杜 昌彦

GONZO

第24話: 他人の声

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2021.03.31

男のマスクは鼻を覆っていなかった姫川尊君だネいやァ探したよと馬面で両目のやけに離れたその男はいい、 「公安の箱沼と自称して後頭部に左手を当てて浅くお辞儀しながらごめんネ名刺は切らしちゃってと弁解したコーアンノハコヌマといわれてもピンとこず鍵を手にしたまま身をこわばらせ胡乱うろんげに眉根を寄せるミコトに男は国民の安全を守る正義の味方ヨと目を細めてにこやかに説明したのだがいかにもとってつけたこのつくり笑いがいっそう不信を招いたミコトは無視も検討したが解錠して扉をひらくなり力尽くで押し入られる危険が高すぎると判断した正体も住居も知られたからには逃れようがない肩に提げた帆布の鞄を意識したこの距離ではカッターナイフを探り当てる前に手首を掴まれるいずれ衣裳を細工してガータに鞘を取りつけようと決めた備えあれば憂いなし人質でありながらお尋ね者の身の上であるのはまちがいないのだその自覚が薄れてきたのを悔いた
 暴行され連行されるのかその場で殺害されるのかわからないがただではやられまいせめて睾丸に蹴りでもくれてやろうとミコトは向き直り相手を睨みつけた垢じみて擦り切れた茶色のツイード地ジャケット紐タイ灰色の大きすぎるダブルのスラックス手入れをしたことのなさそうな靴といった身なりといい品のないつくり笑いといいそれでいて油断のなさそうな目つきといい立ち居ぶるまいから語尾にカタカナを感じさせる口調に至るまでいかにも昭和のうさん臭さだなとミコトは思ったうさん臭さを昭和風に表現したらこんな男になりそうだそうツンケンせずにおじさんとちょっとお話しようヨそこのお店でお茶でもしながらサとその不審者はねちっこくいい募った御せる相手と見くびられたとミコトは感じた確かに体格差は否めない相手は五十代後半と若くはないが筋肉はまだ衰えておらぬように見えたしこちらは小柄で痩せており絵筆より重いものは持たずに暮らしてきたしかし安く値踏みされたのはそれ以上に容姿のせいだと理解して怒りをおぼえた
 装いによって世の男たちの態度が激変するのをミコトは知っていた道路やアーケード街や地下鉄の構内を歩いているときさしたる混雑でもなく道幅にも余裕があるのにわざわざ肩でぶつかってきて舌打ちをする男がいる中年以上の年寄りに多かったが若いのもいた男装をしていた時代にはそんな意味不明な暴力が存在するとは夢にも思わなかった凝った衣裳のせいか鋭い目つきのせいか膚に触れられることこそなかったが刃物で鞄やスカートの裾を裂かれるのは幾たびも経験した一度など急に尻に焼けつくような痛みを感じて帰宅し服をあらためると異臭のする液体で濡れていたすぐにシャワーを浴びて火傷は痕を残さなかったが黒ドレスはだめになったし何をされたのかと気味の悪さは残った警察に訴えても侮辱されるばかりで相手にされなかった家族や使用人に相談する発想はもとよりなかったあべこべに叱責されるのが明白だったからだ自分は自分でありただ好きなものを着ているだけだったが必要も関心もない区分をかくも意識するよう強いられる社会にあっては外部へぶら下がって自己主張したがるふたつの器官への嫌悪と忌避感は拭えなかったそして目前の他者は明らかにその信用ならぬ器官を備えていた
 こりゃ参ったナンパと思われちゃったかナおじさんはミコト君とお友だちになりたいだけなんだヨそりゃもうずっと探したからネと自称公安の箱沼はまたも後頭部に手を当てて笑ったそう聞かされて安心する阿呆がどこにいるのだろうそれともわざと怖がらせようとしているのかと訝りながら僕はあなたに用がない知らない大人と話しちゃいけないといわれてるしとミコトはいった自称公安の箱沼はつくり笑いを崩さずだれにいわれたのかナお父さんにそれとも徳子さんに? と殺害された家政婦の名を口にし周到な身辺調査を臭わせておいてからそれとも梶元権蔵