ぼっちの帝国
by: 杜 昌彦
「正しさ」の押しつけは、もういらない。
コールセンター勤務の明日香はささいな揉めごとから28歳にして無職に。彼氏のはずの年下男にはほかに彼女がいて、アパートは取り壊され帰る場所もない。ひょんなことから昭和モダン建築アパートの住み込み管理人となった明日香だが……。笑いあり涙ありアクションあり、殺人事件からカーチェイスまで全部入り。生きづらさを抱えるすべてのひとに贈る、爆笑と鬱の恋愛エンターテインメント小説!(2019年作)
在庫切れ
「正しさ」の押しつけは、もういらない。
コールセンター勤務の明日香はささいな揉めごとから28歳にして無職に。彼氏のはずの年下男にはほかに彼女がいて、アパートは取り壊され帰る場所もない。ひょんなことから昭和モダン建築アパートの住み込み管理人となった明日香だが……。笑いあり涙ありアクションあり、殺人事件からカーチェイスまで全部入り。生きづらさを抱えるすべてのひとに贈る、爆笑と鬱の恋愛エンターテインメント小説!(2019年作)
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昔ひとり暮らししていた頃、 部屋に来た男に 「本が多すぎるよ。 段ボール一箱以内に減らせ。 これじゃ結婚できないよ」 と言われた。
これが私にとって死刑宣告にも等しい言葉であることは、 この駄文をお読みくださっている皆さんならよくお分かりいただけると思う。 普通に泣いた。 「そんなことをしたら死んでしまうよ」 と言ったら間髪入れずに 「死なないよ!」 と返ってきた。 肉体的には死ななくても心が死ぬのだが、 それを分かってくれるような人ではなかった。 それだけが原因ではないけれどその男とはもちろんうまくいかなかった。
非モテの私ではあるがそれなりの年月を生きてきたので、 出会いもあれば別れもあった。 プロポーズされた男からは全力で逃げた。 結婚願望がなかったわけではない。 そいつとは無理だったからだ。 互いに全く気が合わないのは分かっていて、 それでも互いに世間体を保ちたいだけで付き合っていた。 三十代始めでその関係をぶっちぎって、 ひとりで生きてひとりで死ぬ覚悟を決めた。 その覚悟は今も私の胸に刻まれている。
杜昌彦氏の小説 『ぼっちの帝国』 を読んで、 思い出したのはその頃のことだった。
仕事の派遣先でモメて契約を切られ彼氏に捨てられ財布の中身も帰る部屋もなくし全てを失って帰郷した主人公の権田原明日香は、 謎のアパートでの住み込みの家政婦の職を得る。 アパートの住人は無愛想な作家だの女性を連れ込みまくるデブだのヤンキーのゲイだの引きこもりだの怪しいやつらばかり。 変なおっさん達は独身中年男性向けの新たなウェブマガジン兼ソーシャルメディアを立ち上げようとしているらしい。
戸惑いながらも変なやつらと新しい仕事に慣れていく明日香は、 一方で地元の同級生たちとも再会し友達付き合いをしていく。 自分は二十代後半にもなって独身で変な仕事について全然普通にできていないのに、 地元の友達は皆ちゃんと結婚して家庭を築いている。 取り残されたような明日香の気持ちは私にもよく分かる。 私もそうだったし、 この気持ちは男女中性共に一定の年齢を過ぎても独身のひとは多かれ少なかれ感じたことがあるはずだ。 そんな明日香の前に、 少女漫画なら理想のカップルになれるようなスペックの男が現れる。 高校時代に片思いしていた憧れの先輩だ。 これが少女漫画なら即めでたしめでたしのハッピーエンドなのだが、 そうはいかないのが杜作品で⋯⋯。
杜氏によるとこの作品の書名は村田基 『フェミニズムの帝国』 からきているという。 私はその本を読んでいないのではっきりしたことはいえないのだが、 この作品の言わんとしていることは結局、 思想的な何かというよりも 「自由に生きていいんだよ」 というシンプルなメッセージだろう。 この物語はまず第一に読んで楽しいエンターテインメント作品だ。 明日香が住み込むことになる怪しい屋敷とそこの怪しい住人たち。 彼らが展開しようとするウェブサービス。 明日香の周りの奇妙で魅力的な人物たちが同じ屋根の下で付かず離れず暮らしていく様子、 やがてその関係が変わっていく息つくような展開は、 どんどん苦しくなっていくのに、 いやむしろそうなっていくからこそ、 目が離せず読むのを止めることができない。
