北緯三八度五九分五秒、西経七七度六分四七秒、メリーランド州モンゴメリー郡。ベトザタの池に由来する名前を与えられたベセスダ。半ドーム型の建物の隅に置かれたパイプ椅子に腰掛けたマイケル・ジャベスは真鍮製のビールジョッキのようなカップに手を伸ばした。ジャベスの向かいに腰掛けるウィリアム・ボブロウが「ずっと不思議に思っていたのだけれど、それは何ガロン入るんだい?」と尋ねると、ジャベスが即座に「1クォート」と答えた。ジャベスは細長い首を握り拳で軽く叩き
「知っているかい? 液量ガロンが世界中で嫌われているってことをさ」
「この国と同じように?」
 ジャベスが笑い、歯列矯正の針金が見えた。それから、短く刈った栗色の髪を撫でる。その様子を、ボブロウは間の抜けた顔で見ている。口を閉じたジャベスがカップを握ったまま横を向いた。つられるようにボブロウも横を向き、巨大なゾウムシのような機械を見た。ジャベスが言う。
「この機械について知っているかい?」
「これでも書類上は君の秘書なんだ。君が設計した機械」
 ジャベスは首を縦に振り「ぼくの父さんはイラクで戦死した。装甲車の車列にロケット弾が着弾してね。同じ車両に乗っていた戦友はかすり傷だったそうだ」
「テロリストが憎いかい?」
「憎くないと言ったら嘘になる。でも、そのテロリストも死んでいるだろう。ぼくの故郷について話したことはあったかな?」
「テキサス州のダラス」
「素晴らしい。君はテキサスと聞いたら何を想像する? 銃が大好きなカウボーイ。保守的な人が多いと考えるだろう。おおむねその通りだ。ダラスは田舎ではないけれど、やっぱりテキサスなんだ。ぼくは日曜日が嫌いだった。日曜日になると隣に住んでいたお祖母さんの家に挨拶しに行かなくちゃいけなかった。お祖母さんのことは好きだけれど、バケツみたいに大きな紙パックに入ったアイスクリームやレモネードは嫌いだった。お祖母さんはクッキーを焼いてくれた。バターがたっぷり練り込まれていて、力任せに圧し潰されたクッキーは三枚食べると胸やけするようなものだった。でも、大好きだった。耳元で母さんが囁くんだ。〈二枚までにしておきなさい〉ってね」
「そういう生活に縁がなかったボクには羨ましく聞こえるよ」
「君の父さんはウォール街の投資家たちの間では有名だ。それに、大学に多額の寄付をした」
 ボブロウが皮肉っぽい調子で「だから、入学できた」と言うと、ジャベスは口をすぼませ、僅かに首を傾げて「だからといって、成績は買えない」
「君の助力がなければテストはパスできなかった」
「恩人に乾杯といこう。コーヒーなのが残念だけれど」
「構わないよ。まったく問題ない」
 二人はコーヒーを啜り、カップをテーブルに置いた。ジャベスが言う。
「祖父の話をしよう。祖父は変わった人だ」
「君みたいに?」
「そう。ぼくみたい。でも変人っぷりでは、ぼく以上。祖父と祖母は、まだ父さんがお腹の中にいる時に離婚した。祖父は離婚してからも、すぐ近くの家を借りて住んでいた。祖父の仕事は……」
 ジャベスの動きが止まり、顎に手をやった。彼は細長い首を捻って目を逸らす。
「耕運機を改造したんだ。なにって、ドラッグ。耕運機をドラッグ製造機に改造したんだ。ドラッグ製造機を完成させた祖父は意気揚々。耕運機だったモノをトラックに載せ、エンジンを吹かしてメキシコを目指した。だけど、国境付近で逮捕された。祖父は父さんが大人になって軍人になるまで刑務所暮らしだったし、出所してからも品行方正とは言えなかった。地下室でポルノ映画を上映しては小遣い稼ぎしていたし、ぼくと大して年齢が離れていない女の子と関係を持った」
「違法だね」
「そう、違法。どんな時代でも肯定されないようなことだ」
「肯定されちゃいけないことだよ」
 ジャベスが笑い、歯列矯正の針金が見えた。短く刈った髪とキリンのように長い首を撫でた。ジャベスは巨大なゾウムシのような機械を見ながら言う。
「この機械は書類上〈VM1〉という。Vは暴力を連想させるから嫌だったのだけれど、押し切られてしまったよ。〈VM1〉は軍事衛星を介して対象を攻撃する。先に言っておくが、これは大量破壊兵器じゃない。破壊力は低いんだ。しかし、これは兵器開発史……いや、歴史の大きな分岐点になる。何年か前、インターネット上にDNAサンプルを登録すると、はるか昔の遠縁関係がわかるという遊びがあったけれど、覚えているかい?」
 ボブロウがうなずいた。ジャベスは満足げな顔で言う。