にかナと突きつけるように低くいって鋭く見透かす目つきをしただれだろうと関係ないでしょほっといてよとミコトは応じたそうはいかないヨテレビでもネットでも大騒ぎになってるでショ国民を護るのはあたしらの務めなんでネと自称公安の箱沼は朗らかにいったあれだけ殺しといてそのいいぐさはないわとミコトはいい返した自称公安の箱沼は細かった目を今度は丸くしたとんでもない疑ってくれちゃ困るヨあの連中とは部署が違うんだといってまた笑顔に戻りおじさんは味方だヨミコト君を助けたいのサあたしらにもいろいろと派閥や事情があってネここにも内緒で来てるんだといった喋ったら喉が渇いちゃった立ち話もなんだしさァ行こうヨと慣れ慣れしくミコトの肩に手をまわしたマスク越しにすら口臭を感じたミコトは俯いて従った男の手の内に命運を握られたのを悟った断れば保護と称して即座に逮捕されるかもしくは抵抗したとして殺害されるわからぬのは引き換えに相手が何を得ようとしているかだ答えを得たのは取り返しのつかぬ決断をしたずっと後だった
 自称公安は近所の喫茶店でまっすぐ奥の席へ向かいミコトを出入口に背を向けるように座らせて向かい合ったゴンゾと同じやり方だった肥った家庭教師はいつだってそのように座れる店を好んだこんなときになぜあいつを思い出すのかとミコトは悔しく思った自称公安が給仕を呼びミコトは相手に払わせるつもりでパフェを注文した最後かもしれぬなら好きなものを食べてやろうと思った自称公安の箱沼は一瞬狼狽してから感嘆するように声をあげて笑いいいねェ若者はそうでなくちゃァと身を乗り出しまたしても慣れ慣れしくミコトの肩へ手を伸ばしてばんばんと叩いたそれからコーヒーを啜るためにマスクを降ろした白いものの混じる無精ひげと意外に整った歯が露出したミコトは男を無視してパフェにとりかかった果物で飾られた白い塔を崩さずに掘り進めるのは繊細な技術が要求された消費によって完成される芸術のようなものでだからこそあえて困難に構築されているその作業を自称公安は胸ポケットの潰れたハイライトを指先でいじりながら観察したミコトは苛立って手を止めえばいいじゃんと声を荒げた箱沼は思いがけぬものを突きつけられたかのようにぎょっとなりそれからニッタリと笑って煙草をくわえて火をつけた給仕が飛んできてお客様といった何? と自称公安は煩わしげに相手を見上げたミコトは一心にパフェを食べつづけた給仕は何もいえずに去ったカウンターの奥で店長らしき男といい争う声が聞こえた
 強要したはずの会話を箱沼は一向に切り出さずただニヤついて掘削作業を見守ったミコトは一瞬たりとも獲物から顔を上げなかったが視界の端で相手の表情はずっと意識していたあのホテルで僕が初めて人間を殺したときのあいつの目つきと同じだと思った最後の地層が撤去され長い匙がグラスの底を突いた自称公安はいい喰いっぷりだねェと拍手して褒めたそれから上衣の内ポケットからボールペンを抜いて紙ナプキンに電話番号を書きつけ気が向いたら連絡してヨと手渡してよこしたそんな伝え方があるとはミコトは思いもしなかったホテルでの騒動に懲りて携帯はシムを抜いてワイファイ専用にしていたが持ち歩くことはおろか触れることさえなくなっていたゴンゾから貸し与えられたパソコンさえ滅多に起動しなかった古本屋の一冊十円の棚で野ざらしになっていた文庫本やスケッチブックや絵筆で生活は満ち足りていた算額を神社へ奉納するかのような投稿の習慣は描いたばかりのスケッチを女に贈ることに取って代わられていた愉しかったヨまた話そうネと箱沼はにこやかに手を振って去ったパフェを奢られただけだったのにミコトは拍子抜けした奇妙な夢でも見たような心地でアパートへ引き返す途中コンビニの店先でゴミ箱が目にとまったミコトは掌中の紙ナプキンを見つめたそしてそれを帆布の鞄へ突っ込んだ
