杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第4回: Rock In This Pocket

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.23

 半年前の通告について執拗に繰り返す大家の言葉はシュメール語の祝詞のように意味をなさなかった。着信に気づいてはいたが家賃を滞納した憶えはないので明日香は気にも留めなかった。この現代によもや店子の了承も得ずに取り壊しを強行する大家がいるとは思わなかったし、それが自分の住まうアパートの大家だとはなおさら予想だにしなかった。
 郵便受けに投げ込まれるのはチラシやダイレクトメールの類、もしくは宗教や風俗の勧誘のみと決めつけていた。メールやソーシャルメディアで事足りるのにゴミ箱へ直行するだけの代物をわざわざ森林や石油などの資源を使って印刷し運搬する意味がわからない。当然一顧だにせずに棄てていた。
 大家はいいたいことをいいたいだけいうと肩を怒らせて鼻息も荒く立ち去った。コールセンターに勤めて忙しくなる数年前まではそれなりに良好な関係を保てていたと思うのだがもう二度と逢うこともない。解体工事はほどなく中断され、作業服の男たちは明日香に無遠慮な視線を浴びせながら車に乗り込んで去った。家財道具の山とともに明日香は路上に取り残された。
 混乱して頭が働かず何をどうすればいいのかわからなかった。アパートの残骸と古代の首長竜を思わせる重機の影を背にして茫然と佇んだ。仕事帰りの会社員や学生がじろじろと見つめて通り過ぎた。周囲の民家から夕食の匂いがしてテレビの音が聞こえた。あの明かりの向こうにはそれぞれの家庭の暮らしがあるのだろう。明日香はジャック・タチ監督作の一場面を思い描いた。断面図のような建物で父親が寛いで夕食をとり、母親が給仕し、十代の娘がソファでテレビを見ている。言葉や知識としては知っている一家団欒を明日香はうまく想像できなかった。
 知能も社会経験も足りない学生へ向けて投げ込まれるあの愛らしいグリーティングカードに少しでも関心を向けていればよかった。そうしたら通告書にも気づいたはずだ。ああいう職場ならわけあり女のために仮住まいを斡旋してくれたりしないだろうか。男たちの下の世話はいつだって魚を捌くのに似た労働に思えた。彼氏も他人も生臭い内臓に大差はない。しかし冷静に考えれば、いやそんな考えを巡らせる時点で冷静ではないのだが、世慣れぬ学生がいくらでも使い棄てられるのに三十路間近の未経験者などだれが雇うものか。手に職をつけろとはよくいったものだ。
 いやそんな妄想をしている暇はない。今後の生活はあとまわしだ。駅前に戻ればカプセルホテルも終夜営業のファミレスも漫画喫茶もある、数日なら金は保つ。問題は家財道具だ。私生活の残骸をこのまま放置するわけにはいくまい。日常の場にあったものが屋外に晒されるだけでここまでよそよそしくなれることに明日香は驚いた。思い入れがあったはずの私物はどれも意味を剥奪され、明日香とは無関係なモノとしてそこにあった。どこまでもただひたすらに非現実的で場違いなだけだった。
 独力ではどうにもならない。疲れはてた頭で上京してからの知人、友人を次々に思い浮かべた。あいつは薄情、こいつは口先だけ。あいつは昔なら助けてくれたろうけれど、もう結婚してるから無理……。
 頼れるのは通販時代の同僚ただひとりだが本来は候補から外すべき相手だった。会社が買収される直前に、野生の勘でも働いたのか突如として独立しフリーランスとなった鈴木春子は、アジアと北米と欧州を転々と渡り歩いていて、きのうはパリあすはバンコクという具合、いま地球上のどこにいるか知れない。ソーシャルメディアでのやりとりすら年に数回あるかないか。それでいて明日香は何の予告もなしに、というのも失恋を予期できた試しがないからだが、いきなり春子に泣きついたことが過去に何度もある。真っ先に顔を思い浮かべはしたものの、今度ばかりはただの失恋と異なり生活まで絡んでいる。さすがに遠慮が働き、げんき? とだけ送信した。
 すがりつくかのような心境で返事を待つ一瞬が惨めだった。自分はこれほどまでに身勝手で依存心の強い女だったろうか。緑の吹き出しにすぐさま既読がつき白い吹き出しが浮かび上がって、明日香の心に希望を灯した。げんきもくそもねえよ。びんぼうひまなしだよ。横になって片手で頭を支え、葉のついた小枝で鼻をほじるゴリラのスタンプ。通販時代から変わらぬいつもの春子だった。近い時間帯にいるのか昼夜問わずに活動しているのか。懐かしさに心細さがかえって煽られた。
 いまどこにいると訊かれ、あのぼろアパートだよと答えた。まだ住んでるんだ、とっくに取り壊されたかと思ってた。うん住んでるけどさっき取り壊されたと返信した。常人なら何それと笑われたり二度と返信が来なくなり翌朝から他人扱いされたりするものだが、春子の反応は異なった。
 いまから行く。コーヒーマツモトまだあったっけ?