「これは、あのゲームの延長線上にある兵器なんだ。つまり、対象となる人物に僅かでも近いDNAサンプルがあれば、遠戚関係を割り出し、インターネットを介して対象の居場所を突き止めることができる。そこまでくれば、あとは無人偵察機の爆撃で終わりにすることもできるけれど、ぼくは無人偵察機が嫌いでね。あれは誤爆が多すぎるよ。だからこそ、あの頭みたいな突起、量子レーザーの出番だ。これは軍事衛星の誘導で発射されるから誤爆はない。最小限で最大の効果が得られる。もう少し実験を重ねて精度を上げれば、世界中の独裁者たちは慄くだろう」
 ジャベスはカップを人差し指で突き、エオリアン・ハープのような音が響いた。
「機械の名前の話に戻そう。ぼくはこれの名前を〈Q〉にしたかった。〈Q〉……問いたかった。ぼくという存在、奇妙な事柄、複雑に絡んだ糸と現実の関連性について。ぼくたちは何処に向かっているのだろう? 何をすべきなのだろう? どうして存在しているのだろう? これらは古典的な哲学の領域のように感じられるよね。とんでもない、今でも重要なことさ。二〇〇〇年前の人類、たとえば古代ローマ人とぼくたちの脳の重さは変わらない。ぼくたちはインターネットで気軽にモノを調べるし、インターネット上に自分の欲望や不満をさらけ出す快楽を知っている。神はモーセに〈汝、インターネット上に欲望を書き込むことなかれ〉と授けなかったから、そこまで悪いことじゃないのかも知れない。SNSで会ったことがない、これから会うこともない人たちと情報や記憶の断片、つまりはプライバシーを共有してネットワークを築く。つまり、繋がる。君はドナルド・トランプとヒラリー・クリントン、どちらに投票した? SNSで違う考えの人たちと繋がりたいと思う? 同じような趣向を持った人との繋がりを優先させ、違う考えの人を遠ざけようとすることは、ぼくが大嫌いな心理学では〈ホモフィリー〉と呼ぶ。これはヒトが進化の過程で身に着けたものだから、人類学者が名付けて欲しかったね。まぁ、それはいいとして。ぼくたちは色々な手段を知っている。知りすぎているぐらいだ。古代の人びとはどうだろう? 道具や医療は乏しく、文字が読める人は今よりもうんと少なかっただろう。でも、彼らが知ることのできる限界はぼくたちと変わりない。つまり、書き残されず、今では残っていないことを知っていた。ぼくたちは進歩したのかな? 血で血を洗うこと、戦争が止む気配はまるでないのに」
ボブロウが「ぼくは君のように頭が良いわけじゃないからキチンとしたことは言えないけれど、進歩していると思うよ」と言うと、ジャベスは細長い首を傾けた。ボブロウにはそれが肯定なのか否定なのかわからず、そのことについて尋ねようとすると、ジャベスが口を開いた。
「ファラリスの雄牛を知っているかい?」
「なんだい?」
「古代ギリシアの処刑道具。真鍮でできているんだ。雄牛の形になっていて、腹の部分には人が入る。あとは火を焚いて、中にいる人間を炙り殺す。頭部のあたりには細工がしてあって、中から声を出すと牛が鳴いているように聞こえるそうだ」
 ボブロウが「へぇ」とうなずき、ジャベスは〈VM1〉の起動スイッチを押した。ジャベスが笑い、歯列矯正の針金が見えた。ラボに昆虫の羽音のような音が響き渡り、半ドーム型の屋根は横に滑って真っ青の空が露わになった。空を仰ぎ見たジャベスが額に触れ、白衣が揺れた。
「雄牛はペリロスという男がつくった。この男は自身の最高傑作を僭主ファラリスに自慢したそうだ。興味を引いたのだろう。最初に鳴き声を上げたのはペリロス。そして、最後に鳴き声を上げたのはファラリスだった」
 ジャベスは咳払いすると、ボブロウを見た。
「これから大きな戦争が起きる。とても大きな戦争だ。それは、はじめは中東での小規模な武力衝突からはじまるだろう。海峡が封鎖され、瞬く間に戦火は誰も見たことがない規模になる。君はこんな変わり者のぼくに付き合ってくれた、たった一人の友人だ。本当に感謝している。もっとキチンとしたことを言いたかったが、ぼくにはこれぐらいが限界らしい。南か西を目指すんだ。違う。もっと……」

 巨大なゾウムシが耳障りな音を立て、澄み切った空からジェイコブの梯子のような光のカーテンがおりる。ジャベスは歯列矯正の針金を残して消え去った。

― イラン海軍、ホルムズ海峡を封鎖 ニューヨーク・タイムズ紙 -


作家、ジャズピアニスト、画家。同人誌サークル「ロクス・ソルス」主催者。代表作『暈』『コロナの時代の愛』など。『☆』は人格OverDrive誌上での連載完結後、一部で熱狂的な支持を得た。
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