杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第37回: Rainy Day Women

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.12

 神崎陸が集中治療室にいるとの報せを明日香は実家へ向かう車内で受けた。先週末から青葉市中心部にある清高誠一郎のマンションで暮らしていた。実家やボッチーズのアパートがある地区と先輩の実家はそれぞれ青葉市の両端にあり、どちらも車で二十分ほどかかった。
 先週末をマンションで過ごし、月曜の朝を憂鬱な思いで迎えた。実家に戻りたくなかった。恋人と離れるのが寂しかったからではない。光丘秀蔵の批難がましい視線に耐えられなかったのだ。彼が清高誠一郎をよく思っていないのは明らかだった。美形の同族嫌悪だろうかと明日香は考えた。
 母と愛人との熱愛ぶりには慣れたし、居間を不法占拠することにも何も感じなくなったが、まちがった選択をしたかのような気分にさせられるのは不快だった。さんざん苦労した挙げ句、ようやく手堅い幸運をつかんだ。だれがどう見ても正しい道を歩んでいる。愛人風情に咎められる筋合いはなかった。
 帰り渋る気持が表情に滲み出ていたのだろう。越してくればいいと清高誠一郎にあっさりいわれた。即座に合鍵を手渡された。そのつもりで用意してあったのかもしれない。罠に落ちた気分だったが煩わしく感じるのもおかしいので同意した。
 たとえ憧れの先輩であっても寝食を共にするようになると感動が薄れるものだと考えた。初回以降すべてのデートでも同棲をはじめてからも、さぞかし素敵だろうと夢見たようには一度もならなかった。過去のどの男とも大差なかった。むしろ雑で身勝手で退屈だった。
 十代の夢を理想化しすぎていたのは薄々なりとも自覚していたが、キヨタカ先輩への想いが切実な熱情というよりも、どちらかといえば周囲と話題を合わせるためであったのは忘れていた。何年何組のだれやら運動部の某やらが素敵だとか話していると当時は愉しかった。趣味を難じられぬためにはとりあえず人気の高い男子を挙げておけばよかった。美少年として名高い美術部の先輩は鉄板の安全牌だった。
 義務に応じながら家事の段取りを考えるようになった。食後に美樹と文学を議論する時間のほうがよほどセクシーだった。アパートの掃除からランドリー室の美樹を連想しかけたときには、何か人間としてまちがったことをした気分になって激しく動揺した。顔を合わす機会などもう二度とないのだと気づいて胸が締めつけられた。憧れだったはずの先輩が身代わりの紛い物のように感じられた。
 ふたりの男の違いをあれこれ考えた。キヨタカ先輩のほうが眉目秀麗で常識的できちんとした仕事に就いていて社会性も将来性もある。頭のおかしい大男とは較べ物にならぬ。以上。
 ……そう、較べ物にならぬのだ。
 欧州料理店でひらいて見せられた小箱が大画面テレビの前に目につくように置かれている。部屋のどこにいても何をしていても黒い放射線のような圧迫感をおぼえた。あるいはキヨタカ先輩との仲に集中できぬのもそのせいかもしれない。それは呪いのように感じられた。
 物騒だから片付けてほしいと頼んではみた。身につければいいだろうと一蹴された。ディズニー世界のお城の舞踏会に呼ばれたのでもないかぎりあんな指輪をして出歩けるはずがない。何かの授賞式のために編集者に見立ててもらったミンクのコートで近所に買い物に出ようとした母を思い出した。
 やめてくれと明日香が懇願すると母はだって寒いじゃないと不平面をした。数日前に服の整理をしたばかりでほかに着るものがないという。なぜいま冬の寒いこの時期に必要な服を処分したのかと問えば、だって古くてぼろぼろだったからと母は怒りはじめた。
 明日香がどれだけ懸命に道理を説いたところで母には理解できない。芸術家であることを口実として己の病を甘やかす種類の人間だった。買い物ならあたしが代わりに、と提案すると気分転換に外に出たいのだとごねられた。通学用コートを貸すことで合意したが母はそれから数日ずっと機嫌が悪かった。翌月の連載エッセイにはわがままな娘に苦労している旨が書かれた。
 清高誠一郎の一度決めたら融通が利かぬところは母に似ていると明日香は思った。相手の都合がどうあろうが最後には必ず思い通りにする。自分の論理だけが絶対に正しいと確信しているのだ。同級生たちときゃあきゃあ騒ぎながら後ろ姿を遠巻きに見つめていた頃には予想だにしなかった。シャイで優しげな見た目の下にまさかそのような本性が隠れていようとは。
