21 世紀のいまになっても不問にふされていることからもイデオロギーとしての家がいまなおいかに強固なものかが伺い知れる結局のところ世界平和統一家庭連合はこれまで隠されつづけてきた日本国の醜悪な一面の戯画にすぎなかったのかもしれない

 ぽつりぽつりと記事に反応してくださる方々がいた世界の片隅みたいなところから発信されたものでもひとの目に留まることがあるのを知りありがたく思った同時に安倍元首相の死があってこその反響だったのだろうとも考えこころの底から湧いてくるありがたさに不謹慎なものを感じたことばが死によって活気づくことがあるということ言い方を変えればことばが息を吹きかえすためにはひとが死んだり殺されたりしなければならないことがあるということいまだにその重みをはかりかねている

 事件はふりかえってみると起こるべくして起こったとしか思えないほどのディティールを開示するしかしそれは錯覚でしかなくて本当はほかにも無数の結末が用意されていたはずだった僕はこの事件によってたまたま自分が宗教二世であることそのために自分の人生に対して深い羞恥の念を抱いてきたことこれからはちゃんと胸をはって生きていきたいと思ったことをまわりのひとに打ち明けることになったそれがひとりのひとの死によって可能になったことを思うといたたまれなくなりほかにも違う道筋があったはずだと思う自分が宗教二世であるということは本当は自分の人生にとっては些末なディティールのひとつにしか過ぎないと信じているやがてだれも統一教会のことや文鮮明のことを話さなくなるときがくるそして事件はむしろ一つの比喩としての象徴性を日増しに帯びてくることになるだろうディティールそのものは自分自身もいつかけろりと忘れてしまうだろうそれでも死者はかえってこない

 事件が起こってしまったあとに僕ができることといえば死の痛みとともにことばを研ぎ澄まし僕自身にとってのその死の意味を深めることくらいなのかもしれないすでに死をめぐってさまざまなことばが渦巻いている特に教団とカルトの癒着の物語あるいは二世の人権問題が世を賑わしているそれに反応するようにしてこれまで素性を隠しつづけてきた二世がテレビやウェブで声を上げはじめているこのときこの事件を単なる見世物としての物語邪悪なカルトや政界の癒着の物語として浅いところで消費し悪魔祓いをすれば今後も存命の信者や二世が苦しみを引きずりつづけることになるのは疑いようがない傷が癒えることもないたしかに本人が一命を賭して全ての統一教会に関わる者の解放者とならんと安酒に酔った口調で息巻くように今回の事件によってなんらかの形で救われたと感じているひともいるかもしれない僕もそのひとりだしかしそれと同時に多くの信者や二世を傷つけたこといまなお傷つけつづけていることは間違いないしその傷から流れでる痛みを啜って肥えているような浅はかな物語が蔓延しているのも事実である

 そんななかもっと豊かなかたちの物語として今回の事件を読むような試みはないものかと思う思っているだけでもしかたないのでここでは僕自身がどんな読みかたをしたいのかという話をしたいちょっと小難しい方法論的な話になるのでおもしろくないと思うけれどもそれが宗教二世としての僕なりの統一教会への唯一のむきあい方だったそのおかげで人殺しや自殺をせずにすんでいる僕は自分がしていることをさしあたり社会物語学と呼ぶことにしたまずはその経緯から話を起こしたい

1.僕の社会物語学ことはじめ

 社会物語学とは何かウェブを検索してもさして目ぼしいものが出てこないのではじめて耳にする人も多いと思うひとことで言うと社会物語学とは物語の力や働きについて考えるこころみである物語といっても映画や小説の一要素であるような形あるもの」、 つまりテキストではないむしろ目に見えないこと」、 出来事といっていいかもしれない。 「社会という語が冠されているのは従来からあるテキスト分析としての物語学ナラトロジーとは違うということむしろ社会学的な発想をベースにしていることを示すためのものだ

 物語って何だろう僕がそのことばかりを考えて生きてきたのはきっと家庭環境のせいでもある僕は統一教会の合同結婚式でマッチングされた両親のもとに神の子として生まれた再臨の救世主メシアの聖なる血を引いた直系の子である。 「ほんとうはお母さんの子じゃないのよ神の子なんだからこの世界の人たちとは違うんだからと母にささやかれたときの幼い記憶がよみがえる驚きはしなかったふしぎと腑に落ちる気持ちがあったとはいえ底意地の悪かったせいか教団の教えを鵜呑みにすることができたのは小学校の低学年までだった高学年のころには家出と非行を繰りかえすようになっていたいまふりかえってみるとそのときの自分にはこの地球上には話の通じない存在絶対にわかりあえない存在がいるということへの圧倒的な確信だけはあったしかもそのような存在が自分に最もちかしいはずの身内のなかにいた子供の自分はそれを諦念としてではなく畏れとして受けとめていたカルトにのめりこむ男と女がすぐそばにいて操り人形のようになったそのふたりの背後には得体の知れない邪悪な力がはたらいていたこのひとたちはいったい誰なんだろうそして自分はいったい何者なんだろうわからなかったただこころのそこからこわかったいまでもこわくなる混乱して奇声を発することが何度となくあったそのときの自分にできたのはとにかく自分の素性を隠すことでこの世界の人たちの輪に紛れこみ人生をやり過ごすということだったそれは後ろめたいことだった