なんとなく惹かれる気になるひと。 高校の同級生だったおっさん達の濃密な関係性。 孤独な作家と愛されたことのない子どもの強い信頼。 全面的な親愛の情をくれる老婆。 信頼しあうひととひととのつながりには 「普通」 「常識」 「社会」 「世間体」 といった規範のみで縛られたような歪さはない。 自立した個人と個人の心の結びつきがある。 いま 「個人」 と書いたがどうもしっくりこない。 「孤」 と 「孤」 という感じがする。 ひとは本来誰もが誰でもないたったひとりの自分だ。 誰もが孤独だ。 彼らはその孤独をまるごと抱えて生き、 基本的にはそれぞれ独立したひとりでありながら、 時にそれぞれの孤独を抱える他人と共鳴し寄り添いあう。 互いを個として認め、 時にはぶつかり合っても踏み込むべきではない線はきっちり引き、 それでも越えなければいけないときは踏み込み、 ひとりで生きていきながら共に伴走するかのように物語を駆け抜けていく。
物語の中盤から明日香は自分らしさを取り上げられ何かに縛られていく。 それは周囲の人々だけのせいだろうか。 もしも彼らに植え付けられた思想や常識が違っていたら、 誰が誰を縛ることもなかったのではないか。 私達は簡単に 「普通」 と口にする。 「普通」 ってなんだろう。 なんとなく漠然と多くの人のイメージする 「普通」 がある。 安定した職につき遅くとも三十代までには結婚して子どもを二人くらい産み育て郊外に一軒家を買って暮らす、 というような。 家電やら洗剤やらの CM に登場しそうな 「普通に幸せな家庭」 のイメージ。 たかだか戦後数十年の間にできたもののはずなのに、 それができないひとの居場所はここにはないとでも言わんばかりの頑強なイメージ。 自然にそうできるひとは素晴らしい。 価値観の合うひとと出会い共に歩む人生はかけがえのないものだ。 私の出会った素敵なご夫婦は皆さんそういう感じなので、 そんな素晴らしい人生もあるということは分かる。 だけど、 それに当てはまる生き方が、 どうしてもできない人間がいる。 私もそうだ。 結婚もできなかったが仕事もできるほうではない。 みんなができることを私はできない。 私は 「普通」 に当てはまらないから、 幸せではないのだろうか。 おかしいな、 自分では自由気ままに生きてとても楽しいのに、 どうしてみんな私をそんな哀れむような目でみるのだろう。
「普通」 という概念は案外強いもので、 気にしていないつもりでも、 振り払ってうまく逃げおおせたつもりでも、 いつのまにか脳裏に芽生えている。 明日香がそんな 「普通」 にからめとられ縛られていく苦しい中盤からのラストの展開は、 凍てつく冬を越えた先に雲間から差す春の日差しのような温かさがある。 なんの打算も役得もなく、 ただ互いが互いであるからこそ大切に思いあえる仲間の存在の得難さが胸に染み渡る。
私は生産性のない生き方をしていることに、 今でも引け目のようなものは感じている。 自分の好きなことだけをする生き方が許されるのは、 私が自由な独身貴族だからだ。 好きな仕事をして趣味にかまけてふらふら遊んでばかりの私は、 色々な場面でいたたまれない気持ちになることが度々ある。
だけど、 私にそんなふうに思わせているのは、 いったい何なんだろう。 誰なんだろう。
読書や古本市を楽しむことは無為なのか。 文章を書くことは無為なのか。 当たり前の社会人としての要件を満たしていない自分には、 気兼ねなく楽しいことを楽しむことも許されないのか。 社会にとって生産性がある活動でなければ、 おこなうことは許されないのか。
そうじゃない! そんなはずないんだ! という叫びが、 『ぼっちの帝国』 という作品の根底にある。
自分の違和感を信じろ。 行きたいほうに行け! という力強い肯定がある。
かつて私が悩みながら震えながら出した答えがそこにあった。 私の生き方は、 やっぱり私にとっては間違っていなかったのだ。
いまだに根強く残る 「普通」 にさらされて居心地の悪い思いをしながら必死に生きているひとみんなに、 この物語を読んでほしい。
そんなふうに思っているのは、 あなただけじゃない。