仲俣暁生さんの文章にすごいことがサラッと書かれていた。 本を 「サービス」 と定義してるんだ。 衝撃を受けた。 そんなふうに考えたことはなかった。 本はウェブのポータブル版だと思ってた。 持ち運ぶためにパッケージ化されたウェブが本だと。 でもいわれてみれば 2015 年現在、 おれはかなり多くの本をブックパスで読んでいる。 それは携帯端末に最適化されたウェブサービスであってそれ以外の何物でもない。 au に五百数十円を支払えば読む権利が得られる。 それらの本は可搬性もないし所有もできない。 そもそも本なんて贅沢品を所有できるのは金持だけだ。 おれの部屋に書棚はない。 独房みたいに何もない。 ベッドと椅子と mac を載せる小さな台、 二千円のスピーカー、 フロアスタンドが全財産だ。 いったいどこに本を置くというのだ。 滅多に買わない紙の本は読み終えれば棄てる。 借りた本なら図書館に返す。 また読み返したければ借り直す。 処分されてるときもある。 流行のベストセラーを棚に並べるためにおれの大好きな本は棄てられるよりほかない。 買おうと思っても絶版になってる。 電子書籍は⋯⋯だれだよ絶版にならないなんていったやつ。 ウェブサービスである以上、 提供が終了することもある。 たとえばおれの冗談本 『インディーズ書籍宣言』 はもう手に入らない。 おれが絶版にした。 読めなかったやつ残念でした。 著者にその気がなくてもビッグブラザーの機嫌を損ねて消されるってこともある。 おれの本が今後そうならない保証もない。 なったら自力で配信する。 当サイト 「人格 OverDrive」 は本でありウェブサービスでもある。 なんにせよ本との出逢いは一期一会だ。 読めるとき読んどかなきゃ消失する。 サービスだからな。
実家に世界文学全集があった。 六十年代末の出版物だ。 母が病院で心理療法士をやってた若いとき、 あるいは旧帝大の院生の頃かもしれん、 いつか子育てを終えて生活に余裕が出たら読もうと、 苦労して金を溜め込んでやっとの思いで買ったのだ。 それらの本は一度もひらかれることはなかった。 サイコと結婚したからだ。 見つからないようにしまいこまれたきりになった。 親戚中をたらい回しにされ、 愛に飢えて育った彼女が夢見たのと、 現実の家庭は真逆だった。 生まれた子どもは脳障害だった。 おれが読もうとしたとき本は読める状態ではなくなっていた。 湿気でページがはりつき強烈な黴の臭いがした。 本はサービスだ。 楽しめるとき楽しまなければ失われる。 あの文学全集は惨めな人生の象徴だった。 孫に囲まれて笑っていられたはずの年齢に、 白内障を手術する金もなく、 サイコの夫に脅えて彼女は暮らしている。 めちゃくちゃな家庭のために人生をしくじった子どもたちは、 いまどこにいるかもわからない。 まぁじつは長男はおなじ市内にいるんだけどな。 遠くへ行く金も仕事にありつく能力もない。 母と最後に会ったのは震災前だ。 家族でただひとり意思疎通のできた妹とも連絡は絶えた。 罪悪感にとらわれないよう気をつけている。 息子が健常者だったならあんなに不幸ではなかったかもしれない。 でもおれを生贄にしたのもあの女だ。 おれのせいじゃない。 おれのせいじゃなかった。