人格OverDrive さんで連載されている 『血と言葉』 を読み終えた。
この感想文は説明のために多少のネタバレを含んでいるから、 まっさらな状態で 『血と言葉』 のことを知りたいよ!って人は、 web で無料公開されている今のうちに読んでおくといい。
さてさて。 初見では 「第 9 話 : 手製の銃 (1)」 で持ってかれちゃった♡
いや、 1 話から 4 話までいっきに読み始めたとき 「これ、 好きかも⋯」 という予感はあった。 あったけど、 9 話はね、 ちありに持ってかれた。 全部。
詳しいあらすじとかは紹介しません。 多分それをしたところで、 読書感想を書いて楽しいかっていうと違うんだよね。 そして読書感想文を読む人も、 あらすじを知りたいわけではないような気がする。
web での連載は章ごとに 4 話ずつ区切られている。 それぞれ (1) ~ (4) まで。
雨の夜 (1) は主人公である辻凰馬から見た女生徒、 海堂ちありの行動が書かれているんだけど、 彼女の凰馬に対する近づき方がすごくリアル!
いや、 多分実際、 こういう近づきかたしかできないと思うんだよ。 生徒からしたら。
明確な拒絶を示されたちありは (2) で強硬手段にでるけど、 凰馬の拒絶の仕方については 「下手をうったな⋯」 という感じがした。 ちありに対する 「自分に近づくな」 というメタメッセージは完全にカリギュラ効果⋯⋯。
余談だけど、 人の好意を転がすのが上手な人は、 相手がとりたがっている 「コミュニケーション」 を相手をしゃべらせることで (自分のことはあまり話さずに) 満足させつつ会話を適度に切り上げることができるんだよね。
凰馬はそのあたりのあしらいが下手。
■幼馴染みの日
ちありの幼馴染み、 遊田将大が出てくる。
小説が進むごとに 「雨の夜」 でも存在だけは出てきていた 「ちありの母親」 が重要な位置を占めることになるんだけど、 もうここからこの母親の魔力的な要素が見えていて怖い。
幼い遊田少年に娘を託したのは、 なぜだったんだろうと読み進めて思ってしまう。 だってどう考えても愛情とは思えないというか。
殺伐とした関係性のなかで数学教師の青山とその妻である絵梨子だけが平和で、 こういう言い方はどうかと思うけど 「正しい」 感じがする。 そして彼らがいるからこそ、 ちありと凰馬と遊田の関係というか、 むしろそれぞれの存在のしかたがいびつな印象を受ける。
■手製の銃
はい、 きましたー!
私が読んだ瞬間 「ぎゃー!」 と身もだえした回が (1) です!
(1) は前半がテロ実行犯の独白。 そして後半にちあり目線に話になり、 ちありが凰馬に執着するきっかけが語られる。
男の言葉はそれまでのだれとも違った。 生き方を男に否定されたと感じた。 無知を見透かされた気がした。
第 9 話 : 手製の銃 (1)
あるいはそのために近づいたのかもしれなかった。 自分を変える力に曝されるために。
第 9 話 : 手製の銃 (1)
何が自分を惹きつけるのか知りたかった。
第 9 話 : 手製の銃 (1)
これらがね、 完全に恋なんだけども、 ものすごく恋の本質をついている感じなんだけども!
だいたいね、 なにがきっかけであろうとも、 多くの人間のなかで生活していて、 そのなかのたった一人の人間のことだけがものすごく気になってずっとずっと頭から離れないという脳みその異常状態に、 人は 「恋」 という名前をつけているわけですよ!
その人間のことをなにも知らないにもかかわらず、 というか知らないからこそ知りたくなる。
ちありの感覚としては 「彼は私の知らない”何か”を知っている」 という確信があってそこに惹かれているけれども、 それ自体、 恋が作り出すちありの妄想なわけですよ! 凰馬が隠しているもの、 凰馬によって隠された秘密、 それらを暴いて自分のものにしたいっていう欲望が恋なんです!