 僕は中学校を卒業したあとパン屋ではたらきながら一人暮らしをすることになったやがて日本を出て統一教会を知らない人たちの国に行きたいと思うようになり紆余曲折の末まずは大学に進学した大学には東浩紀さんや渡部直己さんをはじめとするさまざまな人たちがいたそこですくなくとも二つのことを学んだ一つ目は統一教会は単なるカルトに過ぎないけれどもこの世界はそもそもそんな単なるカルトに過ぎないようなもので満ちているということ二つ目は日本には中上健次という作家がいて自分が抱えているのに似た問題を物語という観点から掘りさげようとしたということこの二つの発見を機に自身の生い立ちをもうすこし一般的な問題系のなかで受けとめられるようになり自分は特別な存在でもなんでもないことを知った

 それから日本を出た飛行機のなかの機内地図をながめていると中国語版だったのか、 「本州島という語が目にとまり胸を打たれた島なんだなあと思ったたしかに日本が島国であることは一般論として知っていたしかしそれがどういうことなのかをまったく知らずにいる自分を思い知らされた気がしたいまでもよくわからない日本の外で暮らすようになっても日本語だけは忘れずにいた日本語はいわばかりそめのもの借りもののようなものなのだけど返すことはできない解けない呪いをかけられていたいっときはその空恐ろしさに悩まされていた時期もあった日本語もまた物語なのだと中上健次は言っていたその意味はよくわからなかったけれどもそのころから腰をすえて中上を読んでみたいと思うようになった宗教も物語である中上が考えていたことの一端を社会物語学として捉えなおすことにしたのはそのころのことだったこれからその試みの一部を駆け足で紹介することで今回の事件を豊かな読みへと開くための道筋のひとつを提示したい

2.アーサー・フランクによる社会物語学

 社会物語学という語はもともとsocionarratologieという仏語の和訳として自分が思いついたものだったしかしよくよく調べてみるとすでに 2014 年には日本で使われていたことがわかる日本オーラル・ヒストリー学会の十周年記念講演会にアーサー・フランクという社会学者が招かれていてそこでNarrative Truth and the Dilemma of Multiple Accounts: Remarks on the Relevance of Socio−narratology to Oral Historyと題された講演をしているそれを横浜市立大学の有馬斉さんがナラティヴの真実と複数の説明のジレンマ : 社会物語学のオーラル・ヒストリーへの関わりについての所見と訳していたのだった

 さらにフランクは 2011 年にLetting Stories Breathe: A Socio-Narratologyという著書を出版していてそのなかで社会物語学とはなんぞやということを説明しているこれまで自分以外にsocio-narratologyという語を使ったことのある人は知らないとフランク自身は述べているけれど英語圏での初出はすくなくとも デビッド・ハーマンが 1999 年に発表したToward a socionarratology: New ways of analyzing natural language narrativesまで遡ることができるとはいえそれをひとつのまとまった理論として提示したのはまぎれもなくフランクが初めてであるフランクはアクターネットワーク理論というものに拠りつつ社会物語学は行為者アクターとしての物語の働きを研究することであるというここでは当該の本の第一章The Capacities of Storiesと第二章Stories at Workをざっくり紹介したいそれから中上の物語論との簡単な比較をした上で安倍元首相銃撃事件に戻りたい

2.1.物語の力: The Capacities of Stories

 アーサー・フランク2011物語は生きているという息をしてさまざまなかたちで働いているその働きを実現するための能力が物語にはそなわっていてフランクはそのうちのいくつかを列挙することから議論をはじめている参考のために原文を引用しておくけれど読み飛ばしてもらってもまったく問題ない

  1. Trouble. Stories have the capacity to deal with human troubles, but also the capacity to make TROUBLE for humans.
  2. Character. Stories have the capacity to display and test people’s character.
  3. Point of view. Stories have the capacity to make one particular perspective not only
  4. plausible but compelling.
  5. Suspense. Stories make life dramatic and remind people that endings are never assured.
  6. Interpretive openness. Stories have the capacity to narrate events in ways that leave open the interpretation of what exactly happened and how to respond to it.
  7. Out of control. Stories are like the magic spell that Mickey Mouse creates in theSorcerer’s Apprenticesegment of the film Fantasia, when the enchanted broom keeps on bringing more and more water until the place is flooding. Stories have a capacity to act in ways their tellers did not anticipate.
  8. Inherent morality. Stories inform people’s sense of what counts as good and bad, of how to act and how not to act.
  9. Resonance. Stories echo other stories, with those echoes adding force to the present story. Stories are also told to be echoed in future stories. Stories summon up whole cultures.
  10. Symbiotic. Stories work with other things-first with people, but also with objects and with places.
  11. Shape-shifting. Stories change plots and characters to fit multiple circumstances, allowing many different people to locate themselves in the characters in those plots.
  12. Performative. Stories are not only performed; they perform. Basso quotes an informant, Benson Lewis, saying:Stories go to work on you like arrows.Stories do things; they act.
  13. Truth telling. Stories’capacity to report truths that have been enacted elsewhere is always morphing into their more distinct capacity to enact truths. These truths are not copies of an original. They are enactments in which something original comes to be, as if for the first time, in the full significance that the story gives it.
  14. Imagination. Stories have the capacity to arouse people’s imaginations; they make the unseen not only visible but compelling. Through imagination, stories arouse emotions.