 もう六年も前に潰れたよ。あの赤いニット帽の歯抜け爺さん、ぎっくり腰で入院してそれきり引退したじゃない。あのミルクコーヒーがもう飲めなくなったってあんた自分で嘆いたの忘れたの。それどころかあの横丁の商店街自体が去年、区画整理でなくなった。あんたがプラハにいたときよ、ううん、それともハノイだっけ……。明日香はわれに返ってフリック操作をやめた。緑色の吹き出しが画面の右側に並ぶばかりだった。いまからって世界のどこからよ。たとえマツモトの爺さんがまだ現役で二十四時間営業だったとしてもあの破れた合皮の椅子で何日も待てないよ。
 希望が寂しさに取って代わられた。いくら遠慮のない間柄でも半年ぶりに挨拶して助けてもらえると考えるほうがどうかしている。
 狭い路地に車が猛烈な勢いで近づいた。明らかに制限速度を超えている。ヘッドライトに照らされた明日香は鞄を抱き締めて胎児のようにからだを丸めた。撥ねられる寸前で軽トラックは停まった。扉が開き身長二メートルはある運転手が降りた。明日香は背を伸ばして相手を見た。
 地球上のどこにいてもハードな筋トレを欠かさないのだろう。鈴木春子の筋肉は最後に逢った二年前よりさらに肥大していた。岸田劉生の麗子像のようなおかっぱ頭。黒タンクトップにはちきれそうなジーンズ、安全靴。下手なアクション俳優やプロレスラーより三倍は体格がよく、さながら巨岩のようだった。はっ、と野太いしわがれ声で春子は笑った。「しょぼくれた顔してるじゃないの」
 明日香は懐かしさと安堵のあまり失禁するかのように泣き出した。
 春子は運転しながらどこかへ電話をして話をつけた。郊外の古道具屋だった。ベニヤ板とトタンとポリカーボネートの波板を打ちつけた掘っ建て小屋のような建物で、屋根や壁の一部はブルーシートで覆われていた。ブリキの看板に書かれた屋号は錆に覆われて読めなかった。扉と呼べるのか怪しい板は開け放たれていた。がらくたとしか思えない品物が詰め込まれた店内は裸電球で照らされていた。
 春子が奥へ向かって叫んだ。豆絞りの手ぬぐいを頭に巻いた革ジャンとアロハシャツの老人が出てきた。訛りの強い日本語のようにも外国語のようにも聞こえる言葉で春子が何かいうと、老人はふりむいて店内に叫んだ。頼りない感じの痩せた青年が出てきて軽トラックの荷台からつい今朝まで明日香の私財だったものを運び出した。春子は老人を相手に金の交渉をはじめた。老人は呆れたように首を振った。春子は岩のような顔で凄んでみせた。
 いいよ、と明日香は筋肉の塊のような春子の腕に手を置いた。「ひきとってくれるだけで助かる。見ると思い出すから一刻も早く処分したいの」
 そんなことだから男に騙されるんだよと春子はぴしゃっといった。明日香は黙った。
 大した金にはならなかったが荷台は空になった。春子は手間賃を断固として受けとらなかった。金に困ってるんだろうと訊かれて明日香は何もいえなかった。
「連絡をよこしたってことは携帯は持ってるんだよな。この時間ならまだ呼べば業者は来てくれるぜ。あんた立派な大人だろう、あたしに頼らなきゃケツも拭けないのかい」
 どこへ行くとも告げずに運転しながら春子は独り言でも呟くかのように諭した。軽トラックは彼女の巨軀で助手席までぎゅうぎゅう詰めだった。体温と汗くさい体臭がじかに伝わってきた。もっと体格に合う車を選べばいいのにと明日香は思った。叱られながら流れる街明かりを見つめるのが心地よかった。護られている気がした。そして同時に旧友の言葉は図星だとも感じた。この歳にもなってこの依存心。
