編集日記

連載第95回: 淘汰される読書

書いた人: ヘリマル, タグ:
2017.
11.27Mon

淘汰される読書

『アーダ』の「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を眺めていて気づいた。Kindle版と印刷版でサジェストされる本が異なる。印刷版は頷ける本が並んでいるのにKindle版は早川書房のSF作品ばかり並んでいる。Kindle版と印刷版では読まれる文脈が異なるのだ。『アーダ』も早川だし広義のSFだからわからなくはない。そういう文脈で読むのも当然ありだろう。Kindle版の購入者が早川SFをよく読んでいるのは不思議ではないし、読まれている以上は関連づけられもするだろう。しかしナボコフにいかにもなSFばかり関連づけられ、それ以外の文脈が排除されるのは違和感がある。読まれ方に偏りがあるのだ。

翻訳小説のKindle化は早川書房が率先してすすめてきた。アーヴィングやクレストブックスがKindle化されたのはつい最近だ。SFを除く海外文学の読者にはまだKindleで読む習慣が広まっていない。以前からKindle化されやすかったのはアニメやゲームを好む読者を想定したコンテンツだった。おそらくSFもまた現在はゲームやアニメの読者によって多く読まれている。このサイトの客層の変化から判断しても、体感としても、電子書籍のユーザは読書よりもアニメとゲームを好む層が多い印象があった。アニメやゲームを貶したいわけではない。それは単に表現手段の違いでしかない。しかし手段が違えば狙い所も異なり、価値観も変わってくる。アニメやゲームと同じものを期待されたら小説は適切に読まれない。不幸な出逢いが生じる。

SF小説のほうでもナボコフが表示されるのであれば、例えばの話だが、「ナボコフ的なコンテンツ」が「ゲーム・アニメ愛好者的な客層」にサジェストされる可能性がある。結果、ゲームやアニメに期待するものを文学作品に見出そうとしてミスマッチが生じ、「ナボコフ的なコンテンツ」は貶められるかもしれない。また逆に、(こちらのほうがありそうな話だが)「ナボコフ的なコンテンツ」に親和性のある層がB級SFを手にし、失望して読書に飽きてしまうかもしれない。くどいようだけれどもゲームやアニメが悪いというのではない。ミスマッチによって価値が毀損される可能性について書いている。

Amazonでは売れたものが表示され、表示されるものが売れる。売りものが限られていれば限られたものばかり表示される。結果、それがどんなものであれ限られたものばかりが売れる。売れるから表示されてますます売れ、そればかり表示されるようになるのでそればかり売れ、ほかのものは表示されなくなり売れなくなる。結果として偏ったコンテンツへの導線ばかりが増大する。Kindleが読書ではなくアニメ・ゲームを愛好する層にばかり親和性があるとすれば、Kindle版のサジェストに印刷版のフィードバックが取り入れられないことは、読書において不適切な文脈を生成する畏れがある。Amazonのアルゴリズムは塵のような偏りを雪だるま式に膨れ上がらせる。そのようにしてひとたびフラッシュクラッシュが起きれば、読書のあるべき文脈や価値は「淘汰」されるだろう。

インターネットのユーザと「ナボコフ的なコンテンツ(実際のナボコフがどうであるかはさておき)」は相性が悪い印象がある。インターネットで喜ばれるのはソーシャルで共有し消費できるネタだ。自分がいかに他人と同じであるかを演出して社会に受け入れられるのを目的とし、そのための手段・ツールとしてネタを消費する。アニメやゲームもある意味でそこに含まれる。一方で読書は個を希求する。本は綴(閉)じられていてソーシャルなネタとは本質的に相容れない。インターネットではソーシャルと相反するものが存在してはならない。「みんな同じだから幸福」の幻想を脅かすからだ。だから躍起となって個の価値を貶める。性暴力サバイバーの苦悩を中二病の必殺技にしてしまう。

電子書籍はウェブの延長上にある。パッケージ(綴/閉じられていること、可搬性)は便宜上、概念に従ったに過ぎない。概念が顧みられなくなれば必然ではなくなる。Eコマースである以上Amazonはインターネットに最適化されている。彼らの影響力を思えばインターネット文化との親和性が出版の未来を決めるのだろう。そしてその文化は、自分を他人と同じに見せる「共有」を尊ぶ。それこそが読書の価値ということになれば、これからの本はあなた自身であることを許さないかもしれない。それはおれが信じてきた読書とは真逆のありようだ。本をKindle版で読もうとする以上、そのような圧力を感じざるを得ない。


ヘリマル

ゆかいな犬