 フランクはこういったキーワードをとおして物語にそなわった能力をとても具体的に論じているとはいえこのような列挙のかたちでは論としての収まりが悪いのでもうすこし包括的な表現を提案してもいるそこでジョン=ローやダナ・ハラウェイに倣いつつ社会物語学にとっての物語はmaterial-semiotic companionなのだという訳しにくい表現である。 「物質=記号的な相手パートナーとでも訳せるのかもしれないけれどここでは単にマテリアル=セミオティック・コンパニオンとカタカナにしてしまうこれがいったい何であるのかを手短に説明すると次のようになる

 第一にSymbioticShape-shiftingの項にも示されているとおり物語はさまざまな次元の形を持つという点で物質=記号的であるたとえば日本では刺青が入っているだけで銭湯に入れてもらえなかったりするそれは刺青という物理的な次元のしるしが記号的な次元に結びつきやくざ者の世界を呼び起こしてしまうような土壌があるからだと言える見方を変えれば見えないやくざ者の世界が物質的な粋となって見える刺青のかたちになったとも考えられるあるいは部落差別を例にとってもいい土地は単なる物理的な空間の広がりではありえない避けがたく意味づけがなされてしまうその結果ある土地の生まれだというだけで愛する人との結婚が許されなかったりするこのような物理的な次元と記号的な次元の仲介をするのが物語である物語はかたちを変えてどこにでもある

 第二に上述のTroubleOut of control」、 「Performativeの項にもあるとおり物語はものとしてひとの支配下にあるのではなくひとの手を離れておりひととの対等な相手パートナーとして存在しているこの語を通してフランクが言いたいのは物語がひとを作りひとが物語を作るということだこの相補的な関係を別のことばで言いかえると物語なしには人は存在しないしひとなしには物語は存在しないということになる英語にはinformという便利な動詞があるこれは単に情報を与えるという意味のほかにも形を与える」、 「命の息吹を吹きこむという意味もある物語はひとにひととしての生をふきこむ物語なくしてはひとは自分自身であることができないそれゆえフランクはひとと物語がいかによく付き合うことができるかということを第六章のHow Stories Can Be Good Companionsで論じることになるそして社会物語学の存在意義の一つは物語とよりよく生きることを考えることにあるという

2.2.物語の働き: Stories at Work

 フランクはマテリアル=セミオティック・コンパニオンである物語が具体的にどのように働きどのような結果をもたらすのかということについて章を割いて論じているそのなかでどのように物語はひとをそのひとたらしめるのかという問い、 「どのように物語はひととひとを結びつけるのかという問い、 「どのように物語はひとの生をよくしたり危険にしたりするのかという問いを設定し説得力のある議論を展開している特に一つ目の問いにおいてはルイ・アルチュセールピエール・ブルデューピエール・バイヤールの三者の仕事に拠りつつ独自の理論の構築を試みているそれをざっくりまとめると次のようになる

 まず物語は呼びかけを行うその呼びかけを感知できたりできなかったりすることによってひとはそのひと自身になることができる新聞にさまざまなニュースが載っているようにこの世界には物語があふれているしかしひとの関心アテンションは有限なのであらゆる物語に反応することはできないある種の物語のみを感知することができそこに共感や反発を覚えるほかの物語はそのとき後景に退いたり意識の網にかからなくなるたとえば自分にひとりの弟がいるとしてその弟から兄ちゃんと呼ばれその呼びかけに反応してしまう自分がいるこのとき自分はひとつの兄弟の物語を気づかずに生きてしまっていると言えるだろう。 「という不可分な単位=個人が与件としてあってそれが別の個人と兄弟という関係を結び兄という属性を帯びるのではなく兄としてはじめて自分が存在できるフランクはこのように物語にはひとのアイデンティティを形作る力があると考えた

 次にフランクはひとにはそれぞれの物語への感性や感度のようなものがあると考えたそれをナラティヴ・ハビトゥスと呼んでいるひとことでいえば趣味のことである自分の肌にあう物語もあればあわない物語もあるそういう肌感覚はさまざまな物語に触れていくうちに徐々に形作られてゆくそれはひとつのフィルターのようなものでもあるひとはフィルターとしての不定形の物語を生きていてその物語を通してほかのさまざまな物語の呼びかけを感知したりしなかったりするたとえば統一教会の教えを信じているひとは神や悪魔といった登場人物が出てくるような物語を生きているこういう二項対立からなる物語は楽だしハリウッド映画のように楽しいこのような物語が身についてくるというか板についてくるとひとはほかの物語も同様のかたちのなかで解釈するようになるかそのような解釈を許さない物語はそもそも無視するようになるそしてやがてそこから抜け出せなくなる物語がそのひとになってしまうその物語なしにはそのひとはそのひと自身でいられなくなるつけた仮面を引き剥がせば肉ごと取れてしまうカルトからの脱会の難しさはそういうところにもある