 記憶から消去するように努めてるんだけどと明日香は打ち明けた。上京してひと月は別の部屋に住んでいた。初めてのひとり暮らしで心細かった。段ボールの開封も終えぬうちから知らない電話番号からの着信がつづいた。帰宅すると同時に電話が鳴ったりした。無視すると今度はメールが届く。おかえり、なぜ無視するの。
 犯人は引っ越し業者だった。そのときはまだ春子と出逢っておらずバイト先の先輩が助けてくれた。警察や業者の上司を交えてちょっとした騒ぎになった。身の安全のために泊めてもらった晩にからだを許し、事件が解決したことで恩義も感じてその先輩と付き合いはじめた。間もなくその男は何かにつけて恩に着せるようになり支配的にふるまいはじめた。明日香はだれにも告げずにバイトをやめて転居し、電話番号もメールアドレスも変えた。
 家賃が安ければどこでもいいと決めたのがあの取り壊された部屋だった。
 それ以来、業者を呼ぶのも怖い。落ち度を責められるからあまりいいたくなかったと明日香は泣きながら話した。子供のように止めどなく泣いた。嗚咽で過呼吸になりそうだった。助手席にあったティッシュをたちまちひと箱使いきった。
 ちくしょうと春子は毒づいた。「あんたは男抜きの会話ができる数少ない友だちだったのに。どうしてあたしたち女はそんな風にしか話せないんだ」
「よくも悪くも他人と関わらずには生活できないからでしょ。世界の半分は男なんだもの」
「おまけに連中は残り半分も自分らのものだと思ってる。たしかに稼ぐには益体もない他人と関わらなきゃならない。でも喰っていかれるだけの金を稼いだらあとはだれにも文句をいわれる筋合いはないだろう」
「そうはいかないよ、結婚だってしなきゃいけないし子供だって……」
「それが古い考えなんだよ。むかしはコンビニもインターネットもなかったし世の中が雑だった。稼げなくても虐待しても子供を産むことに決まってた。いまはそうじゃない。稼ぎなり人間性なり社会性なりがよほどしっかりしてる連中だけが次の世代を育てりゃいいんだよ。残りのあたしらはひとりで好きなように生きていいんだ。ぼっち上等だよ」
「孤独死が……」
「ひとりで生きて死ぬのがなぜ悪い。てめえの面倒も見きれないで何が大人だよ。他人に愛されなければ生活していかれないような人間が子供を育てるのかい? ぞっとするね。ところで今夜はどこに泊まるんだ」
「その話をしようと思ってたの。春子んちに泊めてくんない?」
「ここに泊まるつもりなら座って寝るか荷台に寝るかだ。荷台じゃ風邪をひくし座って寝たら体がガチガチになる。若いときならまだしもこの歳じゃさすがに無理だよ」
 明日香は驚いて言葉に詰まった。「車に寝泊まりしてるの?」
「そうだよ。来週にはまたタイに戻る。いちいち部屋を借りるのもばからしいよ。あんた、ひとまず夜行バスで実家に帰んな。折り合いが悪いたって次の仕事が見つかるまで置いてもらうくらいはできるだろ」
「あんたリスベット・サランデルみたいだわ」
「あんな小柄な美少女でも天才ハッカーでもないよ。ただのしがないIT土方さ。最近はちょいと占いもやってる」
「占い? あんたが?」明日香は笑いだした。
 儲かるんだよと春子は本気で傷ついたように抗弁した。
 新宿のバスターミナル近くで降ろしてもらった。混んでるからここからはひとりで歩いていきなと春子はいった。ねえあたしの将来を占ってよと明日香は振り向いてせがんだ。春子は岩のような顔をニヤッと歪めて次のごとく予言し、それから助手席の扉を締めて去った。
 あんたは近いうちに人生を変える出逢いをする。ひとりで生きる方法を学ぶんだ。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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