 あるいは単に歳月が流れたということなのかもしれない。だれであれいつまでも初心うぶで純潔な少年少女ではいられない。明日香にしてもそれなりに世間に揉まれ苦い想いも経験して求婚されるほどの年齢になった。同棲にしても世間を敵にまわすような恋の情熱どころか住居を求めた打算でしかない。好みの味でなくともこんなものだと呑みくだす程度には大人だった。
「わざわざ心配させる必要はないとヤンパチはいうんだ」マシューの声は取り乱していた。雨と走行音で聞きとりにくかった。「どうせすぐによくなるし権田原さんはもうアパートを出たんだからって。ぼくが教えたのは内緒にしてよね」
 周囲で何が起きていようともどこ吹く風で食事をする陸や、美彌子が帰宅した後の騒霊現象を思い浮かべて明日香は胸を痛めた。陸がそのような目に遭っていたときに自分がどこで何をしていたかを思い出して胸が苦しくなった。すぐに連絡がなかった事実に傷つけられもした。
「容態は。何があったの」
 マシューがいい淀んだ理由に明日香は気づかなかった。愚かな奇癖のために陸が命を落としかけた。それが答えを聞いた彼女の認識だった。だれかがやめさせるべきだったと腹を立てたが、そのだれかに自分は含まれなかった。結局のところ明日香は神崎陸を哀れむべき障害者としか見ていなかったのだ。彼の知能指数やこれまでに得てきた収入を知れば決してそのようには考えなかったろう。
「例の機械が暴走したんだ。締めつける力が強すぎた。田辺君がすぐに気づいてプラグを引き抜いた。機械から助け出すのに十五分かかった。ヤンパチが運転してぼくが緊急病院を探した。まだ意識は戻らない」
 マシューは泣いていた。強引に入院先を聞き出して明日香は茫然と通話を終えた。何かあったのかと清高誠一郎に問われた。さほど関心のある口調ではなかった。ううん何でもと明日香はかぶりを振った。
 狭い坂道を幾度も右折し左折した。懐かしいアパートが雨に煙っていた。三叉路に建つ煉瓦とコンクリートの奇妙な歴史建築。その窓にボッチーズとあきらの幻影が見えた。遺影でしか知らぬ光丘たえまでもが明日香に笑いかけていた。田辺美樹は二階正面の窓から値踏みするような目で見ていた。そんな目で見ないでと明日香は思った。それらの幻影は一瞬でかき消えた。
「引き返して」
「え?」
「友だちが大怪我したの。さっきの電話。市立病院に向かってほしい。お願い」
「お母さんとの約束はどうする」
 清高誠一郎は呆れたようにいった。わがままな子供を宥めるような口調だった。いまさら予定を変えるなんて莫迦げているとでもいいたげだった。アパートは背後に遠ざかった。明日香は扉を解錠して外に出ようとした。清高誠一郎は叫んで急ブレーキをかけた。道路は幸い空いていた。後続車はクラクションさえ鳴らさず悠然と泥水を散らして通過した。
「市立病院」と明日香はいった。
「わかった。落ち着け。新車なんだ」
 清高誠一郎は再び車を出した。明日香は狂人を値踏みするような視線をバックミラー越しに感じた。また失恋しようともどうでもよかった。どのみち求婚さえ受け入れていない。この男と子を成すにせよ成さぬにせよ、いまは神崎陸が心配だった。
「その入院したお友だちってだれなの」
「家族みたいなひと」
「だったら紹介して……」
「ずっと歳上だけど弟みたいな。無口だけど輪の中心にいる。ほっとけないのよ」
「男か」
「性別はね。先輩の想像するような男じゃない」
「いい加減その呼び方はやめてくれ。もう卒業して十年以上……」
「どう呼ぼうが勝手でしょう。それで人間が決まるわけじゃない。大切な友だちなの。それだけ」
 清高誠一郎はそれ以上何もいわなかった。とりあえずは触れぬことに決めたらしい。賢明な判断だと明日香は思った。説明したところで理解できまい。ボッチーズのことはこれまでにも何度か説明しようとした。そのたびに彼は無関心を隠そうともせず、愚かな子供をあしらうかのように話題を換えた。自分の知らない世界を明日香が持っていることを理解しようともしなかった。価値がないと決めつけていた。
 いまもまったく女は気まぐれでわがままだから困る、とでも考えているのだろう。他人の都合で予定が変わるのがおもしろくないのだ。早く用事を済ませてほしそうだった。明日香は左の窓に流れる雨の景色を眺めた。運転席の男の迷惑そうな顔つきを見たくなかった。
 愉しかった頃の食卓に座る神崎陸を、そして田辺美樹の顔を思い描いた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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