 物語には危険がつきものである前述のPoint of viewInherent moralityの項にもあるとおり物語はちょうど写真と同様にひとの視野を限定しひとを近視眼にすることでその視野の外にあるものを不可視にするもうすこし別の言葉で言えば物語はつねに自己中心的であるさらに言葉を変えれば物語は想像力を奪いひとをひとつの無知のなかに置く無知ゆえに人はなにかを知ることができるそしてフィルター機能をはたすナラティヴ・ハビトゥスによってひとがそのひと自身になることができるのである以上このような自己中心性から逃れることはできないこのような物語の限界について論じた上でフランクは物語とのよりよい付きあい方を探ろうとするそしてそのためには物語が制御不可能なものであること物語がつねに多様な解釈に開かれていることこの世界にはさまざまな物語に満ちていることなどを自覚することが重要だという

 以上がLetting Stories Breathe: A Socio-Narratologyの核になる部分のあらましであるここでの話の流れ的にはこれで十分なのだけど要約では伝わらないおもしろさとわかりやすさがあるので和訳が出版されるといいと思うフランクの提示する社会物語学は従来の宗教学や社会学では扱いきれなかったところをすくいあげることができる特にフランク自身が述べているように単なる記述的な仕事に徹するのではなく物語とよりよく生きるという規範的な目標を掲げていることも重要であるその是非はともかくカルトをはじめとする物語をおぞましいものとして切り捨てたり目を背けたりするのではなくもっと別のかたちで付きあう道筋を示してくれているそしてカルトの問題を社会学や文学をはじめとする様々な分野へと接続するすべを教えてくれてもいる

 いずれにしてもフランクのこのような仕事を紹介した上で自分が言いたいのは日本では 1980 年代に中上健次がすでに同じようなことを論じていたということそれでいてもっと根本的な問題に取りくもうとしていたということだそして戦後の日本のあり方や天皇制差別について考えていたという点では安倍元首相の死によって噴きあがった問題を先取りしていた作家であるとも言えるだろうこれから中上の物語論の一部を紹介したい

3.中上健次による社会物語学

 中上健次は 1980 年代に小説家として名を馳せた人だった晩年にはノーベル賞の候補として目されてもいたしかしちょうど文壇文学の衰退とも重なるようにして 46 歳の若さで夭折してからは一部のコアな批評家やファンの間でのみもてはやされるような存在になったかくいう僕も中上の小説には興味がない個人的には中上はむしろ思想家として再評価されるべきだと考えている特に彼がで芥川賞をとった 1976 年ごろから昭和の終わりの 1989 年にかけて物語とは何かという問いに向きあいつづけたということはもっと見直されてもいいと思うこの問いには中上が日本語の作家であり被差別部落出身の作家であったということが大きな意味を持つことになるなぜなら中上は第一に物語という和語の豊かさや物語という営みの長い伝統を甘受することができたし第二に物語を部落差別の問題として身をもって生きることができたからだ

 これまではフランクのいうstoryを断りもなく物語と訳してきたしそれで問題はないのだけれどその反対に中上のいう物語storyに置きかえることは絶対にできないというのもフランクがstoryをある種のもの / 物 / 者」、 ひとと対をなすような行為者アクターとして理解していたのに対し中上は物語をひとつのプロセスと捉えていた定義上物語は物語ることでもあり物語られたものでもあるこれは語るの名詞形の語りが組みあわされているという単語の成り立ちからきている。 「storyという語にはない中上はこの二重性に導かれる形で物語は差延であり差別であるというようなことを述べるのだけどここでは立ちいらないただひとつ重要なのは中上はひとの存在そのものが差別=物語の産物であると考えひとと物語という対立軸を設定することはなかったということであるもっといえばそのようにひとと物語を対置するアーサー・フランクのような発想それ自体をツメの甘い物語のひとつとして切り捨てている中上にとっては物語はものとして対象化できるものではなく一つの避けようもない与件いわば重力のようなものとしてあるのだったそしてこのような感性は彼が被差別部落出身だったこととも無縁ではないひとは物語に呼びかけられる以前に物語のなかに生まれ落ちてしまうものだからだ

 中上は物語との付きあい方を考えるというような発想をするかわりに抜けだすことのできない物語のなかに存在してしまっていることの意味を問いとして掘りさげようとしたそこで実にさまざまなことを論じているのだけれどそのうちの特に二つの論点をここでは紹介しておきたい一つは物語はポリフォニックであるということもう一つは物語はボーダーを設定するということださらに小難しい話になってしまうのだけど物語の系譜現代小説の方法といったテキストのなかに中上にしてはそれなりに丁寧に書かれていることなのでよければ原書をあたってほしい