 翌日いつもの居酒屋で田酒を啜りながらゴンゾはなんだか煙草臭いなと独り言のように呟いたミコトは聞こえなかったふりをした黒ドレスはクリーニングに出したしパーカとジーンズで男装をしていたので油断していた帆布の鞄に染みついたのかもしれなかった食事のあいだも湯に浸かるあいだもその話題は蒸し返されなかった実家が襲撃されたのはこの男のせいではないとはいえ見知らぬ土地へ拉致されて共犯にまで仕立て上げられていながらなおかつ後ろめたく感じさせられることにミコトは業腹だった逢っていない平日に何をしているかはゴンゾだって話題にしないのだ訊いたところで教えてはもらえまいしそもそも口をひらけば罵り合いになるふたりに会話らしい会話などなかったミコトは家庭教師の酒を奪って呷りあんのじょう罵倒されまわる視界に抗いながら罵倒し返ししまいに酔い潰れて隣の部屋へ泊まった薄い壁を隔てて生活音がほぼ聞こえぬのに気づいてはいたがあらかじめ家具や家電が用意されていたミコトの部屋とは異なり寝台がひとつあるきりの殺風景な部屋だった次の月曜からミコトは女の家へ通いはじめた慣れぬ肖像画に苦戦し住居を特定された事実を忘れかけた木曜自称公安の箱沼はまたひょいと現れて部屋へ戻ろうとしたミコトへ声をかけたそれからこの男ともゴンゾに隠れて逢うようになった
 三人もの他人と定期的に会合する習慣ができたのは姫川尊の人生で初めてのことだった離れになかば軟禁されたかつての生活ではウェブ上でも学校でも会話を交わす相手などなくたまに顔を合わせる家族のほかには何を考えているかわからぬ使用人たちしか見ることはなかったそれがいまでは自分を拉致した大量殺人犯正気とは思えぬ年上の女それに国家権力に属するかのように称してつきまとう得体の知れぬ男といういかがわしい顔ぶれと日替わりで逢っている箱沼だけはあとのふたりを知っている口ぶりだがゴンゾも女もほかにも相手がいるとは知らぬはずだし箱沼にしても女との直接の面識はなさそうだ週に何度かは女に誘われて夕食を共にしたり家に泊まったりもするようになった絵をほしがる女も謎だが箱沼の目的もわからなかったミコトが品書きのパフェを右から左へと日に一品ずつ攻略するあいだ自称公安は何ら探りを入れるでもなく天気や競馬や芸能人の噂話をひとりで陽気に喋りつづけた一度思いきってミコトが尋ねると箱沼はおじさんはあの男を昔からよく知っているんだよとだけいいそれ以上は説明せずに話題を変えた
 ミコトの心に迷いが生じたもとよりゴンゾを信用したわけではない一緒にいればいつか殺されるだろうとも思っていたいつでも逃げ出せるがその気にもならなかった選ばされたとか学習性無力感だとか世間は評するだろうが自ら選んだつもりでいた結局のところミコトはこの生活が気に入っていたのだかといって目前のだれともしれぬこの男の国民の安全を守る云々の真偽も確かめようがないもし本当ならパフェを奢って無駄話をするだけに金と時間と労力を費やすはずがないではないかかといって嘘なら嘘でやはりそれだけの動機がないことになる結局はこいつも容姿が目当てなのか殺し屋ばかりではなく人質たる自分もまた追われる身であり人となりに関心があるかのようにふるまう自称公安も年上の女も実際にはリボンや黒ドレスや網タイツやガータやエナメル靴で装ったこの容姿に憶えのない幻影を勝手に見出しているだけなのだしかしそれだけのために特殊部隊が個人宅を襲撃するはずもないマスクを降ろして喋る男に肥った男が重なって会話が脳裏に再生される救出に訪れたと主張しながら武装警官は人質にも銃口を向けた家庭教師にそう指摘されてみれば確かに思惑に沿わねばあっさり殺害して報道向けに話を捏造するつもりだったとしか思われないもう何もわからないそしてもっとも理解できず薄気味が悪いのは何の益にもならぬのに他人を満たす芝居をつづける自分だった
 パフェは食べ飽きたとミコトは告げた箱沼はゴンゾの名を最初に持ちだしたときと同じよこしまな目つきで笑った


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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