(以上早口) はーはー。
『血と言葉』 はちありと凰馬の関係を軸にして物語が進んでいくので、 ちありの凰馬に対する感情は重要だと思うんだけど、 この 「恋」 という基盤の脆さにちありが無自覚でそこがまたいい⋯⋯。
(4) では凰馬はちありとの結婚をほのめかす。 ちありが成人してもその気があれば、 という条件付きではあるけれど。
一般的に 「恋」 の寿命は短い。 自分でも制御できないような感情の動きが現れるのは、 せいぜい半年くらい。
凰馬はそれを知っているから、 もしふたりの関係が一過性のものでなく、 今とは別の在り方でつながることができたなら、 そういう未来もあると示唆した。
だけどねぇ! 正直、 凰馬はずるい男ですよ!
青山は優しい男だというけれど、 受け入れるフリして、 この男は 1 ミリも自分を変える気がないですからね!
「恋をする」 っていうのは自分を知ることですよ。 相手に対する自分のエゴに驚いてどうしてこうなってしまうのかという葛藤を経験することですよ。 凰馬にはそれがない。 ないのに結婚とか言っちゃうんですよ。 しかもちありに判断を委ねてるんですよ。 諦め込みで。
こんなね、 剥いても剥いても中身がどこにあるかわからない男にハマったら大変なんです!
(以上早口) はーはー。
それはそれとして 「手製の銃」 は、 物語というか事件の全貌が徐々に明らかになっていく重要な回で、 どこを切り取ってもヒントがちりばめられていて面白い。
■女たち
ちありのわかりやすい直球の恋心に肩入れしているせいもあるが、 新垣センセのやり方はちょっと怖いんだよな。 正論を自分の欲望の盾にして、 相手を追い詰めるところなんかが。
どちらがどちらを搾取しているのかなんて当事者でさえわからない。 他人が口を挟んでも看過しても暴力になる。
第 14 話 : 女たち (2)
人間の関係っていうのはなかなか完全な対等っていうのは難しくて、 どうしたってそこに傾斜が生まれてしまう。
私は適度に迷惑をかけあうのが、 健全な人間関係のような気がしている。 持ちつ持たれつ。 それをひとりの人間に対してやるのではなく、 なるべく多くの人に対して分散すること。 友人を多く持つことのメリットというのはそういうことだと思う。 それぞれの得意分野でちょっとだけチカラを貸してもらったりする。 相手が困っていたら、 自分もできる範囲でチカラになる。
搾取と暴力というのは濃密な二者関係で起こりやすい。 他のだれにも開かれていない閉じた関係でよく起こる気がする。 他の誰にもこのふたりが共有しているものがわからない、 という関係だ。 もしくは片方がそう思い込む関係。
(3) ではちありの母親、 千里が登場する。
「女たち」 というタイトルのなかに含まれるのは、 ちあり、 新垣、 千里である。 絵梨子は入っていない。 絵梨子が女性ではないという意味ではなく、 多分彼女が築こうとする関係やコミュニケーションには 「搾取や暴力」 の要素が薄いということだと思う。
■洗脳
この章の意味、 はじめは千里のことだと思ったし実際はそこはあながち間違ってないんだけど、 遊田のことが含まれているような気がする⋯⋯。
「幼馴染みの日」 で遊田は千里からちありを頼まれているんだが、 あれが一種の千里による遊田への洗脳だったんじゃないかなって。 千里のちありへの愛情からというより、 自分が何か発言すること行動することで、 自分がどれくらい他者に影響を与えることができるのか、 ということを遊田で推し量っていたんではないだろうか。 ある種の実験の対象として遊田が選ばれていたんじゃないかって気がする。
遊田が抱いているちありへの感情って恋とか愛情とかそういう感じがしないのよね⋯⋯庇護欲?