 さて第一に物語はポリフォニックであるということはフランクのいうResonanceInterpretive opennessに通じるものがあるバフチンのいうポリフォニーとは似て非なる概念だ)。 中上がポリフォニーという表現で言おうとしたのは物語は 文字通りの一義的な意味デノテーションではなく 含意=倍音コノテーションの重なりによってできているということだ多層的な意味がある一つの解釈に収まることはないそのため物語はつねに別の物語の比喩として読むことができるその典型が風刺であるあるいは聖書の物語なにか別のものの変奏としてあらわれるたとえば統一教会の教義によれば蛇にそそのかされたイヴが知恵の実を食べたことはイヴと天使長との性交をあらわしていると考えることができるこのことを言いかえれば物語は匿名的であり流動的であるということでもあるいわば影のようなものだある特定のひとの影なのだと思っていたらいつのまにか別のひとの影に変わっているだれの影とはいえないそれは騙ることかこつけることでもあるたとえば雨宮純さんはあなたを陰謀論者にする言葉のなかで自然派でスピリチュアルなヒーラーかつ陰謀論者でさらにはマルチ商法の販売員であることはよくあることなのだという実際僕の母もそうなのだったさらにいえばトランプ安倍天皇制を支持する右派でもあったこれらは一見関係がないように見えるけれどもある意味ではどの物語も別の物語の変異種バリアントにすぎない物語論的な分析をすればかならず共通する構造が見えてくるフランクの議論に引きつけていえばどれもフィルターとしてのナラティヴ・ハビトゥスとなんらかの親和性を持つかたちの物語なのだ

 第二に物語はボーダーを設定する中上にとってこれは物語は差別するということと同義なのだけどフランクのPoint of viewの項に引きつけていえば物語は視る者視られる者」、 あるいは物語る者物語られる者の区別を立ちあげその枠組みに入り切らないものをすべて視野の外に排除することによって成りたっているそのため物語の内部にボーダーが引かれているばかりでなく物語もそれ自体で一つのボーダーになっている中上の文学的な目論見の一つはこのボーダーといかに戯れるのかということにあった晩年になって三島由紀夫を評価するようになるのは三島にボーダーとの戯れの才能を見出したためなのだけれどそれはようするに山口昌男らの議論に学びつつ三島をひとりのトリックスターとして理解するということでもあったトリックスターというのは物語における両義的な側面を持った存在のことであるそのためトリックスターはボーダーを破壊したり創造したりすることができるフランクはそもそも物語それ自体がトリックスターであるというそのフランクがトリックスターの一例として北欧神話のロキに触れ次のような物語を紹介している

 北欧神話にはバルドルという光の神が登場するオーディンとフリッグの間に生まれたこの男神が悪夢に怯えはじめることから物語ははじまる息子のことを心配した母のフリッグは世界中のあらゆるものに呼びかけ彼を傷つけることのないように誓わせたこうしてバルドルは鉄壁の肉体を持つことになったあるいはこういってよければ文字通り無敵の人になったそれを祝うために神々が宴を開きその余興としてありとあらゆる武器をバルドルに投げつけてみた実際バルドルには傷一つつかなかったそれを面白く思わなかったのがトリックスターのロキであるロキは悪知恵を働かせてフリッグから秘密を聞きだしたヤドリギだけには誓いをさせずにいたのだったロキはヤドリギを槍の先端につけるとバルドルの弟であり盲目の神であるヘズをたぶらかし兄を槍で突かさせたバルドルあっけなく死んだというような話だ

 フランクは当初トリックスターであるロキに純粋な悪の化身の姿を見ていたたしかに一見するとロキは善を欠いているところが後にルイス・ハイドの説を知り考えを改めることになるハイドによれば強固な善悪の二分法を持つキリスト教の影響下においてはバルドルを殺すロキは絶対的な悪にしかならないしかしキリスト教以前にはもっと別の解釈の形があったのではないかというそこでハイドが読みとるのは息子の不死を求めた母のフリッグの罪である不死は自然の摂理に反するこの世界から個体の死がなくなれば自然は新陳代謝を失うことになる個体が滅びつづけているからこそ世界は浄められているひとつひとつの死連鎖するおびただしい数の死がこのいまもこの世界を崩壊の危機から救ってくれているそのような新陳代謝がとまれば世界は停滞し不浄に満ちあふれることになるそのような状況下で世界のあるべき姿を回復したのが文化英雄としてのロキだったのではないかそう考えるとロキには善悪の二分法をこえるような両義性を備えていることがわかるそれこそがロキがトリックスターである所以であるというようなことをハイドは考えたのだった

 どうしてこの話を持ち出したのかと言えばまさにこのようなトリックスターへの関心が中上の物語論の中核にあるからだ中上自身トリックスターだったというのも中上の母親には読み書きができなかったことに象徴されているように中上はもともと文字を持たなかった被差別部落世界と文学の世界との亀裂のなかに身をおいていた二つの世界のどちら側にとっても中上は部外者として振る舞うことになるそして中上自身は彼が天皇と呼ぶ存在にも同様のトリックスター性を見出すことになる中上には部落民である自分自身のことを負の天皇と考えたりあるいは天皇もまた部落民にすぎないと考えていた節があるこのように発想してみることで中上は物語にポリフォニーを聴きとり物語のボーダーと戯れることができたそしてそのような試みのなかから創作や思考の糧を見出すことができるような作家だったここでは最後に中上の考えていたことを導きの糸にしつつ今回の事件を僕なりの仕方で読みなおしてみたい

