妄想中年日記

連載第113回: 導線の先

書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2018.
02.08Thu

導線の先

インターネットでの客層やクリックのされやすさは明らかに偏っている。そこでは手間をかけずにつくられ消費される話題性のあるもの、クリックされやすいように表示されたもの、往々にして粗悪で醜いものが是とされる。是とされることで利益を得るひとびとにもっぱら発言力がある。そのためそうしたものが正義とされクリックされやすく表示されやすくなる。クリックは雪だるま式にさらなるクリックを招き、そうでないものを埋もれさせる。そのようにして正義は強化される。

廃棄されるはずだった原料に薬品で味と色と風味をつけて数十円で売る商品にも駄菓子のよさがある。粗悪な本にもそうしたものとしての価値はあるだろう。けれどもそればかりが唯一絶対とされ、そうでないものが排除されるのであればやはり歪んでいる。駄菓子は駄菓子であっていいし、森永や明治の大量生産も、ゴディバのような高級品も、名匠と目される一流パティシエの作品も、おばあちゃんの手づくりもあっていい。それぞれが価値や魅力を発揮できるようでなければならない。

ところがクリック率こそが価値である社会では「わかりやすい」もの以外は存在を許されない。人生は往々にして「わかりにくい」ものであり、それゆえに疎外されたひとびとのために本はある。本は手間をかけてつくられ長い時間をかけて読まれる。内面と向き合う作業であり交流とは相容れない。ソーシャルでの立ちまわりとクリック率がものをいう現代では分が悪い。せいぜいが寄ってたかって嘲笑され貶められるだけだ。

インターネットと親和性のないものをインターネットで売るにはどうするか。まずひとつは導線となる書評だ。すでに多くの試みがなされているが現状では導かれる先がどうもぼんやりしている。Kindleの商品ページであってもいいのだけれども著者や出版社に結びつける方法はないものか。逆に出版社が著者サイトや書評へのポータルとなるのがいいかもしれない。あるいは編集者が。ただ撮られただけではフィルムは映画にならない。独自のものの見方で世界を切り取ることが本を本たらしめる。顔や名前を積極的に出し、ソーシャルに立ちふるまって伝道する目利きがいてもいい。おれが惚れ込んで編集した本だからいいに決まっている、くらい言い放つ編集者がいてもいい。

導かれる先には著者がいなければならない。しかしそれはまちがってもソーシャルな立ちふるまいではありえない。著者の仕事は書くことで、それは交流と相反するものだ。媚びたり空気を読んだり顔を使い分けたり、暴力に荷担したりするために書くのではない。ましてや幼稚な自己愛のためではない。恥知らずの素人たちと同次元に堕ちてはならない。インターネットに居場所を見つけられないようなひとたちのために書かねばならない。読書とはひとりで生きるしたたかさであり、書くことも出版もそれを担保する仕事にほかならない。


杜 昌彦

(Masahiko Mori, 1975年6月18日 -)著者、出版者。出版レーベル「人格OverDrive」主宰。2010年から六年間、ヘリベマルヲ名義で自主出版活動を行う。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにてウェブディレクター・佐々木大輔氏から「注目の『セルフパブリッシング狂』10人」に選ばれた。