■集う日
精神的支柱というか庇護する対象を失った遊田が (2) で荒れていくのを見るのはちょっと辛いな。
遊田にとって、 自分に好意を寄せてくる女生徒っていうのは全く 「顔」 の見えない幽霊みたいな存在だ。 だけど、 幼馴染みでちありに一番近い場所にいると思っていた自分の存在が、 ちありにとって同じようなその他大勢に成り下がっていたというは相当ショックが大きいよね。
まあだからといって、 遊田の行為が許されるのかっていうと全くそれは別問題で、 人を自分の憂さ晴らしに使っちゃダメなのよ。
カントも言ってる。 人間は 「単に手段としてのみ用いられるものではなく、 あらゆる行為において常に目的自体として見られねばならない」 って。
(3) はちありと凰馬のやり取りがね、 ちありの精神的決別みたいなのを感じていいよね。 凰馬はそれを促す発言をして、 彼女を自立させようとしている。
色んなものを手放そうとしている凰馬と、 それを察知して自分だけは先生の傍にいたいと思うちありの健気な気持ちが交差するこのシーン、 好きです。
■報いと赦し
怒涛の最終章。 めちゃくちゃバイオレンスで気持ちがいい。
この小説は最初からけっこう張りつめた雰囲気というか閉塞感があるので、 最後にこれだけ派手にやりあうとスカッとする。
とはいえ私がこの感想で追っているのは常にちありっていうね。
(1) では母親である千里の計画に気づき始め、 父親に相談の電話をかけるけど軽くあしらわれてしまう。 自分の人生を選んだことに罪悪感をおぼえているみたいだけど、 ええんやで! 親に遠慮なんかせず、 自分の生きたい生き方をしてもええんやで! (何故か突然の関西弁) と叫びたい。 子どもは親の持ち物でも道具でもないんだから。
あと冷たいようだけど、 相手を傷つけてしまうことと、 相手が勝手が傷つくことはイコールではないので、 娘が勝手に母親のところへ行った事実でちありのおとうちゃんが傷つくのはおとうちゃんの勝手なんじゃないかしら? と思うわけです。
それにしてもちありのおとうちゃんである宗介の、 千里に対する妄信みたいなものはほとんど千里による洗脳だね。
これまでは画面に表示される数万の記号にすぎなかった。 それが実体となって現れた。 血と肉と骨を備え、 熱と体臭を放って呼吸し、 動いている。
先生の言葉があたしの手を離れて独り歩きしている。
第 26 話 : 報いと赦し (2)
(2) でぐっときたのはここだなぁ。
若いときの自信と無鉄砲さって、 目に見える色んなものを 「数字」 と 「記号」 にして、 それを自分のチカラでコントロールできるって思ってしまうことなんだよね。 それが思考的にローコストで、 万能感が得られるから。
でも実際には数字や記号の向こうには個人がいて、 それぞれ肉体という延長をもって、 思考している。 その複雑さはローコストで思考できないし、 個人でコントロールもできない。
あと祖父の亡霊はもうひとりの凰馬っぽいですね。 祖父の形をとっているだけで。
そして (4) 最終回のちありが良かった。
凰馬の生活をなぞって生きていく。 彼のいた生活空間で、 彼の気配の名残を感じながら、 あの部屋で文章を紡ぐ。
やっていることは第二の凰馬という感じなんだけど、 そこにいるのがちありってだけで、 私はこのあとのちありはあの部屋をちゃんと思い出にできるって想像してしまう。
気配が消え、 匂いが消え、 あるときそのことにちあり自身が気づいて愕然としても、 もうそのときにはちあり自身で紡いだ彼女が文章があって彼女を作っている。
事件の記憶はそのまま彼女の 「血と言葉」 となる。 だからちありは大丈夫な気がする。
あと遊田。 なんかこの子は絶妙な位置にいるよね。 「凰馬にとって青山」 がいたみたいに 「ちありにとっての遊田」 みたいな立ち位置に今後なりそうと思った。
色恋にはならないだろうけど、 事件の記憶を共有しながら、 なんだかんだ 「ちゃんと飯食ってるのか」 とか 「本読んだぞ」 とか核心に触れない世話焼きなことを言ってきそう。 そんでたまに余計なこと言ってちありに睨まれそう。
ラストの真打。 よかった。 もう良かった以外の感想がない。
■最後に
書いていてずっと思っていたんだけど、 この小説は誰目線で切り取るかによって、 もう全然感想が違うような気がする。
新垣センセのやり方が怖いって書いたけど、 自分の欲望に正論を糊塗して押し通す邪悪さも実はわかる。 新垣センセは自分の邪悪さに気づいてないけど、 それは彼女が邪悪さが全ての人間に向くわけじゃなくて、 特定の人間にピンポイントに向くからだ。
そういう二者間での暴力と搾取は、 至るところにある。
それらを 「あるもの」 として引き受けてしまっても 「忌避するもの」 として扱っても、 暴力に加担する結果になることがある。 そうすると、 暴力の構造を明るみにして戦うことしか選択肢がないんじゃないかって。
凰馬はこの事件で結果的に自分が本当に死ぬことになっても構わなかったんだと思う。 ホントにこの人は、 ズルくて悪い男だよ⋯⋯。
(※注釈はすべて編集部)