4.トリックスターとしての文鮮明と山上徹也

 安倍元首相の死の余波にふるえながら文鮮明や山上徹也さんのことに関心を寄せるなかで気にかかったことが一つある山上さんにとっては不本意なことなのかもしれないけれどいくつかの点で両者はよく似ているということだまず二人は次男坊であるつまり長兄がいる文鮮明の兄は文龍壽精神に異常をきたしていたという武田吉郎の聖地定州によれば悪魔サタンに取り憑かれていたらしくあるときは包丁を持ちだしてキリスト教徒は皆殺しにしてやるなどと叫びだしたこともあったという兄はもともと儒教を信じていた家族がキリスト教に改宗するのを快く思っていなかったようだそれでキリスト教に恨みを持ったことで狂人扱いをされたという一面もあったのかもしれないエクソシストも駆り出されたようだここには山上さんの兄を思わせるものがある山上さんの兄も包丁を手に教団の幹部のもとに押しかけ殺そうとしているそれが未遂に終わると精神病院に隔離されベッドに縛りつけられたさもなくばよこしまな魂が人殺しをしてしまうそんな山上さんの兄は結局退院後に自分を殺すことになったのだったさらに中上健次にも長兄がいたということもここに付け加えておかなければならない中上の兄もまた気を病み刃物を手に大立ち回りを演じた末に自殺しているそれが中上の物語論の出発点のひとつにあるといってもいい死ななければならなかったのはなぜ自分ではなく兄のほうだったのか

 精神を患った兄を持つ三人の次男坊このうちの文鮮明と山上さんが中上健次と比べて大きく異ることが一つあるそれは二人とも舌足らずであるということだ文鮮明はそのような弱点を持ち前の性欲と山師的はったりによってカバーしたとも考えられる一方山上さんはそのような突破口を見いだせないままいわゆる無敵の人状態に陥ったその点二人の境遇はあまりにも対照的であるそれでもなお二人には今回の事件を読み解く上できわめて重要な共通点があるそれは二人とも日本という神なき不感症の国に穴を穿つことのできた類まれなトリックスターだということだその点1970 年に天皇の身代わりとして自殺した三島由紀夫にも通じるものがあるそして結局のところこの三者のどのふるまいも戦後の日本の浅はかさを映す鏡にほかならないのではないかという疑問もよぎる

 以前文鮮明のこと——負の現人神のなかで述べたようにある一面においては文鮮明はGHQによって生け捕りにされた天皇にかわって極東に再臨する現人神となり八紘一宇のための闘争を継続したという見方ができるそもそも文鮮明自身1920 年に神国日本に生まれた神の子であり戦後も軍国行進曲の替え歌としての賛美歌を熱唱するような男万歳三唱を信者にさせてかつての天皇を気取るような男だったそれと同時に天皇の暗殺を企てたという過去も持っているそれだけ父なるものの物語の呼びかけに強く反応していたということなのだろう冷戦構造が極東に膠着する 1950 年代のなかばにさしかかると文鮮明は列島を彼自身の天一国に併合するための野心を抱くようになるそこで崔奉春チェボンジュン西川勝を日本に密航させ1959 年に日本統一教会を立ちあげたそして三島が割腹自殺を遂げた 1970 年以降高度経済成長のピークをむかえるころに戦後生まれの日本人の信徒を急速に獲得してゆくことになる

 このときに文鮮明が吹きこんだ物語の肝はこの世界には父なる神がいてその神は深い悲しみのような恨みの念を抱えていらっしゃるということだった当時の日本にはそんな神の呼びかけに応える若者たちの魂があり天一国建設の尖兵である神の子へと次々と転身していったなぜどのようにしてそんなことが可能だったのかという問いには幾通りもの答えが考えられるいずれにしても確かなのはそれは戦中の極東を覆った物語の変異種バリアントとしてあったということだその物語の核には父なるものを中心とした国家という儒教的な観念や父系の血統主義がある1945 年に解体される国家神道をベースにした国民国家の物語がそれほどまでに根強く残り新たな現人神が再臨するための土壌を用意していたということなのかもしれない天一国の物語という病原体は日米韓の右派の思惑に乗じるかたちでひそかに列島へ侵入し大きな抵抗を受けないまま感染拡大し半島と列島を結びつける一つの暗い穴を穿つことになる

 この穴は政界や経済界を結ぶパイプの役割を果たしただけでなく極東の歴史の軋みや痛苦を感知させるものにもなった戦後生まれの若者は半島で虐げられてきた者たちたとえば従軍慰安婦たちの苦しみを知らない無知ゆえに免疫もない文鮮明はその痛苦に悲しみの神の摂理の物語という形を与えることができたそして極東に再臨する現人神となり神なき国の若者に呼びかけ八紘一宇の変奏としての物語をいまいちど吹きこみ神の子としての形を与えなおすことができたその点すくなくとも物語に呼びかけられた者たちにとっては文鮮明はたしかに聖なる存在なのだったと言わざるをえないもちろん統一教会の創始者のひとりである朴正華がその著書六マリアの悲劇の副題に真のサタンは文鮮明だ !!という文言を掲げていることからも明らかなようにひたすら邪悪な存在でもあったそしてまさにこの両義性こそ文鮮明を偉大なトリックスターたらしめている文鮮明その人は単なる猥褻な山師にすぎないしその主張そのものはあまりにも稚拙なのだけどさまざまな偶然の重なりの結果トリックスターの役目を担わされ負の現人神として祭りあげられることになったのだった

 トリックスターとしての文鮮明の働きのひとつをひとことでいえば戦中の日本は善良なる神の国などでは決してなく大きな過ちを犯した悪魔サタンの国であることを戦争を知らない若者の魂に叩きこんだということである想像力や知性によってではなく生きとし生けるものの持つ痛覚センシビリティをとおしてある種の強姦魔として文鮮明は戦後生まれの若者のやわらかなナラティヴ・ハビトゥスに穴を開けたこれは従来の物語に対する破壊でもあり新しい物語の創出でもあるまたそのような強姦行為の果てに産みおとされた僕自身に引きつけていえば文鮮明はさらに別の点でもトリックスターである物語のマテリアル=セミオティックな働きによって僕は痛覚をもった肉を与えられこの世に生を受けた天一国の理想の粋のような存在であるその点文鮮明は紛れもなく父なる神であるというほかないそれと同時にこの穢れた血を持つ化け物を産み出したおぞましい存在でもあるのだったこのように両義的な存在を一つ物語の枠組みに押しこめて理解するのは浅はかなことである北欧神話のロキがキリスト教的な解釈を逃れひとつの文化英雄としての側面を持ちあわせてしまうようにトリックスターを抑圧するのは容易なことではない安易に読めば読み手のほうがひとつの物語のボーダーに囚われその視野の狭さを露呈することになる朴正華が文鮮明を救世主か悪魔の二分法本物と偽物の二分法のなかでしか理解できず結局のところ統一教会の物語の枠組みのなかにとどまり続けその視野狭窄を強固にすることしかできなかったように

 ひるがえって山上さんの場合は文鮮明のような性欲の塊とは違いどちらかといえば温和で善良な人柄だったのではないかと想像するそんな山上さんが光の神バルドルを殺害したロキのようにトリックスターの邪悪な役割を担わされることになった不正には物語的なものと非物語的なものがある前者の代表例は殺人である明確な終わりがあるからひとつの事件になるそれに対して後者は人目を引かない始まりも終わりもないそのことに対して山上さんは憤っていたのかもしれない後者の例は一線を超えない形で行われる陰湿ないじめであるこの国が戦後にしてきたことをいくつか挙げてみるだけでそのような不正を例証できる弱い立場のひとを生かす殺さず利用するたとえば外国人を奴隷状態に置く。 「女性にしわ寄せのための無償労働を押しつける半殺しである統一教会がしてきたことは結局のところ信者の半殺しだったのではないか殺すのではなく献金献身をさせる搾取をする一世はそういう半殺しの目にあうのをみずから望んだのだとしてもさらに非力な子供の二世までもがなぜ同じ目にあわなければならないのか

 非物語的な不正二世は物語としての豊かささえ奪われているただ端的に貧しい」。 単に経済資本のことを言っているだけではない文化資本や社会関係資本をも収奪されているたとえば僕の両親には趣味がない僕は習い事にも通わせてもらなえなかった歯磨きの仕方さえ教えてもらえなかったまた社会関係資本の貧しさについていえば両親には友達がいなかった近所付きあいも親族付きあいもなかった教団の外を出ればだれも親しく付きあえる人がいなかったどのように人付き合いをしてどのように世渡りをすればいいのかを両親が僕に教えてくれることはなかったカルトに違和感を抱いた二世は孤立という貧しさのなかに置かれる親からも教団からも地域社会からも孤立した二世に行き場所はないそれは豊かな経験ではないただ端的に貧しいそして貧しさが貧しさを呼ぶ文化経済社会関係資本を持たないまま無敵の人への道を歩むことになるちなみに資本格差が引くボーダーはときどき愛によって乗り越えることができるたとえば結婚によって社会的移動が起こることがあると言われているしかし統一教会は二世が愛によってボーダーを超えることも禁じている合同結婚式によって搾取の構造を再生産しようとする統一教会を信じていなかった僕自身も二世としての自分の貧しさをずっと悲観してきたお金もない教養もない友達もいないもう 30 余年以上も魂が疼いているそのような非物語的な貧しさを物語的なものへと転化する意志がトリックスターの山上徹也にはあったのかもしれない他のあらゆる点で貧しくてもすくなくとも物語としては豊かになれるそういう山上さんを物語へと仕むけた殺人へと駆りたてたこの日本国それもまた物語である

 事件の起きた 7 月 8 日といえば二つのかけ離れた星が急接近すると言われる日天に願いを託す日の翌日のことである祈るような気持ちもあったのだろうと思うと胸が痛む加害者となり被害者となる二つの星が奈良市の交差点で五メートルの距離にまで接近した取りだされた手製の火器から発射された豆粒のような鉄の玉がその距離を埋め肉を食い破り血管を裂き血を吹かせた山上さんの人生が老いた権力者の人生に鋭く交差した瞬間のことだったこのようにしてヤドリギのように非力でありそれゆえに無敵の人でもあった山上さんは豆粒大の穴を穿つことで神なき不感症の国である日本に愉楽と痛苦とを与えた血祭りにあげられたひとりのひとの死が不浄な世界を浄めた穿たれた穴からさまざまな膿があふれ凝りかたまっていたものが解けてゆくトリックスターの使命の一つは行き詰まった世界を活気づけ世界を崩壊の危機から救うことにある言いかえればトリックスターはひとつのシステムが危機に瀕しているしるしでもありシステムがまだ崩壊を免れるだけの底力を残していたということの証左でもある

 英雄というものは場合によってはトリックスターでありえるしかしトリックスターが英雄であるとはかぎらないそして山上さんは英雄ではない英雄という乱暴な言葉づかいによって見えなくなるが多くある殺人者や加害者あるいはテロといった語によっても見えなくなるものがあるまた安倍元首相銃撃事件によって引き起こされた騒動はまさに山上さんの目論見どおりだと考えるむきもあるけれどそのように考えることで見失われるものもあるもちろん自害した三島がそうだったようにそれなりの計算は働いていたのだろうしかしフランクがOut of controlの項で述べているように物語はひとの手を離れているパンドラの箱が開くためのひとつのきっかけとして事件を理解することは不可能ではないけれど同時に忘れてはならないのは山上さんもまた物語の登場人物のひとりに過ぎないということだ物語が山上さんをそそのかした山上さんは物語の呼びかけに素直に応えただけなのだようするに山上さんはたしかにトリックスターではあるけれども物語にのせられたという点ではロキにそそのかされた盲目の神ヘズ長兄殺しをした次男坊の神としても読まれなければならないということだ

 さらに山上さんは物語に導かれた果てにほかのさまざまな物語のボーダーにも出会い抵触することになる刑法や倫理社会道徳をはじめとする物語の力だ山上さんはそれらの物語のなかでそれぞれの仕方で裁かれそれぞれの場所を与えられそこでさまざまな不如意を知ることになるだろういずれにしてもここで僕が中上にならって言いたいのは物語はつねにポリフォニックであるということそして物語はボーダーを設定するゆえにつねにその外側があるということだこの事件は単なる政治とカルトの結びつきの問題では決してない表面的にはそのような側面ばかりが取沙汰されているのだとしてもひとたび見方を変えればそれまでとはまったく異なるあらたな輝きを物語は放つそして負った傷の浅さゆえにいまはまだしかと気づかないのだとしてもほんとうはだれしもにとってもあまりに切実な物語でもあるのだそれゆえだれしもが神の子として産みおとされた二世の痛苦を感知できるだれしもがもうひとりの山上徹也でもありえたはずだ

 物語の文脈においてはかけがえのないひとりのひとの死もまた一つの物語論的な役目を担ってしまうという身も蓋もない事実があるそれは一面において死を矮小化するがそれと同時に死を豊かにもするそして死が物語を豊かにもする死はけっして物語を黙らせることはないなぜなら物語は生者の側にあるからだ山上さんが安倍元首相を撃っていなければこの文章を僕が書くことはなかっただろうこの一年はほんとうに希死念慮がひどかったしかし安倍元首相の死の余波を受けて震えるなかでこんこんとこみ上げてくるものがありすぐにそれが深い感謝の念であり勇気でもあるということに気づいた罪深く不謹慎なことに死によって勇気づけられる自分がいた

 僕は教団に対して明確な憎しみを懐きつづけてきたしいまもまだ殺意に近いものを抱いているとつぜん自分の存在そのものに対して自分のものではないような怒りがこみあげてくることがある山上さんと同じトリックスターの役割を担わされていたのはこの僕自身だったのかもしれないと思うしかし気づけば山上さんがかわりに引き受け山上さんがかわりに裁かれることになったそのことを何度もふしぎに思ったしきっとこれからもそう思いつづけることになるしかしそう思うのは単に僕が統一教会の神の子という化け物として生きてきたというあまりにもとるにたりない理由からではないそうではなくひとえにいつ死んでもおかしくないはずの自分がいまだに生き延びていて自分のかわりに死んでゆくひとたちのおびただしい死の上にやすらかなあぐらをかいていてそれゆえにまだひとの痛みを感知することができる存在であり日本国という家に生まれいまもこうして日本語のなかにいるあなたと同じ穴の狢だからなのだ今回の事件の背景には山上家の事情があったそれが日本国という家の問題にすり替わっただけなのだ山上さんが日本国からの家出を果たしていればもっと違った景色が見えたかもしれないとも思う


宗教二世。 ストラスブールという町で社会物語学のことを考えています。 中上健次についての博士論文を書いています。